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2023年07月24日「信じる者と離れ去る者」

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聖句のアイコン聖書の言葉

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章60節~71節

原稿のアイコンメッセージ

ここまでのところで、イエスは人を寄せ付けないような話を一方的にした。
そうすると、どうなったか。
弟子たちの多くが文句を言った。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
これが弟子たちの、それも多くの弟子たちの言葉。
そして、結局どうなったのかというと、66節。
「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」
弟子たちというのはイエスが直接選んだ12人だけではない。
たくさんの人がイエスの後に従ってきていた。
しかし、その人たちの多くはここでイエスを離れてしまった。

離れていった人たちは、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言った。
どのような話が引っかかったのか。
今日の個所の直前では、イエスの肉を食べる、イエスの血を飲む、ということをイエスは言っていた。
これは彼らにとって「ひどい話」だっただろう。
私たちはこのイエスの言葉を読むと、聖餐式のことを言っていると受け取るが、いきなりこう言われると、まさに「ひどい話」にしか思えない。
ただ、彼らの言う「ひどい話」はそれだけではなかったかもしれない。
少し前の41節に、「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降ってきたパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始めた」とある。
イエスの話を聞いていた人たちの不満は、ここにもあった。
イエスが天から降ってきたという話。
これもいきなりこう言われると、まさに「ひどい話」にしか思えない。
だから、ここに不満を抱いている人たちに、イエスは今日の61節、62節で言った。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」
天から降ってきたというところに不満を抱いている人たちに対して、「もといたところに上る」という話をする。
下って上る。
そういう話の流れだと考えると、人々の不満とイエスの話が対応することになる。

ここでは珍しく、最後まで言葉が書かれずに、「……」となっているが、人の子が、つまり、わたしイエスが、もといた所に上るのを見るならば、あなたがたはどうするのか、ということだと考えられる。
あなたがたは、わたしが天から降ってきたという話につまづいているが、わたしがもといた所に上るのをあなたがたがその目で見るなら、あなたがたがひどい話だと思っているその話が、実は本当のことだったと明らかなったことになる。
そうなったら、その時、あなたがたはどうするのか。
神の真理を聞いていられないひどい話だと言ってしまったことになる。
大変なこと。

この人々も救いを求めている。
そしてイエスは救い主である。
それなのにどうしてこれほど行き違ってしまうのか。
救いというのは何か。
救いというのは自分の力で達成することではない。
自分の力で何かを達成したのなら、それを救いとは言わない。
救いというのは誰かにしてもらうこと。
そして、聖書が示している救いは、人を神の元に連れ戻すこと。
人が神から離れてしまった。
その人を、神の元に取り戻すこと。
人は神から離れてしまっているから、人を神の元に取り戻すというのは、人にはできない。
それこそ、神が降ってきてくださらないと、そんなことはできない。

ただ、イエスから離れていった人々は、そうは考えなかった。
一人の人間であるイエスが、天から降ってきた神であるはずはない。
彼らはそう考えた。
それを責めることもできないだろう。
常識に基づいて考えるなら、そう考えるのが正しい。
しかし、神は私たちの常識に収まるような方だろうか。
そもそも、私たちの常識に収まるような存在なら、神と言えるのか。

ある20代のクリスチャンが、信仰に悩んでいた。
自分の常識に照らして考えて、悩んでいた。
イエスが復活したというのは本当だろうか。
信じられない。
ある時、その人の教会で、5人一組になって、テーブルを囲んで、色々な話をする機会があった。
その時、その人は、「自分は復活が信じられない」と悩みを打ち明けた。
そうすると、そのテーブルに、小さい男の子がいた。
その男の子が言った。
「復活もできないのなら、神様ではないでしょう」。
その時から、その人は熱心に信仰を求めるようになって、やがて、牧師になった。

もちろん、常識というものは尊いもの。
これが今の常識だと言えるものがあるから、私たちはそれに基づいて、おおむね安心して生活することができる。
私たちに常識があるとしたら、それは尊いことだろう。
しかし、常識というものは本当のところ、正しいのか。
100年前の常識で、今でも通用する常識がどれくらいあるか。
1861年に、フランス科学院は、「聖書を否定する科学的事実が51もある」という内容のパンフレットを出版した。
しかし、その後100年の間に、聖書を否定するはずの「科学的事実」の方が、一つ残らず、科学者自身の手によって否定されてしまった。
また、18世紀のフランスの哲学者にボルテールという人がいる。
この人は、「100年後には、人々は聖書について、何も聞かなくなるだろう」と言った。
それがその時代の知恵ある人が考えを尽くして言ったことであり、そのような人がそのようなことを言うと、多くの人がそうだと思う時代だったのだろう。
けれども、それから200年以上たった今も、世界中の人が聖書を読んでいる。
それどころか、ボルテールの住んでいた家は後に、ジュネーブ聖書協会の施設となって、聖書を広めるための場所になった。
私たちが、これが常識だと考えていることも、同じようなものかもしれない。

いずれにせよ、神は人間の常識には収まらない。
ということは、イエスが天から降ってきた神であるという信仰には、人間が自分の力でたどり着くことはできない。
それが63節。
「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。
“霊”というのは神の霊、聖霊のこと。
「肉」というのはここでは人間のこと。
神は物質的な存在を超えた霊であり、人はいずれは朽ちる肉に過ぎないという聖書の感覚。
人は自分の力で救いに至ることはできない。
イエスの言葉に神の霊があって、命を与える、救いを実現する。
そして、私たちに神の霊が働くかどうかは、父なる神の御心によって決まる。
それが65節。
「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」。
イエスが天から降ってきた救い主であると信じるなら救われる。
しかし、人は自分の力でその信仰を獲得することはできない。
救いは神の主権。
救いとは何か。
本来救われない者を救うからこそ、救い。
救われるにふさわしい者を救うのなら、それは救いというより当然のこと。
救いというのは、本来、神の元にいるのにふさわしくない者を神の元に引き寄せてくださること。
だからこそ、救いは神の主権。
これは厳しいことのように思える。
しかし、厳しいことではない。
全員救われないのが本来なのだから、救われる人がいるというだけで驚くべきこと。

しかし、イエスからこうまで一方的に言われてしまうと、弟子になった人たちとしては、イエスに従っていく理由が無くなってしまう。
そのことも、さっきの言葉で言うと、その人たちには「父からのお許しがなかった」ということになるが、信仰がない人々の主観としては、こんな人にはついていけないということになる。
イエスは、自分が直接選んだ十二人の弟子たちに尋ねた。
「あなたがたも離れて行きたいか」。
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
イエスには代わりがいない。
まさにそう。
神の元から降ってきた神の独り子。
代わりはいない。

そう答えたペトロに、イエスは衝撃的なことを言う。
「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」。
これはユダが裏切ることを言っている。
しかし、ユダは悪魔ではない。
それなのに悪魔と呼ばれている。
ここまでは、イエスから人が離れていったという話だった。
ユダは離れていったというだけではない。
裏切った。
イエスを売った。
しかし、どうしてそうなったのか。
それは、ペトロのような信仰告白ができなかったからだと言うことができる。
もし、ペトロのような信仰告白ができるのなら、裏切ることはもちろん、離れることもできない。
裏切ることができる、離れることができるというのは、イエスが天から降ってきた神の子、救い主だと信じていないから。
常識に基づいて考えればそれが正しい。
しかし、神は私たちを、私たちの頭に収まらない神の真理を受け入れることができるようにならせてくださる。

そして、ここでもう一つ言えることは、イエスはご自分を裏切る者をも、あえて選んだということ。
どうしてか。
十字架にかかるため。
罪がないのに死という罰を受けるため。
私たちの代わりに。
どのみち、人間は自分の常識から出ることはできない。
ペトロにしても、この後どうなったか。
信仰を自分の力で貫き通すことができたのか。
最後の夜に、イエスに対して、「あなたのためなら命を捨てます」と自分の信仰をひけらかした直後、イエスが逮捕されるとペトロは逃げだした。
逃げ出したのは、これも正しい判断だったかもしれない。
何しろ、軍隊がイエスを捕まえに来ている。
イエスと弟子たちには剣が二本しかない。
それでは最初から自分の力でどうにかするのは無理。
ただ、「あなたのためなら命を捨てます」という言葉は何だったのか。
今日、信仰を告白したように見えるペトロでもそうなった。
人間はどうなるか分からない。

ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書学者が、こういう話を書いている。
最後の晩餐の絵を描いていたある画家が、恐ろしい体験をしたのだという。
その画家は、何年もかけてその絵を描いた。
キリストの顔を描くのにモデルを探しに行き、美しさと純粋さを兼ね備えた顔の若者を見つけ、彼をモデルにキリストを描いた。
それに始まって、一人また一人とモデルを見つけては、弟子たちを描いていく。
そしていよいよ最後に、ユダのモデルを探し始めた。
画家は治安の悪い貧しい町を探し回った。
そしてついに、非常に堕落し、悪意に満ちた顔をした男を見つけ、ユダのモデルにするために彼を家に連れて来た。
描き終わると、その男は画家に言った。
「お前は確か、前に俺を書いたことがあるよ」。
画家は答えた。
「そんなことはないだろう」。
「いや、ほんとなんだ。前にお前が俺を描いた時には、確か俺はキリストだった」。

人間というのはそういう者。
だから、神の子が十字架にかからなくてはならない。
私たちには確かなものは何もない。
ただ、神の独り子が私たちの救いのために命を投げだしてくださったということ。
イエスが私たちの救い主であるということ。
それだけがこの地上で確かなこと。

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