2026年05月31日「医者が必要なのは病人」

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聖句のアイコン聖書の言葉

13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。15イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

今日もイエスは多くの人に対して宣教していますね。
ただ、今日の場面では、イエスが宣教しているということについては一行だけしか書かれていません。
今までの所では、イエスの宣教こそが大事なんだ、癒しの奇跡はイエスの話が本当だという証にすぎないというお話だったんですが、今日の所では、宣教よりも大事なことが出てきているような感じですね。
今日は、イエスが人を弟子にします。
アルファイの子レビが弟子になります。

この人の名前ですが、ここのところでは「アルファイの子レビ」となっていますが、この人は収税所に座っていたということですので、徴税人ですね。
ただ、マタイによる福音書では、弟子になった徴税人の名前はマタイだということになっています。
そして、このマルコによる福音書の3章13節からのところで、十二弟子の名前のリストがあるのですが、そこにもマタイという名前が出てきているんですね。
名前が変わってしまっているんですね。
しかし、これはあり得ないことではありませんでして、この時代の人が2つ3つの名前を持っていることは珍しいことではありませんでした。
ただ、ややこしいのは、マルコによる福音書の3章13節からのところで、十二弟子のリストの中に、「アルファイの子ヤコブ」という名前が出てきているんです。
今日の所では、「アルファイの子レビ」とあって、この人はマタイという名前も持っていたんでしょうが、十二弟子のリストの中に、マタイとは別に、「アルファイの子ヤコブ」という人もいる。
誰が誰なのか、ややこしいんですね。
当時の人の名前というのは、親の名前を持ってきて、誰それの子、誰それ、というのが正式なフルネームでした。
そして、このリストの中で、わざわざこの人をフルネームにしなければならなかったのは、他にもヤコブという名前の人がいたからなんですね。
ですから、区別をつけるために、片方の人はフルネームにしなければならなかった。
しかし、「アルファイの子ヤコブ」とフルネームにしてしまうと、父親の名前が同じ人が他にもいた、ということでしょう。
それで、「アルファイの子レビ」のことは、そこではそう書かずに、マタイと書いた。
あり得ない話ではないんですね。

そもそも、どうしてこういうややこしい話になってしまうのかと言うと、このレビという人が、この個所以外のどこにも登場しない人だからなんですね。
どんな人なのか分からない。
名前が似ていても、この人はこういう人、ということがはっきりしていれば、ややこしい話にはならないはずです。
ただ、この人は、「弟子になった」ということでだけ、聖書に登場しているんです。
そのことだけが書かれている。
後のことはどうでもいい。
それはつまり、イエスの弟子になるということが、どれだけ重大な出来事なのか、ということなんです。

まして、この人の場合は徴税人でした。
徴税人というのは、税金を集めるのが仕事です。
ただそれは、町の人たちのために使われる税金ではありません。
徴税人が集めたお金は、この国を支配しているローマ帝国のものになります。
つまり、レビはイスラエル人ですが、イスラエルのために働いているのではありません。
ローマ帝国のために働いているんです。
そして、ローマ帝国は、この徴税の仕事を、自分たちではやりませんでした。
その土地その土地の人を雇って、徴税人にするんですね。
自分たちが税金を集めると自分たちが憎まれてしまうから、自分たちではやらずに、その国の人にやらせたということです。
そんな仕事は誰もやりたくないのではないかと思いますが、そうではありませんでした。
徴税人は人々からいくらでもお金を取ることができました。
たくさんお金を取っておいて、決められた分だけローマ帝国に送れば良かったんです。
残ったお金は自分のものになります。
だから徴税人は、いくらでもお金持ちになることができました。
しかしそれは、同じ国の人たちからすると裏切りです。
しかも、イスラエルの人々は、自分たちは神様に選ばれた人間だと思っていました。
神様に選ばれた人々の中から裏切り者が出たということになります。
そうなると、その裏切り者は、仲間を裏切ったというだけではなく、神様を裏切ったということにもなってしまうわけです。
だから徴税人は罪人の代表だと考えられていました。
徴税人の方でも、納得してか、開き直ってか、別にそれで構わないよ、というつもりだったでしょう。
まして、この徴税人という仕事は、入札で、最高額を入れた人に与えられる仕事でした。
つまり、この人は、最初から、自分が入札した金額以上のお金を人からむしり取るつもりなんです。
人から搾り取ることがこの人の仕事です。
もっと言うと、人から搾り取ることがこの人の生きがいなんです。
そういう精神の人でないと、この仕事はしないし、できないんです。
罪人だと言われても、開き直って、それで構わないよと言い切れる人でないと、この仕事は務まりません。

そのような人に、ある日突然、イエスの方で目を留めて、イエスの方から声をかけるということがあるんですね。
「わたしに従いなさい」。
そうすると、この人は立ち上がってイエスに従いました。
大変なことです。
イエスが、誰がどう見ても終わっているような人に声をかけて、弟子にした。
なぜこの人なのか。
もっと評判の良い人を弟子にした方が、イエスの評判も良くなるはずです。
こんな人を弟子にしたら、イエスの評判はどうなるか。
でも、イエスはそんなことは考えなかった。
弟子になったこの人にしても、大変なことになりました。
この時代には、人生の一時期、ある先生に弟子入りして、その先生に従って、その先生と一緒に生活して、何年かして学ぶべきことを学び終えたら、自分の家に帰って、またそれまでと同じ仕事をするというのは、珍しいことではありませんでした。
漁師だった弟子たちが弟子になったということがありましたが、その弟子たちは、一度家に帰って漁師の仕事をしたこともありました。
元の仕事に戻りたくなったら、戻れるんです。
しかし、この人の場合は違います。
収税所から離れると、もう二度と、徴税人にはなれないことになっていました。
この人は収税所に座っていたところから、立ち上がってイエスに従ったんです。
この人にはもう、帰るところはありません。

私たちは、このような話を聞くと、この人に一体何があったんだろうかと考えます。
実はこの人はこういうふうに考えていたから、こういう状況に置かれていたから、こういう条件が整ったから、イエスに従ったんだと、色々に想像します。
そして、自分はまだそういう状況にないから、そういう条件が整っていないから、イエスに従うことはできないと考えることがあります。
それは人間ですから、当たり前のことです。
ただ、聖書が語っているのは、人間の側の条件が整ったら、その時に初めて、人はイエスに従うことができるということではないんです。
この時、この人は仕事中でした。
この仕事がどういう仕事であるのかは置いておくとしても、この人は、いつも通りにいつもの仕事をしていました。
この人は収税所に座っていたということですけれども、この人はこの人の日常に座り込んでいたんです。
そこに、イエスが声をかけてくださって、この人は立ち上がった。
聖書が伝えているのは、開き直って日常に座り込んでいる人に、イエスの方から声がかかって、その人の人生が新しくなる、ということだけなんです。
この人について、この人はこういう状況に置かれていたから、こういう条件が整ったから、ということは何も書かれていないんです。
これは他の弟子たちにしても同じことでしたよね。
だから、私たちも、状況を言い訳にしてはいけないんです。
いや、これは、私たちも、実はイエスに声をかけられていたということにもなりますね。
だから私たちは今、ここにいると言えます。
そこから私たちがどのような働きをしようと、このレビのように、目立った働きができなかったとしても、それは大きなことではありません。
一番大きなことは、実はすでに、私たち自身において起こったんです。
人生が新しくなったんです。
私たちは、イエスに従わなかった場合の人生がどうなったかは知ることができませんから、新しくなってと言われても、ピンとこないかもしれません。
ただそれは、知らなくていいんです。
「わたしに従いなさい」と言ったのはイエスです。
そして、神の言葉は実現するというのが聖書です。
ですから、実現しなかった場合のことは考えなくていいんです。
ただ、大事なのは、イエスが、私たちにも、「わたしに従いなさい」とおっしゃってくださったということです。
そうは言っても、私たちにも、開き直って日常に座り込んでいるところがまだあることでしょう。
それでも大丈夫ですね。
もしそれが良くないというのなら、イエスはその私たちにも、声をかけて、そこから立ち上がらせてくださいます。
イエスに従っていたはずなのに、イエスを見捨てて逃げ出した弟子たちにも、イエスの方から会いに来てくださって、声をかけて、立ち上がらせてくださったのがイエスです。
私たちにも必ず声をかけてくださいます。

弟子になったこの人は、イエスを自分の家に招いて、食事の場を設けました。
その場には、多くの徴税人や罪人がイエスの弟子たちと同席していました。
つまり、この人は、他の人とイエスとの出会いの場を設けたということになります。
それが弟子になった者のすることだということにもなるでしょう。
これを難しく考える必要はありません。
私たちが誰かを招いたとしても、やってきた人に声をかけるのは私たちではありません。
声をかけて立ち上がらせるのはイエスの仕事です。
ただ、誰かを自分の家に招いて、テーブルの上に十字架が置いてあるというだけでも十分だと思います。
もし私たちが本当に、自分の家にイエスを招き入れているのなら、私たちが多くを語る必要はありません。
私たちに起こったことが、その人には起こらないと、どうして言えるでしょうか。
イエスが想像する以上にたくさんの人に声をかけてくださって、今、世界で三分の一の人が、イエスの弟子になっているんです。
以前、あるデータを見たことがあるんですが、現在、世界中の人で、福音を聞いたことのある人は世界の人口の三分の二で、その内、福音を受け入れた人は三分の一なんだそうです。
福音を聞いた人の半数が、福音を受け入れたというんですね。
私たちが神の言葉を語る時、二分の一の確率で、その言葉が届く。
信じられないことです。
福音というのはつまり、十字架のイエスが神の子で、この私の救い主だということですね。
どうしてそんなこと信じられますか。
どうしてそんなことを私たちは信じたんですか。
イエスが声をかけているんです。

ただ、イエスが人に声をかけると、イエス自身は十字架に近づきます。
イエスはすでに、敵対する人たちに目を付けられていました。
この前の場面では、イエスが罪の赦しを宣言したところ、それを神を冒涜することだと思った律法学者がいたんですね。
そして今日は、ファリサイ派の人が食事の様子を見に来て、今回は口に出して、イエスを批判するようになります。
そして、この人たちは、すぐ後のところで、イエスを殺そうとし始めます。

「ファリサイ派」というのはユダヤ教のグループの一つですが、聖書に書かれている通りに生きて行くことに、特に熱心だった人たちです。
「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味の言葉ですが、自分たちはその他大勢の他の人たちとは違うんだと言いたいわけですね。
しかも、律法学者です。
聖書のことを律法と呼ぶことがあったのですが、聖書の専門家です。
この人にとってみれば、自分と同じように神の道を教えている人が、どうして罪人と一緒に食事をしているのか、理解できません。
一緒に食事をするというのは、仲間であることのしるしだと考えられていました。
どうして、神の道を教えている人が、罪人の仲間なのか。
ただそれを、イエスに対して直接には言わず、イエスの弟子に言います。
弟子に対して、お前はイエスという男に従っているが、それでいいのか、と問うていることにもなりますね。
こういうことというのも、私たちにもあるかもしれません。
イエスに対する批判ではなく、例えば、私たちが教会に行くことに対する批判を受ける。
でも、これも心配しなくていいということでしょう。
弟子が答えられなくても、イエスが答えてくださいます。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
これを聞くと、ファリサイ派の人は納得するしかありませんね。
ファリサイ派の人は、自分は丈夫な人だ、正しい人だと思うことでしょう。
そして、そうか、イエスは、罪人をまともな人間にしようとしているのか、ということで、納得してくれるかもしれないですね。
ただ、このファリサイ派の人たちというのは、何なんでしょうか。
自分たちはその他大勢とは違う、その他大勢から分離された特別に真面目な人間だ、ということなんですが、この人たちというのは、自分を分離したというより、人を分離して切り捨てているんですね。
それは強いとも正しいとも言えないと思うんですね。
本当に強くて正しいんだったら、自分にしても人にしても分離する必要はありません。
いや、人間というのは弱いんです。
だから、分離しないとやっていけない。
このファリサイ派の現実というのも、人間皆の現実かも知れないですね。
私たちにしても、自分はこの面では強い、正しい、その他大勢とは違うということがあるかもしれません。
そう思う時、私たちは、その面で弱い人たちを切り捨てているかもしれない。
しかし、そもそも、人は皆、罪によって、神と分離されているというのが聖書です。
その分離以上に決定的なことはこの世にありません。
イエスは、その私たちに声をかけてくださるんですね。
分離を乗り越えて、私たちを招いてくださるんです。

考えさせられるのは、イエスが、ファリサイ派の人には、「あなたもわたしに従いなさい」とは言われなかったということです。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
この言葉は、ファリサイ派の人に対しては、あなたはもういいよ、と言っていることになります。
イエスの言葉は神の言葉です。
神の言葉は実現するというのが聖書であり、今日の場面です。
ですから、もし仮にイエスがここで、ファリサイ派の人に、「わたしに従いなさい」と言っていれば、そうなったはずですね。
でも、そうはしない。
人の自由を重んじておられるからです。
聖書の中で、神が人の自由を奪って、自分の思い通りにしたという場面はありません。
良くない結果になったとしても、良くない結果を選ぶ自由はある。
そういうことですと、この時、アルファイの子レビが招かれたのも、彼の自由を損なうようなことではなかったということになりますね。
彼を招いたのは、彼の自由を奪って、自分の思い通りにしたということではなかった。
イエスは人を見ておられる。
「わたしに従いなさい」という言葉は、自由を奪う言葉ではなく、レビにとっては背中を押す言葉、あるいは、本当の自分自身を気づかせる言葉だったということになるでしょう。

そして、考えてみますと、イエスが私たちに語りかけてくださる言葉は、「わたしに従いなさい」か、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」か、どちらかしかないように思うんですね。
イエスは、私たちがどのようであろうとも、否定はなさらない。
ただ、イエスの言葉は、招きの言葉か、別れの言葉か、どちらかしかない。
そして、イエスが人を招いてくださる時というのは、人は、罪人として招かれるんだということですね。
このファリサイ派の人は招かれないんです。
徴税人が招かれたんです。
罪人を、切り捨てるべき対象としてではなく、愛と憐れみの対象として、招いてくださる。
罪人の中にも、イエスは、神の似姿を見出してくださっているのでしょう。
だから、招いてくださる。
神の前に取り戻してくださる。
そして、そこから、用いられていく。
徴税人であったこの人は、この場面にしか登場してきません。
でも、この人が後にどれくらい大きく用いられたか。
マタイによる福音書です。
この人の働きは永久に人類の記憶に残ることになりました。
次は私たちかもしれないですね。
終わっていると思われていたこの人がそこまで用いられたんです。
そして、私たちにも、お声がかかっているんです。
次は私たちです。

私たちも、ということで言いますと、もう一つありますね。
イエスの食事の席に、私たちも招かれていると言えます。
毎月の聖餐式がそうです。
そこにおいて、私たちは、パンとぶどうジュースをいただきます。
それは私たちのために裂かれたイエスの体であり、私たちのために流されたイエスの血です。
今日の場面でも、イエスが人を招くと、イエス自身は十字架に近づくということがありましたけれども、ご自身が十字架にかかってでも、イエスは、私たちを神の前に招いてくださいます。
それくらいにして神の前に取り戻された私たちです。
どれだけ大きく用いられたとしても、おかしくありません。
私たちが自分に期待していなかったとしても、イエスの、私たちに対する期待は限りなく大きい。
そのことを心に留めたいと思います。
その時が来たら、座り込んでいるところから、立ち上がってください。
いえ、立ち上がらせてくださいます。

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