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2023年08月21日「遣わされた者」

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聖句のアイコン聖書の言葉

25さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。26あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。27しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」28すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。29わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」30人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。31しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章25節~36節

原稿のアイコンメッセージ

色々な人たちがイエスのことを色々に言う。
この時は、エルサレムの人々がイエスについて話していた。
この人たちは、イエスを殺そうとしている国会議員たちではない。
エルサレムの町の人。
そして、町の人は、国会議員たちがイエスを殺そうとしていることを知っていた。
これはなかなかすごい状況。
国会議員たちが殺人を計画しているのに、町の人たちがそれはおかしいと言わない。
どうしてそんなことになってしまったのかというと、イエスが安息日の決まりを破った。
安息日はユダヤ人にとってどんなお祭りの日よりも一番大事な日。
仕事を休んで心を神に向ける日。
その日に、イエスは仕事をした。
イエスがこの時にしたことは人を癒すことで、人を癒してはいけないと聖書に書かれているわけではない。
聖書に書かれている安息日にしてはいけない仕事というのは4つのことだけ。
けれども、後の時代に人間の方で、これも仕事になる、あれも仕事になるということで合計613も、してはいけない仕事をリストアップした。
とにかく、議員たちからすると、イエスは一番大事な日である安息日の決まりを破った。
そして、それだけでなく、イエスは神を父と呼んだ。
神が父なら、その子も神。
イエスはご自分を神であると宣言したのと同じこと。
これは神を冒涜することであると受け取られた。
そして、そのような罪は死刑になる。
エルサレムの町の人たちも、そういうことを知っていたから、国会議員がイエスを殺そうとしていることを知っても、何も言わなかった。

ただここでエルサレムの人たちが言っていることは興味深い。
イエスは公然と話していた。
けれども、議員たちはイエスを捕まえに来ない。
それを見て、町の人たちは、もしかして議員たちはイエスがメシアだと認めたのではないかと考えた。
メシアというのは、旧約聖書に書かれている、いつか現れると約束されていた、神からの救い主。
イエスがメシアだとしたら、殺すわけにもいかなくなる。
しかし、町の人たちはこうも言っている。
「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
つまり、イエスはやっぱりメシアではない、と考えた。
人々にとってメシアとはどういう者だったか。
メシアというのは、誰にも知られないまま、ある時、突然現れると考える人たちがいた。
それは、自分勝手にそう考えたわけでもない。
旧約聖書にはメシアとはこういう者であると書かれているところがたくさんある。
その一つ、例えばマラキ書3章1節などで、メシアは突然現れるということが言われている。
そして、突然現れるということなんだったら、そのメシアのそれまでのことなんて何も知らないはずだ、と想像した。
でも、私たちはイエスの出身地を知っている、だから、イエスはメシアではない、と言った。

しかし、この考え方は正しいのか。
確かに、メシアは突然現れると書いてあるところが聖書にある。
ただそれは必ずしも、出身地を知らないということではないだろう。
その人がメシアだとは誰も考えていなかったけれども、実はそうだったということが突然明らかになる、ということ。
そういうことだったとしても、突然現れると言っていい。
世の中で、「彗星のごとく現れたアイドル」などと騒がれる人がいるが、その人の出身地が知られていたら、突然現れたことにならないかというと、そういう問題ではない。

大体、旧約聖書には、メシアはベツレヘムで生まれると書かれている。
そのことが新約聖書でも、クリスマスの場面に出てくる。
今日の場面の少し後の41節にも出てくる。
そこでは、人々は、メシアはベツレヘムで生まれる、ガリラヤではない、と言っている。
イエスはガリラヤで育ったのでこう言われる。
ただ、出身地が分かっているということは問題ではない。
メシアの出身地はベツレヘムだと聖書に書かれている。
けれども、突然現れる、と聞くと、人知を超越したようにして、スーパーマンが登場するようなイメージを持ってしまう。
その結果、全員がそう考えていたわけではないが、出身地を知っていたらメシアではない、と考える人が出てきてしまう。
つまり、人間の側でねじ曲げてしまう。
これは安息日の決まりについても同じ。
神に心を向けるのが大事なのに、仕事をしたことにならないかどうかということばかり意識して、心が神に向かわない。
イエスが人を癒した。
神の御力が現れたのに、心が神に向かわない。
仕事をしたということで、イエスを攻撃する。
人間が神の言葉をねじ曲げてしまう。
神の言葉を忘れて、自分の判断を重んじてしまう。
そして、ねじ曲げてしまっているのに、自分では気づかない。
それどころか、自分では正しく判断した気になっている。
そしてそこに、そもそもの間違いがある。
神からの救い主を判断する資格が自分にあると思っている。
全部自分中心。
聖書はそれが人間の罪だと言っている。

とにかく人々はイエスはメシアではないと言ったが、イエスは突然現れた、と言える。
イエスは30歳までは神の働きは何もしていなかった。
30歳で突然、人々に神の御心を伝えるようになり、奇跡を起こすようになった。
これは突然現れたことにならないか。
また、育ったのはガリラヤのナザレだが、生まれたのはベツレヘム。
これで違うと言えるだろうか。

そこでイエスは人々に反論した。
どのように反論したのか。
大声で言った。
大事なことを言う。
「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。」
人々はイエスがガリラヤの出身だと思っていた。
しかし、それに対して、「いや、わたしはベツレヘムで生まれた」と言い返したわけではない。
出身地よりも大事なことを言った。
イエスは自分がそもそもどこから来たのかを問題にした。
そのことを知らない限り、イエスを知ったことにはならない。
出身地がガリラヤであろうと、ベツレヘムであろうと、神から遣わされたのでなければ、メシアではない。
イエスは言った。
「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

ここでいよいよ、ユダヤ人たちはイエスを捕えようとした。
しかし、捕えようとしたが、手を出すことはできなかった。
どうしてか。
イエスの時がまだ来ていなかったから。
だから、捕まえようとしてもそれは実現しない。
ここにはイエスを支持する人たちもいた。
その人たちは、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言っていた。
この人たちは、奇跡を判断基準にしている。
しかしそれも、考え方としては正しくない。
判断基準は、神から遣わされたかどうか。
ただ、この人たちはイエスを支持してはいる。
支持者がいたから、手を出すことができなかったのか。
その人たちに遠慮して手を出さなかったわけではない。
人間の意志ではない。
人間の意志を超えた神の意思があって、神が定めた時がある。
その時が来ない限り、人間がどのような意志を持ったとしても、それは実現しない。

ただ、イエスをメシアではないかと考える人々がいることを知ったユダヤ教の権力者たちは、黙っていられない。
イエスを捕えるために下役たちを遣わした。
この下役たちというのは、神殿の警備員。
しかし、それでも、イエスを捕まえるということにはならなかった。
時が来ていなかったから。

まだ時が来ていないことを、イエスはこのように言っている。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
こんな言い方では聞いている人には分からない。
ユダヤ人たちはかろうじて、イエスがどこかに行くということは理解できた。
そして、探しても見つけられない、来ることもできない、ということから、それはきっと遠くで、ユダヤ人ではなく異邦人相手に教えるのかと考えた。
ユダヤ人は異邦人と付き合いをしない。
異邦人と接触すること自体が穢れだと考えられていた。
だから、異邦人に教えに行くのなら、ユダヤ人は見つけられない、来ることもできない。
当時、ユダヤ人たちは色々な所に散らばって住んでいたので、ユダヤ人が住んでいる所に行って、そこで生活しながらギリシャ人に教えるのか、と考えた。
つまり、色々考えをこねくり回して、とにかくイエスは外国に行って活動するのかと考えた。

イエスが言っていることはそういうことではない。
イエスは、「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と言った。
十字架と復活、そして、天に昇られたこと。
それがイエスの時。
その時が来るまでは、どんな人が何を考えてどう行動しようと、それは実現しない。
実現するのは、神が定めた時。
イエスを殺そうとする人たちはこの福音書の5章からいたのに、それがずっと後になるのはそういうこと。
そして、十字架の時も、人の意思が実現したということではない。
人の意思を超えて、神の意志で、その時がやってくる。
その時、イエスを殺そうとしていた人たちは、その時が祭りの時だったから、祭りの間はやめておこうと決めていた。
ただ、その時、裏切り者が出て、イエスの居場所が知れたので、急遽捕まえようということになった。
イエスをつけ狙っていた者たちの意思が勝利したということではない。
人の意思に反して、神の意志が実現した。

私たちも、神の意志を知らなければならない。
イエスを遣わした神の御心を知らなくては、私たちはイエスを見い出すことはできないし、イエスのもとに来ることもできない。
これは私たちにも当てはまること。

では、私たちは何によって神の御心を知ることができるか。
今日の人々は、イエスについてある程度知っていて、その上であれこれと言っていた。
しかし、イエスについて知っていても、神の御心はまるで分かっていなかった。
それは弟子たちも同じ。
イエスと一緒に生活して、他の人々以上にイエスを知っていて、たくさんの奇跡を見ても、たくさん教えを聞いても、弟子たちはイエスが逮捕されると逃げ出した。
イエスについての知識も、奇跡も、教えも、神の御心を知るためには役に立たない。

では私たちはどのようにして神の御心を知ることができるのか。
私たちが神の御心を知ることができるのは、神が定めたイエスの時。
イエスの時は御心が実現する時であり、その時にこそ、何が御心かを知ることができる。
イエスの時とはどのような時か。
十字架と復活、そして、天に昇られた時。
そのことを通して、神が私たちを愛しておられること、私たちが自分の罪、人の罪に苦しんでいるところから、私たちを救い出したいと願ってくださっていること、そのために独り子イエス・キリストを遣わしてくださったこと、十字架にかかることをも良しとしてくださったこと、それほどまでに私たちを愛してくださっていることが分かる。
それが御心であり、これは、私たちがいくら考えをこねくり回しても分からないこと。

そして、その時というのは最後の最後の時。
最後の最後に本当のことが分かるということはある。
そして、まだこの時には、イエスを愛しているはずの弟子たちですら、分かっていなかった。
ずっとイエスと一緒に生活して、一緒に行動していた弟子たちでも、分かっていなかった。
弟子たちは何も、分からないと思いながら従っていたわけではないだろう。
イエスのことを理解していると思っていただろう。
しかし、分かっていなかった。
そのことが最後の最後に明らかになった。
いやむしろ、最後にならなければ分からないと言うべきかもしれない。

ある人のお父さんが亡くなった時、兄弟三人で遺産相続をした。
お父さんがとても大事にしていた金庫があるが、頑丈な金庫であり、お母さんも既に亡くなっていて、その鍵の在りかが分からない。
兄弟三人が自分のパートナーも連れて六人で集まり、皆の見ている前で鍵の専門家に金庫を開けてもらうことにした。
開くのを待つ間、兄弟三人で、お父さんの思い出話をした。
兄弟三人には、お父さんについての良い思い出がほとんどなかった。
お父さんはとても厳格で、とにかく仕事一筋で、なおかつ倹約家で、家族旅行に連れて行ってもらったこともほとんど無かった。
一番下の弟が言った。
「ということは、相当ため込んでいるんじゃないか」。
すると真ん中の弟も言った。
「そういや親父は、よく夜中に金庫の前でニヤニヤしていたぞ」。
鍵が開いた。
長男が扉を開けた。
まず中から出てきたのは古びた100点満点のテストの答案。
もちろん、息子のもの。
次に出てきたのは何かの表彰状。
これももちろん、息子のもの。
その次に出てきたのは一本のネクタイ。
息子たちがプレゼントしたものだった。
次々と昔の品物が出て来て、最後に出て来たのは、子どもの頃家の前で撮った家族の集合写真だった。
仕事の書類もお金になるものも、何一つ出てこなかった。
全部息子たちの記念だった。
お父さんはそれを、大事に大事に金庫の中にしまっていた。
それを見ていた長男の奥さんがたまりかねて泣き出した。
皆こらえ切れずに泣き始めた。
泣くのを止められなかった。
父の心の奥底にあったのは、子どもたちへの愛だった。
その愛に触れながら、ずっとそばにいたのに、父のことを何にも知らないで生きてきた、父のことを何も理解してこなかった、ということに心が痛んだ。

最後の最後にならないと、分からないことというのはある。
今日の時点では、弟子たちも分かっていない。
ただ、弟子たちもまだ知らないでいることを、私たちは知っている。
神がどれほど私たちを愛しておられるか。
私たちと永遠に共にいたいと思っておられるほど、私たちを愛している。
神の金庫には、どんなものがしまわれているだろうか。

大事なことは、神がどれほど私たちを愛しておられるかを知ること。
神がどれほどの思いで、私たちを失いたくない、救い出したい、共にいたいと思っておられるか。
そのことこそ、私たちが知るべきこと。
そのことに心を向けたい。

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