2026年06月09日「中身だけ新しくしても」

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聖句のアイコン聖書の言葉

18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

今日は断食についての話ですね。
断食というのは、世界中の非常に多くの宗教が大事にしていることですね。
また、断食するのが体にいいんだ、ということで断食が流行したこともありますね。
皆さんは断食をしたことがあるでしょうか。
私はここ一年くらいはしていませんが、それ以前は3日間くらい断食して祈る、ということ年に2回くらいありました。
3日間の断食というのは大変ではないかと思われるかもしれませんが、案外そうでもありませんでして、お腹がすくのは最初の1日目だけですね。
2日目からは、自分の体が、外からエネルギーを取り込むことをあきらめて、体にため込んでいるエネルギーで何とかやっていこう、というふうになりますので、お腹がすいて困ることはなくなります。
困るのは、食べ物が欲しくなるのではなくて、味が欲しくなるんですね。
私の場合は断食しても水は飲んでいたんですが、水しか飲まないでいると、味が欲しくなります。
それが結構辛くて、インターネットで食べ物のサイトばかり見るんですね。
これは断食している意味はあるんだろうか、と思うくらい、舌で味わうことができない代わりに、目で味わうんです。
それでも、断食している意味はあると言っていいんだと思います。

どうしてかと言うと、まず、断食とは何なのか。
断食のことが、旧約聖書では「苦行」と書かれることがありますが、断食というのは自分で自分を苦しめることですね。
そして、旧約聖書では、年に一回、一日だけ、「贖罪日」という日に断食をすることが定められています。
日が沈んでから、次の日に日が沈むまで、食べることも飲むこともしない。
年に一回ですから、かなり大事なイベントなんですね。
と言いますか、これは旧約聖書のレビ記23章に書かれていることですが、イスラエルには、大事なお祭りが全部で七つあります。
春の四つのお祭りと、秋の三つのお祭りです。
その秋の三つのお祭りの一つが、贖罪日なんですね。
今年は9月20日なんだそうですが、とにかく、相当大事なイベントなんです。

そして、どうして断食をするのかと言いますと、贖罪日ですから、贖罪のためですね。
「贖罪」というのは犠牲を払って罪を償うことです。
ですからこの日には、動物の犠牲もささげられましたし、断食という形でも犠牲を払うわけです。
食事というのは自分の体を喜ばせることであると言えますが、罪を償うために、自分の体を喜ばせることをしない。
ですので、実際に断食しているのなら、犠牲を払っていることは事実ですから、頭の中で何を考えていても、とりあえずそれはそれで良いということにはなるでしょう。

ただ、聖書では断食は年に一回ということになっているんですが、後の時代になると、それがどんどん増えていきました。
イスラエルの国が滅ぼされて、イスラエルの人たちがバビロンという所に連れていかれるということが新約聖書の時代から600年くらい前にあったんですが、その時から、年に四回断食するようになりました。
年に一度では足りないと考えるようになったんですね。
そして、新約聖書の時代には、特に熱心な人たち、ファリサイ派の人たちは、週に二回、月曜と木曜に断食するようになりました。

けれども、それは必ずしも良いことだったのか。
マタイによる福音書の6章16節で、イエスはこんなことを言っているんですね。
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく、彼らは既に報いを受けている」。
人にほめてもらうための断食になってしまっていると言うんですね。
そして、人から報いを受けたのなら、神からの報いはない、ということです。
断食の回数を増やしても、心が神に向かわず人に向かっているのなら、断食としての意味は無くなってしまうんですね。
そうなりますと、私の場合は、人にほめられたいということで断食していたわけではありませんけれど、心が食べ物に向かっているので、それで何か報いを受けているわけではないんですが、どうだったのかな、と思ったりしますね。
報いが全くないということはないとは思いますね。
イエスも、偽善者は人から報いを受けていると言っているんですから、だとしたら、神からの報いというものもあるはずです。
ただ、犠牲を払っていたことは事実ですが、私の場合は、神からの報いは半分くらい、ということになっていたんでしょうか……。

今日の場面ですが、断食に熱心だったのはファリサイ派だけではなく、ヨハネの弟子たちもそうだったということですね。
洗礼者ヨハネは、多くの人々に罪を悔い改めるように教えて、罪の悔い改めのしるしとして、洗礼を授けていた人です。
このヨハネは、イエスと同じで、ファリサイ派の人たちに厳しかった人ですね。
この人は、ファリサイ派の人たちに、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と叱りつけたんですね。
イエスはファリサイ派のことを「偽善者」と言ったんですが、ヨハネもファリサイ派のことを同じように見ていたような感じですね。
そのヨハネですから、断食するとなると、実際に罪を悔い改めることを大事にして、人に見せるためではない、本気の断食をしていたと思うんですね。
とにかく、ファリサイ派もヨハネの弟子たちも、心の中は違っても、断食には熱心でした。
信仰熱心な人は断食に熱心だったんですね。

ところが、イエスの弟子たちは断食をしません。
イエスも、弟子たちに、断食するようにとは言いません。
むしろイエスは、弟子たちと、色々な人たちと、一緒に食事をすることを喜びました。
ルカによる福音書の7章34節には、イエスに対して、「大食漢で大酒飲みだ」と非難する人が出てきます。
断食せずに、たくさんの人と一緒に食事をするのを喜んでいることが、そういうふうに言われてしまったんですね。
そこが、イエスと弟子たちが、他の信仰熱心なグループと大きく違うところだったから、そう言われてしまうんです。
断食しないで、皆で食事をすることに熱心なグループというのは、当時の常識の逆を行くことだったんです。

これについて、イエスはこう説明しました。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。
断食しないのは、弟子たちが、結婚式の客だからだ、と言うんですね。
そして、「花婿が一緒にいる」と言われていますが、これはイエスご自身のことです。
旧約聖書において、神とイスラエルの民の関係は、花婿と花嫁の関係として描かれてきました。
そして今や、とうとう神が人となられて、人のところにいらしてくださった。
それがイエスです。
ですから、ヨハネによる福音書の3章29節で、洗礼者ヨハネもイエスのことを花婿と呼んでいるんですね。

ただ、イエスのお話には、イエスのことを花婿としておきながら、花婿はまだ来ていない、これから来るから、いつ来てもいいように待っていなさい、という話もあるんですね。
それがマタイによる福音書の25章1節からの、十人のおとめのたとえ話です。
あなたがたは花婿を待つ花嫁なんだから、いつ花婿が来てもいいように、心の準備をしていなさいということですね。
これが全然違う話になってしまっているのは、そこで言われていることは、世の終わりにイエスが再び来る、その時に、地上に神の国が完成するということをイエスが約束しておりまして、その時のことを言っているんですね。
ですからそこでは花婿を待つおとめは、まさに「花嫁」なんです。
しかし、今日の話では、弟子たちは「婚礼の客」です。
花嫁ではないんです。
神と人が本当に一緒になるのはまだ先のこと。
でも、もうすでに、花婿は来てくださった。
だから、お祝いを共にすることはできる。
喜びを共に味わうことはできる。
私たちも、今、「婚礼の客」です。
イエスは、私たちをも、この通り招いてくださった。
ただ、客ではなく花嫁として、当事者として、本当に神と一つになるのは世の終わりのことなんだ、というのがイエスのお話です。

とにかく、今の時点ですでに婚礼の客なんですから、断食はしません。
イエスと弟子たちは、他の信仰熱心なグループと大きく違うんですね。
他の信仰熱心なグループは、罪を悔い改めることが第一です。
何しろ、罪というものが、神と人とを引き離しているんです。
だから、一生懸命断食して、悔い改めなければいけない。
神に立ち返らなくてはならない。
それに対して、イエスは花婿で、弟子たちは婚礼の客です。
だから、断食しないどころか、皆で食事をすることに熱心なんです。
イエスの弟子であるとは、お祝いの喜びを生きることなんです。

ただ、今日のイエスの話は、断食することもあるというお話ですね。
「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。
花婿が奪い取られる時、というのは、十字架の時ですね。
そのことを悲しんで断食することになる、と言うんです。
聖書の時代の教会の人々は、週に二回、水曜日と金曜日に断食をしていました。
金曜日は十字架の日ですね。
自分の罪に対する罰を、イエスが引き受けてくださった日です。
そこで、金曜日に罪の悔い改めの断食をしたんです。
それプラス、週2回断食しているファリサイ派に負けないように、ということでしょうか、水曜日にも断食したんですね。

では、私たちはどうなんでしょうか。
私たちも、せめて金曜日くらいは、断食をした方がいいんでしょうか。
大事なことは、イエスの弟子というのは、基本的に、お祝いの喜びを生きることだということです。
ですので、断食を決まりにしなくてもいいと言えるでしょう。
断食するにしても、個人的に決めて、個人的にするべきです。
新約聖書のローマの信徒への手紙の14章6節には、このように書かれています。
「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」。
大事なのは感謝だと言われているんですね。
食べるのは、花婿イエスがいらしてくださり、私たちが婚礼の客として招かれていることへの感謝。
食べないのは、断食するのは、イエスが私たちの罪に対する罰を引き受けてくださったことへの感謝。
お祝いの喜びを生きることというのは、感謝を生きることでもありますね。
悔い改めることのできない私たちのために、神の子が十字架で罰を受けてくださったことも、もちろん感謝なことです。
感謝の内に喜びを生きることが、イエスの弟子なんです。
そこに、イエスがもたらしてくださった新しさがあるんです。

最後のところで、少し深いことが言われているようです。
古いものと新しいものの関係についての話ですね。
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」。
織りたての新しい布は洗うと縮みますから、古い服に継ぎを当てると、古い服は破れてしまいます。
この織りたての新しい布は、お祝いの喜びを生きるという、イエスのもたらした新しさを指しています。
それに対して、古い服というのは、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちの在り方、今までの人の在り方ですね。
罪によって、神と人とが引き離されている。
だから、悔い改めに熱心。
それが古い服です。
そして、この話は、古い服を残そうという話ですね。
継ぎを当てるのは古い服を残すためです。
基本的に、これからも、悔い改めに熱心であるままで行くということです。
その上で、新しい継ぎを当てる。
つまり、少しくらいはお祝いの喜びも味わってみましょうねと言うことです。
しかし、これは両立できないですね。
お祝いの喜びは神と人が一つになる喜びです。
その喜びの前では、神と人を引き離す罪を悔い改めるということはかすんでしまいます。
新しい布の方が強いんです。
古い服は引き裂かれてしまう。
これが逆に、新しい服に古い布で継ぎを当てるのなら、出来なくはないですね。
古い布が新しい服を引き裂いてしまうということはないでしょう。
新しい服が縮んで、でも古い布はそのままの大きさで、バランスが悪くはなりそうですが、服がダメになるということはないでしょう。
それは、基本的に喜びで、時々悔い改めということです。
それはできなくはない。
だから、イエスも、今日の話の通り、弟子たちに断食を勧めることはありませんが、断食を禁じてはいないんです。

ただ、イエスは、新しい服に古い布で継ぎを当てろとは言いません。
こうしてはいけない、こうしなさいと言っているのは、もう一つのお話ですね。
「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」ということですね。
これも、新しいぶどう酒というのは、お祝いの喜びを生きるという、イエスのもたらした新しさを指しています。
それに対して、古い革袋というのは、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちの在り方、今までの人の在り方ですね。
新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、新しいぶどう酒は発酵してガスが出ますから、硬くなってしまった古い革袋は破れてしまいます。
こちらの話では、残そうとするのは新しいぶどう酒だということですね。
イエスのもたらしたお祝いの喜び。
それを悔い改めの中に収めるのは不可能です。
お祝いの喜びは、私たちに罪があるのに神が来てくださり、罪を赦してくださり、私たちと一つになってくださるんだという喜びです。
その喜びは文字通り、罪の悔い改めを破くものです。
これが逆に、新しい革袋に古いぶどう酒を入れるのなら、出来なくはないですね。
古いぶどう酒はもうガスを出しませんから、革袋がダメになることはありません。
それはつまり、革袋は新しい、外側は新しいということで、一見、喜んでいるように見える、だけれども、心の中では罪を悔い改めているということですね。
これは最初に紹介した、マタイによる福音書の6章16節からのところですが、イエスは、断食するとしたら、断食する時に沈んだ顔つきをするな、苦しそうにするな、と言ったんですね。
それは、人にほめられようとしてわざと苦しそうにするな、ということなんですが、本当に断食して本当に悔い改めていても、喜んでいるように見せかけることはできなくはないでしょう。
ただ、イエスがここで勧めているのは、断食することではなくて、新しいぶどう酒を新しい革袋に入れることです。
新しい喜びは、新しいスタイルで、ということです。
喜びは見せかけではないですからね。
断食ではなく、一緒に食事をしよう、ということです。
私たちの生き方の中心にあるのはお祝いの食事なんです。
それを具体的に表しているのが、礼拝の中での聖餐式です。
断食ではなく、その正反対の聖餐式です。
ここに、革命的な新しさがあります。
喜んで、この食卓にあずかりたいと思います。

今日の話は断食の話で、その意味では、あまり私たちに馴染みのない話だったかもしれません。
ただ、私たちは、気を付けなくてはいけません。
どのようなことをする時でも、私たちは、真面目に、古い服に新しい布で継ぎを当てたり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れてしまうことがあります。
自分のことだと気づきにくいかもしれませんが、そういうことをしている他の人を、職場を、役所を、政府を、見たことがあるはずです。
それは、私たちもそうなんだということです。
そして、今日の話は、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちには、問題になりません。
彼らは、お祝いに食事に来ていない人たちだからです。
彼らには新しいことは起こっていないんですから、彼らは、今まで通りでいいんです。
しかし、私たちは、この通り、お祝いの食事に招かれました。
ですから、新しくされなければならない。
そうは言っても、私たちの目の前の現実は、重く暗いものかもしれません。
私たちが耳にする話というのは、良い話よりも悪い話の方が多いのが現実です。
それでも、意識して、お祝いの喜びを生きていきましょう。
イエスは、弟子たちに約束したことを、すべて果たしてくださいました。
私たちにも、約束を果たしてくださいました。
この世の現実がどうであれ、私たちの現実、神の現実はそうなんです。
世の終わりに至るまで、喜びを生きていきたいと思います。

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