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2023年07月03日「まことの命を得る」

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聖句のアイコン聖書の言葉

41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48わたしは命のパンである。49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章41節~51節

原稿のアイコンメッセージ

ユダヤ人たちがイエスのことで不満を感じ始めた。
当然と言えば当然。
イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたから、不満を抱いた。
天から降ってくるというのなら、神に決まっている。
イエスは自分が神であると宣言したことになる。
それで人々は文句を言った。

ただ、イエスはご自分のことをパンであるとも言った。
これは、人々がイエスにパンを求めたから。
ではどうして人々がイエスにパンを求めたかと言うと、人々は、イエスが聖書に預言されている、いつかやってく救い主なら、毎日でもパンを与えることができるはずだと考えていたから。
どうしてそんなことを考えるのかと言うと、いつかやってくる救い主のことが、モーセのような預言者だと聖書に書かれているから。
モーセはエジプトで奴隷だったイスラエルの人々を解放して、約束の土地に導き入れた人。
ただ、エジプトから脱出する旅の中で、人々はモーセに文句を言った。
今日のこの人々のように、つぶやいた。
理由は、食べ物が十分になかったから。
それで、モーセが神に願ったところ、天からパンが与えられた。
それも、毎日与えられた。
だから、人々は、イエスがやがて来る救い主、モーセのような預言者なら、パンを毎日与えてくれるはずだと考えて、イエスにパンを求めた。

しかし、この人々が、パンが与えられたというところに焦点を当てているのはどうだろうか。
モーセの働きは、奴隷であって、ひどい扱いを受けていて、自分のことを自分でどうすることもできない人たちを救い出したということ。
そこからすると、パンの話はおまけのような話に過ぎない。
それでも、人々はパンをくれとせがむ。
取りあえずそこが、今の自分にとっての利益に直結するところだから。
人間というのは目の前の利益が第一。
聖書はそう言っている。
だから、エジプトから脱出した時も、奴隷だったところから救い出されたことが一番大きな事のはずなのに、食べるものが無いとすぐに文句を言った。

そのような人々に対して、イエスは、「わたしは天から降ってきたパンである」と言った。
パンは食べると無くなる。
イエスは自分自身の命を丸ごと与えるつもり。
パンを食べてもいずれは無くなってしまう命ではなく、ご自分のまことの命、神のみ前での永遠の命を与えるつもり。
そのことがここで一番重大なことのはずだが、人々は文句を言った。
イエスは自分たちと同じ普通の人間じゃないか。
そんなことができるはずはない。

それに対して、イエスは答えた。
ここでイエスは、ご自分が神であることの証拠を見せて、人々を説得するようなことはなさらなかった。
イエスは言った。
「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」。
イエスのもとに来る、イエスを信じるというのは、神が引き寄せてくださらない限りはあり得ないこと。
だから、イエスは人々を説得しようとはしないし、人間の側で文句を言っても意味がないことなので、つぶやき合うのはやめなさい、という話になる。
そして、父が引き寄せてくださる、というところの、「引き寄せる」という言葉は、魚を網で引き上げる時にも使われる言葉で、人を逮捕して引きずって行く時にも使われる言葉。
要は、無理矢理。
魚は引き上げられたくない。
犯人は逮捕されたくない。
でも、本人の意思に反して、無理矢理。
ここでイエスは何を言いたいのかと言うと、人間が自分からイエスのもとに行きたいと思うことはない、ということ。
だから、イエスのもとに連れて行くなら、無理矢理連れて行かなくては仕方がない。
人間には罪があると聖書は言う。
罪という言葉は元々の言葉は的外れという言葉。
心が神に向かわず、自分自身に向かってしまう。
それが聖書の示す人間の姿。
しかし、そのような人間の意志に反して、神が人をイエスに引き寄せてくださることがある。

では、神はどのようにして私たちをイエスのもとに引き寄せてくださるのかというと、45節。
「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある」ということ。
これは、旧約聖書のイザヤ書54章13節の言葉。
そして、それに続けて、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と言われている。
神に教えられ、神から聞いて学ぶ、それは、イエスもここで聖書の言葉を引用している通り、聖書を読むということ。
イエス自身、他のところで言っているが、聖書はイエスについて証しするもの。
だから、聖書を読んで、神に教えてもらうこと。

イエスに対して不満をもらした人たちも、聖書を読んではいただろう。
けれども、彼らの感覚が間違っていた。
自分は聖書を知っているぞ、救い主ということは、モーセのような預言者だ、だとしたら、パンを毎日与えてくれるに違いない、それが出来るかどうかで判断してやろう。
この人たちは、自分の考えに従って聖書を読んできたから、自分を判断する立場に置いてしまった。
そうではなく、神によって教えられる、神から聞いて学ぶつもりで、神の言葉に聞くことが決定的に大事。
そのためには、自分の考えや常識をどけておくことが必要。
何しろ、人間の考えや常識に従うなら、マリアとヨセフの息子で普通の人間にしか見えない人が、天から降ってきた神であるはずはない。
しかし、自分の考えも常識もどけておいて、神に教わる、神から聞いて学ぶつもりで聖書を読むなら、そこに、神の、人を救いたいという御心が分かってくる。
だから救い主を遣わしてくださるんだということが分かってくる。
それは聖書に記されていることで、誰でも知っていたことだけれども、神が人を救うためにじきじきに来てくださる、神が人になってくださる。
人を救いたいという神の御心は、それほど強い。
それが分かってくる。

46節で、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と言われている。
イエスだけが父なる神を見たことがある。
他の人は誰も見たことがない。
これは何か決定的なような気がする。
しかし、その次に、「はっきり言っておく」。
イエスが大事なことを言う前に言う言葉。
原文では、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉。
そして、「信じる者は永遠の命を得ている」。
たとえ神を見たことがなくても。
イエスは命のパンであるから。
続けて、「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。
イエスという命のパンは、いずれは朽ちる命のための朽ちる食べ物ではない。
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々は神から与えられたマンナというパンを食べた。
それは、食べてもまた空腹になって、毎日食べなければいけないパンだった。
そして、それを食べて満腹した人も、寿命が来れば死んだ。
イエスはそのようなパンを与えるのではない。
イエスご自身がパン。
パンとして、ご自分自身の命を丸ごと人に与えてくださる。
他の信仰と比較して、「キリスト教の本質はキリストの教えではなくキリストご自身である」と言った人がいるが、まさにそう。
キリストご自身が、私たちに、ご自分の命を与えてくださる。

最後のところで、また別の表現が使われている。
「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。
パンのことが肉だと言われている。
この後のところでは、その話が、イエスの肉を食べる、イエスの血を飲む、という話になっていく。
聖餐式の話になっていく。
人々がパンの話をしたのでイエスもパンという表現を使っていたが、ここからもう一歩命ということに近づいて、ご自分の肉、という話になっていく。
聖餐式は、このわたしのために命を投げだして、命を与えてくださったキリストが、まことの命の恵みを味わうために定めてくださった式。
それによって私たちは、まことの命への希望を確かにする。
この世にもいろいろな希望はある。
しかし、この世の与える希望は、結局のところすべて、死によって終わるもの。
朽ちる希望。
朽ちる命を生きている限り、朽ちる希望しかない。
キリストは朽ちる希望しかなかったこの世に、永遠の希望を与えてくださった。
むしろ、この世には、希望よりも悲しみ苦しみの方が多い。
人が生きる中で感じる感情は、喜びのようなプラスの感情が2割、悲しみ苦しみのようなマイナスの感情が8割と言われている。
自分がどの道、朽ちてしまうことを知っているなら、喜ばしいことがあっても大喜びはなかなかできないだろう。
しかし、たとえそうであるとしても、永遠の命の希望が与えられていれば、どんなことがあっても忍耐して、乗り越えて、希望を失わずにこの世を生きていくことができる。
神が、このわたしに目を留めて、本来このわたしが望むこともできないような、神の前での永遠の命を与えてくださった。
希望というなら、これ以上の希望はない。

アメリカを代表するゴスペルシンガー、ビバリー・シェーという人がいた。
104歳まで生きた人。
彼はグラミー賞の候補に10回も選ばれ、1965年にはグラミー賞を受賞している。
その歌唱力で、彼は世界的伝道者ビリー・グラハムとともに、全世界を巡回し、賛美を通して聴く者たちを大いに励ましてきた。
彼の作曲した讃美歌の中に、「キリストにはかえられません」という作品がある。
牧師の家に生まれた彼は、幼いころから教会に通っていた。
ところが十代になった頃、世の中のいろんな誘惑にのめり込み、神から離れてしまった。
彼のお母さんはそのことをひどく悲しみ、いつも息子のために祈りをささげていた。
そのお母さんが特に愛した一つの詩が「キリストにはかえられません」というタイトルの詩だった。
その詩はいつも家のピアノの上に置いてあった。
ビバリー・シェーが23歳になった時、彼は人生の岐路にさしかかっていた。
誘惑に駆られて、キリストなしの人生を数年間味わってみた結果、そこには実は何もないということが分かり、彼はもう一度キリストの元に立ち返ってきた。
家に戻ってその詩を見た時、彼の心は励まされた。
その詩にメロディーをつけて作ったのが「キリストにはかえられません」という曲。
93歳になったとき彼はこう言っている。
「長く生きるということは、持っているものを次から次へと失っていくことです。
でも私にとって年を重ねることは恐怖ではありません。
私は何かを失うにしたがって、ますますイエス・キリストの存在が自分の中に広がって行くのを感じるからです。
天国の希望が益々豊かになっていくからです」。

朽ちることのない希望とはそういうものだと思う。
目の前の現実を超える希望。
目の前の現実がどうであったとしても、そんなことでは色あせない希望。
それをぜひ、一人でも多くの方に味わっていただきたい。
それは私の願いではなく、神の熱心、キリストの願い。
まだ聖餐にあずかることのできない方、洗礼を受けておられない方も、神がこのところに引き寄せてくださった方であることに変わりはない。
神が引き寄せてくださった私たちで、共々に、永遠の希望を生きていきたい。

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