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2023年08月27日「生きた水」

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聖句のアイコン聖書の言葉

37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章37節~39節

原稿のアイコンメッセージ

仙台育英が負けた。
事前の予想では仙台育英有利だったが、結局は打たれて負けた。
今回の決勝戦は地方出身の私としては、地方対中央の戦いに見えた。
慶應は107年ぶりの優勝で、ベスト4に残ったのも102年ぶりということだし、野球の強豪校であったとは言えないけれども、あの大応援団もあって、仙台育英は決勝までに強豪とばかり試合を組まれてきたこともあって、仙台育英が逆風に立ち向かっているように見えた。
試合が終わった後、もう少しだけ見ていようと思ってテレビを消さないでいると、慶應の主将がインタビューに答えていて、たまたまそれを聞けたのが良かった。
慶應の主将は、「『自分たちは高校野球を変える』と言ってやってきたけれども、笑われ続けてきた。でも、『いつか見返してやるぞ』という気持ちで頑張ってきた。今日、それが報われた」と言った。
実は彼らもチャレンジャーだった。
その志が、スポーツ推薦のない学校を日本一にしたのだろう。
挑戦する人が通らなければならない道というものがあるように思う。
仙台育英も、甲子園で優勝すると言っても真面目に聞いてもらえなかったことだってあっただろうと思う。
東北の高校は去年まで、甲子園で優勝したことが一度もなかった。
100年以上誰もできなかったことを自分がやると言ったら、笑われるのが当たり前。
そして、イエスもガリラヤ出身。
ガリラヤというのは「周囲」という意味の言葉。
中央に対する周囲。
東北をみちのく、と言うのと同じ感覚。
しかも、イエスは先生について聖書を学んだということもない。
反発を招くこともあった。
自分の家族から疎ましく思われることだってあった。
しかし、そこであきらめない。

今日、イエスは、立ち上がって大声で叫んだ。
この時代の先生は座って教えたが、立ち上がった。
大声で叫んだ。
チャレンジャー。
そして、言った。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
この日は、祭りが最も盛大に祝われる日。
祭りに来ている人たちは皆、一心に祝福を求めている。
その人たち、渇いている人たちに、私のところに祝福がある、と大声で言う。
ということは、祭りには本当の祝福はないということでもあるのだろう。
祭りは形式的なもので、本当の祝福はご自分にある、とイエスは言う。

この辺りの話は、このお祭りがどういうお祭りなのかを知らないと分かりにくい。
この祭りは仮庵祭という秋の祭り。
秋の祭りなので収穫祭でもあるが、仮庵というのはテントのことで、エジプトで奴隷だったイスラエルの人々が、エジプトを脱出して約束の地に向かって旅をしていく途中、テントで生活したので、それを思い起こして、テント暮らしをしながら祝う祭り。
その祭りの中で、町の外にある池で水を汲んで、その水を神殿の祭壇に注ぐという儀式がある。
これは、イスラエルの人たちが約束の地に向かって旅をしていく途中で、イスラエルの人たちのリーダーだったモーセが杖で岩を打つと水が出て、人々の渇きが癒されたことを思い起こす儀式。
またこの祭りは、来年の春の収穫も豊かであるように祈るという雨乞いの儀式でもあった。
そして、それだけでなく、聖書と結びついた、また別の意味も込められていた。
旧約聖書のゼカリヤ書14章8節、旧約聖書の1494ページに、こういう御言葉がある。
「その日、エルサレムから命の水が湧き出で
半分は東の海へ
半分は西の海へ向かい
夏も冬も流れ続ける」。
祭壇に注ぐ水は、「エルサレムから命の水が湧き出で」と言われている、「命の水」。
ゼカリヤ書では、その水が湧き出でるのは「その日」ということで、これは世の終わりを意味する言葉。
世の終わりに実現することなので、この祭りにおいて神殿で注がれるその水は、本当のところ命の水ではない。
形式的なこと。
そこにおいて、イエスは叫んだ。
今、私があなたがたに、本物の命の水を与える。
そのことを、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とイエスは言ったが、これも実は聖書の言葉。
旧約聖書のイザヤ書55章1節、旧約聖書の1152ページ。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。
これが神の御心。
神は渇いている人を招いてくださり、無償で、誰にでも与えてくださる。
その御心で、イエスは、渇いている人を招き、飲ませてくださる。

では、イエスのところに来るとはどういうことか。
イエスはこう言っている。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
イエスのところに来るとは、イエスを信じること。
信じて、求めること。
そして、その水は、渇きを癒すだけではない。
その水を飲んだ人自身から水が湧き出して、周りを潤すようになる。

ではこの水が何なのかと言うと、聖霊のこと。
39節で、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」と言われている。
聖霊を受けると、聖霊の働きによって、渇きがいやされ、周囲の人たちも潤されていく。
それが聖霊の御力。
聖霊がそれをしてくださる。
ではそれはいつ実現するのか。

39節の後半にはこう書かれている。
「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」。
その時は、イエスが栄光を受ける時。
栄光を受ける時、と聞くと、輝かしい時を想像するが、神の栄光は人の栄光とは違う、というのが聖書。
イエスが栄光を受けるのは十字架において。
死刑にされる時が、栄光を受ける時だと聖書は言う。
イエスには罪はない。
むしろ、罪のない人を十字架につけた罪が、人間の側にある。
いや、人間というのはそもそも罪人である、神に従うことができない者である、というのが聖書。
ただ、イエスは、そのような人間たちを前にして、暴力を受けても、偽りの裁判を受けさせられても、何も言わなかった。
人間の罪を引き受けて、本来罰を受けるべき人間の代わりに罰を受ける。
十字架の上でも、人々の罪の赦しを祈る。
そのようにして世の終わりの裁きから人を救う。
それは神の子イエスにしかできないこと。
そして、十字架の後に、神はイエスを復活させた。
そして、その後には天に上げられた。
まさに神の栄光を受けた。
イエスが御心に適う振る舞いをし続けたから、神はイエスに栄光を与えた。

そして、聖霊が降るのはイエスが栄光を受けた後。
イエスが天に昇る前に、神が約束してくださった聖霊を弟子たちに転から降すと言ってくださっていた。
その聖霊が降ったのが、使徒言行録の2章、ペンテコステの出来事において。
イエスを信じて待って祈っていた弟子たちに、聖霊が降った。
イエスを信じることはイエスのところに来ることで、そうするなら、イエスが命の水を飲ませてくださる。
それが、聖霊を与えられるということ。
イエスはそのことを弟子たちに対して、あなたがたは聖霊による洗礼を受けると言っていた。
洗礼という言葉は原文では「どっぷり浸かる」という言葉。
聖霊にどっぷり浸かる。
だから、洗礼を受けると聖霊が降る。
使徒言行録にはそのようなことがたくさん記録されている。
洗礼を受けると聖霊が降ったという出来事がたくさん書かれている。
洗礼を受けた人は聖霊を受けている。
そして、聖霊の働きによって渇きを癒され、周囲の人たちも潤されるということが起こってきているはず。

あまりそれを感じないという人もいるかもしれない。
それは、もしかすると、聖霊の働き以外の、他の何かに渇きを癒してもらおうとしているのかもしれない。
今日の場面は、祭りが最も盛大に祝われる終わりの日のことだった。
人々が大勢集まっていた。
祭りに来ている人たちは皆、一心に祝福を求めていた。
その意味で、その人たちは渇いていたと言える。
しかし、イエスは、渇いている人はわたしのところに来なさいと言った。
祭りは形式に過ぎない。
しかし、私たちも形だけのものに渇きが癒されることを求めてしまうことがないとは言えない。
実際、祭りに参加した人たちは、いくらかは渇きが癒された気持ちになったのではないか。
しかしそれでは、本当の意味で渇きが癒されたことにはならない、とイエスは言っている。

今日の話と重なるような話を、イエスは4章でしていた。
サマリアの女との対話。
4章13節で、イエスは言っていた。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く」。
ここで言う「この水」というのは井戸の水。
井戸の水は飲んでもまた渇く。
しかし、私たちは、井戸の水のようなものを求め続けることに慣れてしまっていないか。
この世には井戸の水のようなものがいくらでもある。
井戸の水は必要だが、そればかり求めていると、本質を見失ってしまう。

おそらく、私たちは、まず最初に、本当のところ自分が何に渇いているのかを知らなければならない。
以前、難民キャンプに伝道した日本人の宣教師の動画を見たことがある。
難民キャンプというのは、住む場所を奪われた人たちが身を寄せ合って暮らしているところで、本当にこの世の罪の現実を思い知らされる場所。
考えられる限り最も希望のない場所。
その場所に日本人の宣教師が入っていく。
そうすると、子どもたちが一斉に群がってきた。
その子どもたちは皆、笑顔。
そして、中国人だと間違えて、「你好、你好」と声をかけてくる。
小さい子どもが宣教師の足にしがみついて離れない。
そして、どこまでも付いてくる。
それに対して、日本の子どもたちはどうだろうかと思わされた。
あんなふうに、ずっと笑顔で、ずっと大声で話をしている子どもなんて、今の日本にはいない。
日本の子どもはテレビを見ているか、ゲームをしているか……。
私が子どもの頃からそういうことが言われていた。
そして、そこで自分が渇いていることに気付くのは難しい。
日本の子どもたちに、渇いているか、と聞いても、渇いているとは言わないだろう。
テレビも楽しいと言えば楽しいし、ゲームも楽しいと言えば楽しいし。
ただそこで、難民キャンプの子どもたちを思い出す。
難民キャンプの子どもたちは何も持っていないのに、底抜けに明るかった。
もちろん、難民キャンプは良い場所ではない。
日本人の宣教師が、そこの子どもたちに質問した。
「将来、どんな大人になりたいか」。
一人の子どもが答えた。
「生きていたい」。
ほんの小さな子どもがそう言った。
どれだけ渇いているのか。

もちろん、日本の子どもたちや難民キャンプというのは、極端な例かもしれない。
ただ、マザーテレサはこういうことを言っている。
「私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。
また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人をもたないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう」。
私たちは、それほどの苦しみを味わっていないかもしれない。
しかし、それでも、思う。
十分に愛されている人というのはいるのか。
ある精神科医が言っている。
「私たちが子どもの頃、親から受け取ったものは愛ではなかった。良いことをするとほめられる、可愛がられる。それは良いことをしたことに対する報酬であって、愛ではない」。
そして、それは、どこへ行ってもおおむね同じではないか。
私たちは皆、渇いている。
イエスのところに行って、イエスを信じて、聖霊をいただきたい。
聖霊に満たされると、私たちは渇きを癒され、私たちから始まって、周囲の人たちも渇きを癒されていく。

甲子園で仙台育英は最後、負けたが、良いニュースも聞こえてきた。
仙台に帰ってきた選手たちを出迎えるために2,000人以上の人が仙台駅に集まったということ。
去年優勝した時に集まったのは1,000人だったそう。
それが今回、準優勝で2,000人。
選手たちはどれくらいうれしかっただろうか。
仙台育英の監督が言っていた。
「選手たちにとって最高の教育」。
監督も嬉しかっただろう。
聖霊の働きというのはそういうものだろうと思う。
ただ、選手たちにとっても監督にとっても、そのことはその時だけのこと。
彼らはまた、勝つための努力を続けて行かなくてはならない。
そのことに終わりはない。
そしてそれは、どの人の人生もある意味同じだろう。
だからこそ私たちは、私たちの一番奥深いところで私たちの渇きを癒してくださるイエスに、求めたい。
それはおそらく人からの何かで癒されるということはないはず。
それを、イエスに求めたい。
そうするなら、イエスは応えてくださる。
私たちは今日、そのような御言葉を聞いた。

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