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2023年04月30日「聖書の証し」

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聖句のアイコン聖書の言葉

31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章31節~40節

原稿のアイコンメッセージ

イエスの話の続き。
イエスが敵対者たちに対して話しつづけている。
イエスが神のことを父と呼んだ。
父が神なら子も神。
父が神だけれども子は神ではないということにはならない。
神を父と呼んだということは、ご自分のことを神であると宣言したのと同じ。
それで、話を聞いていたユダヤ人たちは大いに怒った。
ユダヤ人たちはイエスが神だとは思っていない。
人間だと思っている。
しかも、ユダヤ教では、神というのは創造主である方お一人だけで、創造主と被造物の違いよりも大きな違いは何もない。
人間が自分は神だと宣言すること以上に重い罪はない。

イエスは何者であるのか。
これは私たちにとっても決定的に重要な問題。
鈴木大拙という仏教学者が、キリスト教のことをこう言っている。
キリスト教の本質は、キリストの教えではなく、キリストご自身である。
仏教は釈迦の教えである。
儒教は孔子の教えである。
イスラム教はマホメットの教えである。
それに対して、キリスト教の本質は、教えの内容ではなく、キリストご自身である。
確かにそう。
私たちはキリストの教えを聞き、それを理解して、それでもって自分を整えようとすることはある。
しかし、キリスト教は、教えを聞いて、後は自分でどうにかしなさいということではない。
世の終わりまでいつも共にいると約束してくださっているのがキリスト。
どうしてそうしてくださるのか。
私たちは教えを聞いても守りとおすことができないから。
だから、キリスト教の本質はキリストの教えではなく、キリストご自身。
そうでなければ困る。
私たちは神の教えに従い通すことができないから。
共にいてくださっているキリストご自身が何者であるのかに、すべてがかかってくる。

では、キリストは何者なのか。
31節を見ると、キリストはご自分で自分自身について証しはしないということか。
自分自身についての証しは真実ではないというのは、この時代の法律上の考え方だった。
キリストはそれにならっておられる。
証しするのは他の人でなければならない。
32節で「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と聞くと、この言い方だと神を指しているとしか思えないが、「なさる方」とか「おられる」というのは日本語の表現で、もともとのギリシャ語にそういう表現はない。
神だけではない。

まず、証しの第一は、洗礼者ヨハネ。
洗礼者ヨハネのことは、1章7節で、「彼を証しをするために来た」と言われていた。
1章29節では、イエスのことを、「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しした。
しかしイエスは、今日の34節で、「人間による証しは受けない」と言っている。
これはヨハネが至らない人間だからではない。
35節で、ヨハネは「燃えて輝くともし火であった」と言われている。
「燃えて輝くともし火」というのは、旧約聖書の預言者エリヤを指す言葉。
ヨハネは間違いなく、立派な預言者だった。
暗闇を照らす光。
その光はしっかりとキリストを指し示していた。
しかし人々は、35節「しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。
洗礼者ヨハネの元で喜び、楽しんだ。
つまり、必ずしもイエスの方に行こうとはしなかった。
そうしている内に、ヨハネは捕らえられて処刑されてしまった。

けれども、36節「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。
これは、イエスが行う奇跡が証しになるということ。
奇跡のことが聖書では「しるし」と言われることがあるが、奇跡は人間の力でなすことはできない、それが神のよってなされたというしるし。
そして、37節では、神がイエスについて証しをしてくださる。
十字架の後、神はイエスを復活させた。
まさに奇跡。
そして、これはイエスがここで言っていることではないが、その後に弟子たちは、キリストの復活を証ししていった。
キリストが逮捕されると逃げ出して、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちが、復活の後には全く新しくされて、殉教をも恐れない者にされて、世界中に出て行って、復活を証しした。
復活がなかったのなら、あの弱気な弟子たちが、どうしてそこまで変えられたのか。
復活があったからこそ。
決定的な証しになる。

しかし、それはまだ先の話。
ただ、すでに神がイエスを証ししたことはあった。
いくつもの奇跡があった。
なので、ここでイエスは厳しいことを言う。
「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」。
あなたたちは父の声を聞いたこともなければ、父の姿を見たこともない。
それはそう。
それに対して、イエスは父の声を聞いたことがあり、父の姿を見たこともある。
ただこれは、自分のことを自慢しようということではない。
ユダヤ人たちは聖書を研究している。
そして、父なる神を知ったつもりになっている。
しかし、実際のところ、そうではないとイエスは言いたい。
ユダヤ人たちは永遠の命に至るために、つまり、神の元に帰るために、聖書を研究しているけれども、結局のところ、彼らの聖書研究は、聖書を生活の上でのルールにすること、法律にすること。
そうなると、聖書を研究しているとは言っても、心は神に向かわない。
心が向かうのは自分の行いであり、人の行い。
それでは、人を救おうという神の御心は分からない。
何しろ、ユダヤ人たちは、ルールを守っていれば、神の元に帰れる、ルールを守って自分で救われようという考え。
彼らは御心を知らないというか、知ろうとしない。
御心を知る必要はない。
ルールを守っていればそれで十分。
聖書の言葉は神の言葉ではなく、ルールブックになってしまう。
それでは、38節「自分の内に父のお言葉を留めて」いることにはならない。
父の御心は人を救うことにある。
ルールを守り通すことができないのが人間。
神の言葉に従い通すことができないのが人間。
人間がそういう者だから、人間の元に神の子を遣わした。
人を救うため。
でもそれを信じない。
自分で自分を救おうとしている限り、自分は救われる必要があるということに気付くことはできない。

ただ、そもそも聖書も、イエスを証しするもの。
聖書は生活のためのルールブックではない。
見ようによっては、聖書は、ルールを守れなかった人たちの記録。
その人々を救うために、神の子を救い主として遣わす。
聖書ではそれが繰り返し預言されてきた。
それなのに、ユダヤ人たちは聖書の読み方を間違っていたから、イエスの証しを聞き取ることができなかった。

現代でも、異端と呼ばれるグループがある。
聖書の読み方が間違っている。
ユダヤ人たちも異端も同じ。
読み方が間違っているから、救いを受け取れていない。
大事なのは、40節、命を得るために、イエスのところに行くこと。
それがファイナル・アンサー。
勝手な研究で生活を整えようとしても意味がない。
預言者もイエスの行う奇跡も、神も聖書も、イエスを神の子、救い主だと証ししていると、今日、イエスは言った。
そのイエスのところに行くこと。
具体的には、教会に加わること。
教会はキリストの体であると聖書に書かれている。
キリスト自身がそう言った。
パウロという人がキリスト教会を迫害していた時、キリストはパウロに、「なぜわたしを迫害するのか」と言った。
パウロが迫害していたのは教会であり、クリスチャン一人一人。
でも、キリストは、なぜ教会を迫害するのか、なぜあの人を迫害するのかとは言わず、「なぜわたしを迫害するのか」と言った。
キリストにとって教会は「わたし」。
だから、教会に加わることが、イエスのところに行くこと。
そこに、神の前でのまことの命が与えられる。
簡単なこと。
研究などと言うようなことではない。
しかし、世の人はなかなかそれをしようとしない。

私はキリスト教の幼稚園に通っていた。
キリスト教とは何なのか、母に質問した。
母も母の姉妹たちも、私も私の兄弟たちも、皆同じキリスト教の幼稚園に通っていた。
母なら知っているだろう。
母は言った。
「イエス様が皆を救うために、皆の代わりに十字架にかかってくださったんだ」。
私は聞いた。
「それは本当なの?」。
母は答えた。
「さあねえ」。
どうしてそうなってしまうのか。
結局、救いを必要としていない。
しかし、救われなかったらどうなるか。
神の元に戻ることができない。
それでいいという人はいないだろう。
まして、救いをこの世にもたらしたその方は、そのために自分の命まで投げ捨てた。
今日の話も、イエスは、命がけで話している。
色々な証しがあることを言っている。
救いを受け取ってほしいから。

新聞に一面全部を使った大広告があった。
全国の忘れ物の数という広告。
電車の中での忘れ物が取り上げられていた。
一番多い忘れ物は何か。
傘。
傘32万本。
次は携帯電話。
携帯2万個。
そして、手袋1万7千個。
最後に2億円2人と書いてあった。
よく見ると、2億円の宝くじが当たっているのに取りに来ない人が2人いると言う。
さらに、1等前後賞の5千万円を取りに来ない人が10人もいる。
大体、毎年20億円前後の賞金が取りに来られない。
しかし、どうして広告まで打って取りに来ることを呼びかけているのか。
宝くじには引替期間というのがある。
そして、期限を過ぎれば、一切無効になる。

救いも同じ。
期限がある。
期限は生きている内。
私たちが生きている内に受け取らなくてはならない。
これは厳しいとは思わない。
受け取るだけでいい。
そして、その値打ちは2億円ではない。
私たちの内に罪があるので、私たちは神の元に戻ることができないと聖書は言う。
では、その罪の値段はいくらか。
イエスはたとえ話の中で、それは今の日本円に直して6,000億円だと言った。
6,000億円取りに来ない。
2億円を取りに来ないのでも大変なことだが、6,000億円。
取りに来ていただきたい。
だからイエスは今、自分を殺そうとする人たちに対してすら、必死で話している。
その必死の思いが、今、私たちに、このようにして礼拝をさせていると言える。
私たちも礼拝に出席することで、イエスが救い主だと証ししている。
この証しを広めていきたい。
それが弟子とされた者の務め。
大丈夫。
イエスが共にいてくださっている。

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