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2023年08月07日「どこから出た教えか」

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聖句のアイコン聖書の言葉

14祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。15ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、16イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。17この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。18自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。19モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」20群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」21イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。22しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。23モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。24うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章14節~24節

原稿のアイコンメッセージ

こっそりエルサレムに上ったイエスだが、この時、イエスは人々に教え始められた。
この祭りは8日間かけて祝う。
イエスは今まで3、4日間は大人しくしていたが、ここでご自分の働きを始められた。
その教えを聞いていた人たちは言った。
「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。
私たちがこの言葉を聞くと、「この人は誰にも学ばずにこれだけのことを言えるのは立派だ」と言っているようにも聞こえるが、これはイエスをほめてそう言っているのではない。
この人たちは確かに、イエスが聖書を詳しく知っていることは認めている。
しかし、この時代、聖書の学びというのは、先生に弟子入りして教えを受けるものだった。
独学で聖書を学ぶということをしても、誰にも信用されなかった。
聖書を学ぶということは神の御心を知ろうとすることなので、人間が自分勝手に聖書を読んでしまうことが一番良くないことだから。
これはもちろんその通り。
そして、そのために、自己流にならないために、先生に弟子入りして聖書を学んだ。
そして、先生である律法学者たちも、そこに気を付けて、自分が教える時に、必ず、誰それという偉い先生もこう言っている、という形で教えた。
現代では、オリジナルな神学というものが注目を集めることもあるが、この時代は違う。
今までに築き上げられてきた解釈の伝統に沿っていなければ信用されなかった。
もちろん現代でも、これはオリジナルというよりも自分勝手な解釈で、道を外れているということがあるが、この時代は現代よりもストライク・ゾーンがずいぶん狭かった。
要するに人々はイエスの教えを、勝手な解釈なんじゃないの、と疑った。
それに対して、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」。
自分の教えではない、自分勝手な解釈ではない、と答えた。
イエスの教えは神から直接教わった、神の御心だから。
最初から勝手な解釈にはならない。

イエスは続けて、あなたがたがそう疑うのは、話している私に問題があるのではなく、聞いているあなたがたに問題がある、と指摘する。
「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」。
つまり、あなたがたは神の御心を行おうとしていない。
だから、わたしの教えが神から出たものなのか、私が勝手に話しているのか、見分けがつかない。
これは私たちにとっても大事なことが言われている。
神の御心を行おうとする時に、初めて、イエスの教えが神の教えだと理解できる。
私たちは、神の御心を行おうとしているだろうか。
ここで大事なのは、神の御心を「行おうとする」者、と言われている。
神の御心を「行った」者、ではない。
神の御心を「行うことができる」者、でもない。
だからここは自分なりのやり方でいい。
自分なりに、何かの形で神の御心を行おうとすること。
私たちがそうであるなら、イエスはこの世の先生とは違う、神から直接聞いた教えを伝えている、ということが分かる。
ということは、神の御心を行おうとする、というのは、ハードルの高いことではない。
イエスの教えが神の教えだと思っている人は、神の御心を行おうとする人。
何かで大きな業績を上げなければならないとか、そういうことではない。

イエスは続けて、神から出た教えと人間が勝手に語っている教えを見分ける方法も教えている。
「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」。
自分の栄光を求めているのか、自分をお遣わしになった方の栄光を求めているのか。
これはいつでもどこでも当てはまること。
自分の栄光を求める人には真実がない。
自分の栄光のためではなく、自分をお遣わしになった方の栄光を求める、つまり、誰かに何かに仕える精神で働く人こそ、真実な人であり、その人には不義がない。
これはいつでもどこでも当てはまることだろう。

そして、これらの話はつながっている。
自分をお遣わしになった方の栄光を求める者というのは、すぐ前の、神の御心を行おうとする者というのと同じ。
神の御心を行うということは、神の栄光を求めてのことだから。
そして、神の御心を行おうとする者には、それが神の教えかどうか、聞けば分かるということだった。
こうなってくると、ここでの話は、これは話をする人のこと、これは話を聞く人のこと、と区別するようなことではない。
話をする人も聞く人も、神の栄光を求めているのか、自分の栄光を求めているのかが区別される。
真実なのか不義なのかが区別される。
人間にはそのどちらかしかない。

この時代の人々は熱心に聖書を読んでいた。
そのことをイエスも言っている。
「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか」。
律法というのは、旧約聖書の最初の五つの本。
これが旧約聖書で一番大事な部分だとされていた。
この律法は神からモーセを通してイスラエルの人々に与えられたと表現するのが正しいが、人々は偉大な指導者だったモーセを尊敬して、モーセが自分たちに与えたと言っていた。
そして、自分たちが律法を持っていることを自分たちの栄光としていた。
しかし、それでは神の教えは分からない。

ここでイエスは、あなたたちはだれもその律法を守らない、と指摘する。
「なぜ、わたしを殺そうとするのか」。
これは、律法の中に書かれている十戒の一つに「殺してはならない」という言葉があるので、それを取り上げている。
人々はそんなことはないと言うが、ユダヤ人たちはすでに5章18節の時から、イエスを殺そうとねらうようになっていた。
どうしてかというと、安息日に人をいやしたから。
38年間、病気で満足に体を動かせなかった人をいやして立ち上がらせた。
それが安息日だった。
安息日は仕事を休んで、神に心を向ける日。
その日に治療という仕事をした。
安息日は何よりも大事な日とされているので、ユダヤ人たちはその違反を許せない。
しかし、ここでも大事なのは、神の御心を行っているのかどうか。
神の御心を行うのは、神の栄光を求めているからで、そうであるならその人は真実で、不義がない。

イエスは自分からその時のことを取り上げた。
「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている」とあるのは、安息日に人をいやしたその出来事のこと。
それを自分から取り上げて、これが御心に適っていることを説明する。

まず22節で、割礼の話をする。
割礼は神との契約のしるし。
そのことは律法に書かれているが、モーセから始まったわけではなく、ここでは「族長たち」と書かれているが、イスラエル民族の最初の祖先であるアブラハムに神が命じたのが始まり。
ただ、イスラエルの人々はモーセを非常に尊敬するので、「モーセが命じた」と一般に言われていた。
そのような人々に対して、イエスは、アブラハムから始まったことを指摘して、モーセではなく神に心を向けさせようとする。
神がモーセを通して与えたのが律法だが、イスラエルの人々の感覚では、偉大な人モーセから律法を授かったという感覚。
だからその言葉を大事にはするが、人からもらった言葉に立っている感覚なので、神の栄光を求めるという気持ちにはなりにくい。
偉大な人から言葉をもらった。
その自分が誇らしい。
それでは、自分の栄光が出発点になってしまう。

そのような人たちに、イエスは、「あなたたちは安息日にも割礼を施している」と指摘する。
割礼は体の一部を切り取ることで、契約のしるしとすること。
日本語では契約を結ぶ、と言うが、ヘブライ語では、契約を切ると言う。
それで、生まれてから8日目に体の一部を切り取る。
しかし、生まれてから8日目という決まりなので、それが安息日になることもある。
それでも、人々は割礼を施す。

しかし、そもそも、割礼は何のためであるのか。
契約のしるしだが、神との契約はどのようなものであるか。
人間同士の契約なら、お互いに守らなければならないことがある。
契約に違反すると罰を受ける。
しかし、神がアブラハムとの間に結んだ契約は、ただただ神が人を祝福する、すべての人を祝福するという契約。
であるならば、イエスが人をいやしたこともおかしいとは言えない。
それも神の祝福の現れ。
まして、割礼は体の一部。
それも、一部を傷つけること。
しかし、その時のイエスのいやしは全身。

イエスは言った。
「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」。
うわべだけで裁いている。
今日の16節、17節の言葉で言うと、神の御心ではなく、自分の教えを勝手に話している、ということになるだろうか。
彼らが自分の栄光を求めているからそうなる。

イエスは自分の栄光を求めなかった。
神の御心を教えて、神の御心を行った。
その結果、うわべだけで裁く人たちに、十字架につけられた。
しかし、そのイエスの十字架のことが、神の栄光だと聖書に書かれている。
どうして十字架が神の栄光なのか。
イエスは今、「正しい裁きをしなさい」と言った。
しかしそのイエスは、偽りの裁判を受けても、何も言わずに、十字架につけられた。
どうしてそれを受け入れたのか。
そうしなければ、人は救われないから。
人は自分の力で神に立ち返ることはできない。
今日のユダヤ人たちも、自分では何も気づいていない。
いや自分たちとしては、自分は神の栄光を求めていると思っていたのではないか。
しかし、神の目にはどうなのか。
そして、この、今日の話のような状況は、世の中どこにでもある。
だから、神の子が何も言わずに人の罪に対する罰を肩代わりしなければならなかった。
これは神にしかできないことで、だからこそ、神の栄光。

しかし、今日の話では、御心を行おうとする者、神の栄光を求める者は、真実で、不義がない、つまり、神に一致していくということが言われていた。
イエスだけではない。
私たちも御心を行う、行うと言ってもイエスと同じことができるわけではないが、私たちが自分の栄光ではなく神の栄光を求め、そこに神の栄光が現れるということはある。

戦前の日本でも伝道した修道士に、マキシミリアノ・コルベという人がいる。
日本で働いた後は母国であるポーランドに戻って伝道していたが、第二次世界大戦が勃発。
町はドイツ軍に占領され、神父や修道士はナチスに反抗的であるとして逮捕される。
一度は釈放されたものの、コルベは危険人物であると見なされて投獄され、アウシュビッツ収容所に送られる。
アウシュビッツ収容所は、地面に落ちている木の実を拾っただけでも厳しい罰を受けるところ。
その収容所から脱走者が出た。
その場合、無作為に選ばれた10人が、罰として餓死刑に処せられることになっていた。
刑に処せられる10人の囚人番号が読み上げられる。
不幸にも選ばれてしまったポーランド人が「さようなら! ああ、我が子に会いたい!」と泣き叫びだした。
この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私は妻も子もいませんから」と申し出た。
コルベと9人の囚人が地下牢に押し込められた。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であった。
しかし、コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ました。
時折牢内の様子を見に来た通訳は、牢内から聞こえる祈りと讃美歌によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。
2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、注射によって毒殺されたが、コルベは祈りながら、自分で腕を差し伸べたということ。

もちろん、殉教というのは良いことではない。
命を落とすことだから。
しかし、人が、神のなさるようなことをすることもできる。
何も殉教という形でなくても、私たちにも神の御心を行うことができる。
何しろ、私たちは、ここで、イエスの話を自分勝手な話ではなく、神からの教えとして聞いているのだから。
まず、御心を行うことを志したい。
神の御心を行おうとするなら、そこに神の栄光が現れる。
私たちは、その約束の言葉を聞いた。

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