ルールよりも大切なこと
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 3章1節~6節
1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。4そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章1節~6節
今日の最初のところで、「イエスはまた会堂にお入りになった」とあります。
「また」と言われているということは、いつもそうしていたということです。
安息日ですから、会堂に入るのは当たり前なんですが、それをわざわざ「また」と書くのは、会堂での礼拝がイエスの伝道の基本だったということでしょう。
これは感謝なことですね。
私たちも、今ここにイエス様がおられると信じていいわけです。
ただ、このとき、そこに片手の萎えた人がいました。
そして、人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していたんですね。
これは、イエスが病のいやしができるというのは、本当のことかどうか確かめてやろうということではありません。
イエスが病のいやしができることは、イエスの敵たちも、もう知っているんですね。
ここでイエスの敵たちがイエスに注目しているのは、いやすことができるかできないか、ということではなく、今日、安息日に治療をするかどうか、ということです。
病気をいやすのは治療という仕事になります。
しかし、安息日は、仕事を休んで心を神に向ける日です。
命の危険がある場合の治療は安息日にも行って良いとされていましたが、命の危険がない場合は、治療すると仕事になるので、してはいけないとされていました。
イスラエルでは今でもそうなんだそうです。
命に関わる場合は治療を受けられますが、そうでない場合は治療が制限されます。
これはなかなか大変なことで、骨折くらいでは治療してもらえないんですね。
この場合、片手が萎えているというのも命に関わるわけではありませんから、安息日に治療すると、安息日のルールに違反したことになります。
ただ、安息日はその日、日が沈むと終わりですので、日が沈むまで何時間か待ってから治療するなら、問題にはならないわけです。
片手の萎えた人の方でも、何時間か待つことができないということはないでしょう。
けれども、ここで、イエスは、その数時間を待ちませんでした。
わざわざ、その人を会堂の真ん中に立たせるんですね。
わざわざ、多くの人に、今から行うことを見せるんです。
多くの人が、ここで知るべきことがあるからです。
イエスは言いました。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
じっと見ている人たちに対する激しい挑戦の言葉です。
ただこの言葉は、気を付けて読まなければいけません。
イエスは、安息日のルール、安息日の律法などどうでもいいと言ったわけではありません。
イエスはこう言っていますよね。
「安息日に律法で許されているのは」何であるか。
あくまで律法なんです。
旧約聖書に書かれた神の言葉が何と言っているか。
それが大事なんです。
私たちは、間違わないようにしなければいけません。
イエスは、律法なんかより具体的な愛の業を行うことが大事だと言っているのではないんです。
イエスはそんなことを言ったことはありません。
律法は、神の言葉は何と言っているか。
そこにある本当の神の御心は何であるか。
イエスはそれを問題にしているんです。
そもそも、一週間の内、一日休むのはどうしてか。
それについて、旧約聖書の出エジプト記の20章8節から11節では、六日働いて七日目に休まれた神の天地創造の御業を思い起こすためだと言われています。
神が七日目に休まれたのは、お造りになったものを見つめて喜ぶためです。
それで、出エジプト記の20章11節には、「主は安息日を祝福して聖別された」とあります。
神の天地創造の完成という喜びの日を聖別して、他の日とは違う日として取り分けて、祝福の日とされたのが安息日なんです。
安息日は創造の祝福を味わう日です。
安息日がどういう日であるのかについてはもう一つありまして、旧約聖書の申命記5章12節から15節では、その昔、奴隷であったけれども、神がそこから救い出してくださったことを思い起こすための日だ、ということになっています。
仕事を休んで、今はもう奴隷ではない、ということを思い起こすんですね。
奴隷というのは買い戻すことができるものですが、奴隷であったところから、神の御許に取り戻された、買い戻された、贖われた、ということを喜ぶんですね。
私たちも、この世で様々なものに支配されていると言うことができますが、そこから自由にされて、このように神の前に取り戻されたことを喜ぶんです。
安息日は贖いの祝福を味わう日でもあります。
とにかく、安息日は祝福の日です。
創造の祝福と贖いの祝福です。
そして、この直前のところでイエスは言っていました。
イエスは、安息日の主なんです。
つまりイエスは、私たちも愛の業に励みなさいと言っているのではありません。
あなたがたは安息日の主が現してくださる祝福にあずかりなさいと言っているんですね。
では、安息日の主は何をなさるか。
創世記1章では、造られたすべてのものについて、「見よ、それは極めて善かった」と言われていました。
だから、善を行うんだとイエスは言っているんですね。
それは仕事ではありません。
安息日の主の祝福です。
それは、奴隷のように、不自由に支配されている人を贖ってくださることでもあると言えますね。
不自由から救い出してくださる。
それは、命を救うことだとイエスは言っているんですね。
これも仕事ではありません。
これも安息日の主の祝福なんです。
しかし、その話を聞いた人々は黙っていました。
納得して黙ったのではありません。
そんな話は聞かないぞということで黙ったんですね。
イエスは怒りました。
そして、人々のかたくなな心を悲しみました。
「かたくなな心」という言葉は、聖書では、不信仰を意味する言葉です。
不信仰とは心がかたくなであることです。
考えを変えられない。
習慣を変えられない。
それは、私たちもそうです。
私たちも、考えを変えられない、習慣を変えられないことがあります。
ただ、考えを変えられない、習慣を変えられないとなると、本質を見失ってしまうというのが今日の話なんです。
安息日が祝福の日であることを忘れて、ルールに縛られて不自由になる日にしてしまう。
あれもこれも仕事だということになって、できないことだらけ。
そして、安息日に会堂にいるのに、心を神に向けることもせず、人がルールを守るかどうかに目を光らせている。
それは、私たちにも起こりうることですし、現実問題、大なり小なり、どこの教会でもあることです。
イエスはそれを打ち破ります。
イエスは、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。
すると、彼の手は元どおりになりました。
安息日の主の祝福です。
善を行い、人が救われました。
今日、一人の人が、善くなって、自由にされました。
この人は何をしたでしょうか。
イエスが「手を伸ばしなさい」と言った。
それに応えて、手を伸ばしたんです。
イエスの言葉に応えた。
イエスに委ねた。
そこに、祝福が現れた。
この「手を伸ばしなさい」という呼びかけは、この人に対してだけ語られた言葉ではないでしょう。
私たちも、問われています。
毎日、一瞬一瞬、問われています。
主に委ねるかどうかです。
主に委ねるか、自分の考えと習慣にしがみつくかは、どちらかしかないんです。
アダムとエバは、食べてはいけないと神に言われていたのに、神に逆らって、その木の実に手を伸ばしました。
その木の実が、おいしそうだったからです。
食べたら賢くなれそうだったからです。
しかし、食べたところでそうはなりませんでした。
私たちは、イエスに向かって手を伸ばしたいんですね。
イエスに委ねて、イエスの言葉に応えて。
そうする時、私たちは善くなり、自由にされるのです。
しかし、人々の反応は違いました。
「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。
ファリサイ派というのは、聖書の通りに生きることに熱心だった人々です。
しかし、その人々は本当のところ、本質を見失って、自分の考えと習慣にしがみついていた人たちでした。
そのような人たちはイエスを殺そうとし始めます。
しかし、どうしてイエスを殺そうと思うのでしょうか。
イエスは、治療をしていません。
仕事をしていません。
ただ、「手を伸ばしなさい」と言っただけです。
それなのに、殺そうとする。
本質を見失っているんです。
違反はありませんでした。
けれども、「負けた」と思ったんでしょうね。
それを受け入れられない。
イエスが安息日の主であると認めればよいのに、考えを変えられない。
習慣を変えられない。
しかしそれは重大なことです。
それは、本当のところ、この人たちは、律法よりも何よりも自分が大事だったということになるからです。
つまり、自分が神なんです。
だから、神を認めないんです。
本質的にこの人たちは無神論者なんです。
いや、本当の意味で無神論者という人はいないんでしょうね。
人間は、神を認めるか、自分を神にするかどちらかしかないんです。
そして、神を信じているつもりの人なのに、実は自分を神にしている人というのが、普通にいるんだということなんです。
この人たちは、自分が神です。
だから、負けを認めることができない。
何しろ、自分は神なんですから。
そして、何の違反もなかったのに、相手を殺そうとする。
どうしてそんなとんでもないことができるのか。
自分を神にしているから、できてしまうんです。
ファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々と一緒に、イエスを殺す相談をしました。
これは不思議なことなんです。
ファリサイ派とヘロデ派は対立していたんです。
ファリサイ派は信仰のグループですが、自分たちの信仰に立って、ローマ帝国の支配に抵抗していました。
ヘロデ派というのは信仰のグループではなくて政治の世界のグループですが、この人たちはローマ帝国の支配に賛成していたんです。
二つのグループは全く正反対のグループだったんです。
どの点でも交じり合わないような二つのグループです。
ですけれども、手を組むんですね。
正反対でも、無関係でも、手を組めるんです。
神という共通の敵がいますから。
神を共通の敵にすると、人間同士の違いは、どんなに大きな違いに見えても、ささいなことになってしまうんです。
どうしてか。
この人たちは、いずれにしても、自分を神にしている人たちです。
ということは、この人たちの最大の敵は神なんです。
それで、人間同士の違いがどれほど大きかったとしても、仲間になってしまうんです。
その彼らのかたくなな心が、最後には、イエスを十字架に付けることになります。
イエスは、かたくなな心を自分でどうすることもできない私たちの代わりに、十字架にかかってくださいました。
私たちのかたくなな心を十字架に付けてくださったのです。
そのようにして、私たちに贖いの祝福を満たしてくださいました。
神の前に取り戻してくださいました。
そして、私たちが新しくされるための洗礼を授けてくださり、神の霊を与え、新しく生かされていくようにならせてくださいました。
新しく創造される祝福です。
今から、私たちは聖餐式にあずかります。
十字架のキリストの肉と血をいただきます。
安息日の主の命をいただきます。
そして、それによっても、私たちは、新しいますます神のそばに引き寄せられ、新しくされることになるでしょう。
今日、イエスの敵たちは、イエスの言葉を受け入れずに沈黙し、そこから、イエスを殺す言葉を語っていくことになりました。
私たちの内にも、彼らと同じ沈黙があり、彼らが語ったのと同じ言葉があるかもしれません。
しかし、私たちは、この礼拝の中で、イエスが主であることを告白し、神を賛美し、祈りました。
それら言葉がますます強められ、ますます神のそばに引き寄せられ、新しくされたいのです。
今も主は、私たちに善を行い、命を救ってくださっています。
その主に委ねましょう。
主の祝福が、そこに現れます。
