2026年06月15日「どこからの報いを求めるか」

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どこからの報いを求めるか

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章1節~4節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 6章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

今日の話ですが、「善行」をする時に気を付けることがあるということですね。
この「善行」という言葉は原文では「義」という言葉なんですが、要するに神の前での正しさということですね。
神の前に正しいことをする時でも、気を付けなければならないことがあるということですね。
何に気を付けなければならないかというと、自分が良いことをしているということを人に見てもらおうとしてしまうことですね。
自分からアピールしてしまう。
それが良くないんだということですね。
人に見てもらおうと思って人前で良いことをするのは、神の前に正しくないということですね。

今日は特に、「施しをするとき」についてということでイエス様がお話をなさるんですが、この、人にほめてもらおうとするなというお話がここからずっと続いていきます。
5節からは、祈るときも、人にほめてもらおうとするなということですね。
16節からは、断食をする時も、人にほめてもらおうとするなということですね。

施しも祈りも断食も「善行」ですよね。
「義」です。
神の前に正しいことです。
でも、やり方によってはまずいことになるんですね。
なるほど、と思います。
正しいことをする時こそ、私たちはそのやり方を良く考えなければいけないですね。
間違ったことをやるのならどんなやり方をしてもどうせ間違っているんです。
でも、正しいことをするのなら、そのやり方も正しくなくてはいけないですよね。
そして、実際に、やり方が間違っていたので台無しになるということがあります。

神の前では、その、台無しになってしまうパターンが、人にほめてもらいたいという考えなんです。
そのやり方だと正しくないことになるよということをイエス様は言っているんです。
施しをする時だけではなく、祈る時も、断食する時も、それに気を付けなさいということですね。
そのことをイエス様は繰り返し繰り返し言っているんです。
ということは、どういうことなのか。
私たちはイエス様からすると「人にほめてもらいたい」ということばかり考えているということですね。
イエス様の目には私たちはそうなんです。

今日の2節に「偽善者」という言葉がありますね。
この人は、人からほめられようとして、自分の前でラッパを吹き鳴らすと言うんです。
別に本当にラッパを吹いていたんじゃないでしょうね。
私は良いことをしていますよ、ということを自分からアピールしているということです。
それではダメだということですね。

ただ、ここで「偽善者」と言われていますが、何か少し、私たちが「偽善者」と言う時と言葉のつかい方が違うような気がします。
私たちが「偽善者」と言った場合には、本当は悪い人なのに良い人みたいに自分を見せる人のことですよね。
でも、このイエス様の話の中では、この偽善者は別に本当に悪い人というわけではないような感じですよね。
ただ、自分から、私は良い人間ですよ、とアピールしてしまっただけですね。

実はこの「偽善者」という言葉は、原文では、「俳優、演技をする人」という言葉なんです。
俳優は、自分がどんな人間であっても、その役になりきるわけですよね。
そして、自分がどういうふうに観客から見られているのかを考えます。
そういう仕事ですよね。
舞台に上がるというのはそういうことです。
そのために俳優さんたち、ものすごい努力をして、舞台に上がるんです。
でも、それを、実際の生活でやってしまうのはどうかということなんですね。
俳優さんが悪いのではないんです。
舞台ではなくて、実際の生活の中で、自分は良い人間だ、という役を自分で作って、その役になり切って、それを周りに人にほめてもらいたくて、自分からそれを周りにアピールする。
イエス様はその人たちは俳優みたいなものだ、俳優が舞台でやっていることを実際の生活の中でやってしまっている、と言っているんですね。

しかし、そう言われますと困ったことになりますね。
私たちの中に、誰か一人でも、人からどう見られるかを気にしない人がいるでしょうか。
つまり、私たちは皆、少しくらいは俳優みたいな面があるんですね。
むしろ、それがなかったら生きていけないでしょうね。
もし私たちが、心の中に思い浮かんだことをそのまましゃべってそのまま行動したとしたら、周りが迷惑するに決まっています。
周りが迷惑するから、周りに迷惑をかけないように、私たちは皆、少しくらいは演技をしているはずなんです。
ということは、私たちも俳優なんです。

私たちの多くは、良いことをした時、自分からアピールはしないだろうと思います。
それはどうしてでしょうか。
それは、自分からアピールしたら周りが嫌がるということを知っているからそうしないというだけで、ほめられたいという気持ちはないわけではないですよね。
ほめられるというのはそれ自体は良いことです。
悪いことをしていたらほめられないんですから。
実際、ほめられたらうれしいですしね。
良いことをしたらほめられる、悪いことをしたら叱られる、ということを、私たちみんな、小さい頃から教わってきたから、ほめられたらうれしいというのは自然なことです。
ただ、自分からアピールすると周りに嫌がられるので、少しくらい演技をして、それを表に出さないんです。
でもそれは、自分からアピールする人とどれくらい違うんでしょうか。
ほめられたいという気持ちがあるということは、俳優でも俳優でない人たちでも同じではないかと思うんですね。

では、どうすれば良いのかというと、3節、4節ですね。
右の手のすることを左の手に知らせるな。
そして、人目につかせないようにしなさい、ということですね。
「人目に付かない」ということではないんですよ。
「人目に付かない」というのは、人が気付かないというだけのことです。
「人目に付かない」ではなく、「人目に付かせない」ように、と言われています。
自分からわざわざ隠れてするんですね。
自分から隠すんです。
それで、右の手のすることを左の手に知らせるなということですね。
右手と左手はバラバラではありません。
一つの体で、つながっているわけです。
それでも、自分の中でも、隠してしまうくらいにしなさい、ということですね。
心の隅にしまっておいて、もう表に出さないようにしなさい、ということです。
要するに、偽善者と正反対のことを積極的に心がけてやっていきなさいと言われているんです。
偽善者と正反対になりなさいということです。

しかし、そうなりますと困ったことですね。
私たちも、偽善者も、心の中は同じなんです。
ほめられたらうれしいという思いがある。
ただ、偽善者は、変な話、演技力がないんですよね。
ほめられたいから、ほめられるようにする。
ただそれだけ。
この人たちはむしろ、演技してないんですよ。
ストレートすぎるんです。
でも、私たちは演技しますね。
演技して、自分をちゃんと作り上げて、自分からそんなことをアピールしたりはしないんです。
でも、ほめられたらうれしいという気持ちがあるというのは皆同じです。

ただイエス様の話は、ほめられたいという思いを捨てなさいという話ではありません。
神様にほめられるようにしなさいということです。
神様がほめてくださるようなやり方をしなさいということなんです。
1節でイエス様は言っていましたね。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。
神様から報いをいただけるようにしなさいということなんです。
隠れたところでやったら、報いが何にもないわけではないんですね。
というか、イエス様は、良いことをしたら必ず報いがあると言っているんです。
ただ、人に見られて人からほめられると、もう、報いをいただいたことになるよ、ということですね。
そうなると、それ以上の報いはもうないんです。
もう報いをもらったわけですから。
逆に、人に気づかれなかったら、報いがなかった、ということではないんです。
その場合こそ、神様が報いてくださるんです。
そして、それこそ、私たちが求めているものですよね。
神の前に正しいことをして、人からほめられても、神様から報いをいただけなかったら意味はなかったということになりますね。
何の利益もなかったと言ってもいいくらいです。
神の前に正しいことをしたのに、神様にスルーされてしまった。
全く空しいことになってしまうんです。
でも、神の前に正しいことをするという時に、人に気づかれなくても、神様から報いをいただけるんだったら、全く問題ないですね。

そして、人から報いをもらうか、神様から報いをもらうかは、どちらかしかないというのが今日の話です。
今日の話は施しをする時の話ですが、施しをする時でも祈る時でも断食する時でも、人にもほめられて、神様にもほめられるということはないんです。
人からほめられたら、報いはもうそれで終わりなんです。
もうそれで報いを受けたんだから、それ以上の神様からの報いはないんです。
私たちは、人からほめられるか神様からほめられるか、どちらかしかないんです。

そして、それは、神様はそれくらい、私たちのことを良く見ておられるということです。
私たちが周りの人に何を言ったかということも含めて、全部ちゃんと見ておられるんです。
4節ではその神様のことが、「隠れたことを見ておられる父」だと言われていますけれども、本当にそうですよね。
演技したつもりでも、神様には隠せないんです。
神様には演技は通用しないんです。

そうなると、神様は私のことを全部知っておられるのか、と恐ろしくなってしまいますが、私たちは最初から、神様の御心に適うような者ではないんですね。
私たちは誰も、神様の御心に適わない者です。
この直前の話に出ていますが、私たちは「悪者」なんですね。
「正しくない者」なんです。
それを、自分の力ではどうすることもできない。
そもそも、だからこそ、神の子がこの世に来てくださったんです。
そして、私たちのところにも来てくださるんです。
私たちが悪者だから、神様はそうするしかないんです。
それはもちろん、私たちが何か良いことをしたから報いが与えられたということではありません。
これは、私たちが何か良いことをしたから、それに対して神様が報いてくださったという話ではないんです。
私たちは、愛されているんです。
神様は私たちを愛さずにいられないんですね。
だから、ご自分の愛する子を私たちのところに送ってくださる。
これはつまり、私たちは、報いなどというものを求める必要などないということです。
これ以上ない神様の愛の中に私たちは、事実、現に、置かれているんです。
もし私たちが、今、現に、神様の大きな愛の中にあることを考えたら、人からほめられたいなんて思わないはずですね。
ほめられる必要がない。
そんなことどうでもいい。
神様が私を愛している。
もうそれだけで十分すぎますね。
神様がこの私をどう思ってくださっているか、そのことに心を向けましょう。
神様に愛されていることを感じる喜びが、一番の報いです。
それ以上のものはないはずです。
本当は、イエス様は、今日、それを言いたかったはずです。
でも、そういう話にならなかった。
私たちが演技をやめることはできないことを知っておられるからです。
でも、今日から、私たちは、報いとしてではなく、神様にとにかく愛されていることに心を向けましょう。
今日から、新しい一歩を踏み出しましょう。

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