2026年04月13日「世間とは違う権威」

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聖句のアイコン聖書の言葉

21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章21節~28節

原稿のアイコンメッセージ

イエスと弟子たちの一行がカファルナウムというところにやってきました。
カファルナウムはガリラヤ地方、国の中で一番北の地方にある町です。
ガリラヤ地方には大きな湖がありまして、そのほとりにカファルナウムという町があります。
そして、次の29節を見ますと分かりますが、この町にはイエスの最初の弟子になったシモンとアンデレの家があったんですね。
この家が、ガリラヤでの働きの拠点になりました。
ここをベースにして、色々なところに出かけていって、また帰ってくる。
そのようにしてイエスは働いたんですね。

ただ、イエスは、この家に人を集めて説教をしたということではありません。
会堂長が許可した人だったら、ユダヤ人の男性なら誰でも会堂で説教することができました。
それで、イエスは、安息日に会堂に入って教えたんですね。
安息日の会堂で教えたということは、礼拝で説教したということです。
イエスの教えは、礼拝で語られることが最もふさわしいということですね。
礼拝では、何が語られるかと言いますと、それはもちろん聖書の言葉、神の言葉です。
だからこそ、イエスの言葉、神の言葉が語られるのに最もふさわしいのは、礼拝だ、ということになります。
イエスは神の言葉を語り伝える働きをし始めた。
そしてそれは、一回だけではなかったんですね。
教え始めたということですから、継続的に説教し続けたわけです。

イエスは、最初からかなりハイペースで仕事をしていったような感じですね。
日本語には翻訳されていませんが、原文では、この21節の後半に、「すぐに」という言葉があります。
カファルナウムに着いて、すぐに説教をした、ということです。
電車も飛行機もない時代のことですから、旅というのは長い時間歩き続けるわけです。
だとしたら、何日か休んでから働きを始めても良さそうなところ、すぐに働きを始めた、ということなんですね。
どうしてそんなに急ぐのか、とも思います。
ちょっとずつやって行って、人々の反応を見る、という方法もあったかもしれません。
でも、イエスはそうしないんですね。

それには理由があったと思います。
イエスは結局、どのような説教をしたでしょうか。
1章15節に、イエスの最初の言葉がありましたね。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
神の国が近づいているんです。
国という言葉は支配とも訳すことができる言葉です。
王という言葉ともほとんど同じ言葉です。
神が、王になる時が近づいた。
逆に言うと、これまではそうではなかったんですね。
人が神から離れてしまっていたわけです。
そして、聖書では悪魔のことがこの世の王だと言われます。
そのようなこの世に、神の国が近づいた。
悪魔を打ち倒して、神が王になる時が近づいた。
こんな大きなことはありません。
ですから、のんびりしている暇はないんですね。
すぐにでも、「悔い改めて福音を信じる」べきなんです。
神が王になるというこの良い知らせ、福音を信じる。
そのために、悔い改める。
悔い改めるという言葉は、原文では単に「帰る」という言葉です。
神の元から離れてしまったけれど、神の元に帰る。
すぐにでも、ということなんですね。

人々は、そのイエスの教えに驚きました。
話の内容に驚いたとは言われていません。
旧約聖書には、いずれこの世に神の国が実現するということが繰り返し何度も記されていますし、悔い改めなさい、神に立ち返りなさいというのは、いつでもどこでも聞かれるようなメッセージでしたから、それだけでは驚きません。
人々が驚いたのは、イエスその人についてです。
イエスが、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と書かれています。
律法学者にも権威はあったでしょう。
権威があると見なされているから、人々が、その学者の教えを聞くんです。
ただ、律法学者の権威は、律法学者自身の権威というより、聖書そのものの権威です。
ある聖書の言葉があって、それをどう解釈して、現実の生活に適用するか、ということを律法学者は教えていたんですね。
今で言う、法律家のような働きをしていたと言えるでしょうか。
ある法律の条文があって、それをどう解釈して、具体的に適用するか。
現代の法律家にも権威がありますが、それは、法律そのものに権威があるからです。
イエスの権威はそれとは違いました。
イエスご自身が、「権威ある者」なんです。
「時は満ち、神の国は近づいた」というのが、まさにそのような言葉ですね。
これは解釈でも適用でもないわけです。
宣言なんです。
旧約聖書に書かれている神の国の実現が近づいているぞ。
今がその時だ。
それを聞く側としては、いやそれはいつかはやって来ることだと書かれているのは知っているけれども、どうしてそれが今だと言えるの、と思ってしまいそうです。
でも、聞いている人たちは、この人はそんなことを言えるだなんておかしいとは思わなかった。
イエスに、それを宣言するだけの権威を感じたんです。
だから、反発しなかった。
普通だったら反発されます。
こういう類のことを言う人はいつでもいますから。
しかし、イエスには権威があります。
神の子が人になられて、この世で働きを始めたことによって、時は満ちました。
そのイエスだからこそ、宣言することができるんです。

ここで、言葉の使い方について言っておきたいことがあるんですが、このマルコによる福音書では、「すぐに」という言葉が良く使われますが、「驚く」という言葉も良く使われる言葉です。
マルコによる福音書は新共同訳では38頁あるんですが、38ページの中で、30回も驚くという言葉が出てくるんですね。
マルコによる福音書は簡単な言葉で書かれていまして、出てくる単語の数というのは、1,000くらいです。
小学校で習う英単語の数が全部で600から700くらいだということですから、1,000というのは、かなり限られた言葉で書いているという感じですね。
それなのに、驚くという言葉については、8種類も出てくるんです。
マルコは何を言いたいんでしょうか。
今日のところの人々が驚いたということで考えてみますと、分かったから驚くんですね。
何でそんなことを言えるの、ということを言っているけれども、その人に権威があるのが分かるから、無視できない。
権威ある人がこう言っている。
それで驚いた。
これが、分からなかったら驚きません。
最近、YouTubeを見ていると、猫にマジックを見せるという動画がありました。
猫にマジックを見せると、猫はどんな反応をするか。
ものすごく驚くんですね。
分かったんですね。
同じマジックを人間の赤ちゃんに見せても驚かないでしょう。
分からないからです。
つまりマルコは、驚くという言葉をたくさん使うことによって、私たちに問いかけているんですね。
分かってますか?
今何を言いたいか、分かっていますか。
登場人物たちは分かって驚いていますが、あなたはここで何が言われているか、分かっていますか。
驚きなさいということではなくて、理解していますか、と問いかけているんです。

そしてここで、またびっくりするようなことがありました。
一人の人が叫びだしたんですね。
23節に「そのとき」とありますが、これも、「すぐに」という言葉です。
イエスの権威があらわになると、すぐに、汚れた霊に取りつかれた男が叫びだした。
というよりも、この人ではなく、これは汚れた霊の言葉ですね。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
この言葉も、驚くような言葉です。
人々は、イエスに神の権威があることは感じていたでしょう。
しかし当然、イエスの正体までは分かってはいなかったはずですね。
この汚れた霊は、イエスの正体が分かっていると言うんです。
イエスのことを指して、「神の聖者」という他ではほとんど出てこない珍しい言葉を使っていますが、そもそもこの「聖者、聖なる者」という言葉は、神を指す言葉です。
また、「我々を滅ぼしに来たのか」と言っていますね。
これも正しい認識です。
イエスが宣べ伝えている神の国というのは、神が王になることで、それは、この世の王である悪魔が滅ぼされる限りで実現することですので、やっぱりこれも正しいんですね。
汚れた霊たちは滅ぼされなくてはならない。
そうでなければ神は王になれません。
だからこの汚れた霊は、「かまわないでくれ」とイエスにお願いしたんですね。
汚れた霊としては、黙っている方が見つからずに済んで賢かったということになるのかもしれませんが、逃げ隠れすることはできないと思ったということでしょう。
この「かまわないでくれ」という言葉は、「あなたはわたしたちと何の関わりがあるのか」という言葉です。
つまり、まさか神が直々にやってきて、自分たちの支配が脅かされることになるとは思ってもいなかったんです。
この世というのは自分たちの国だと思い込んでいたんです。
少なくとも今まではそうだったじゃないかということですね。

汚れた霊に取りつかれた男の人のことで言うと、この人は意識を完全に乗っ取られて、自分の言葉を話すこともできないくらいにされてしまっていたということですね。
それは恐ろしいことですけれども、それほど力のある霊であったとしても、イエスの前では子どものようなものだということです。
何しろ、イエスは、この世の王である悪魔を打ち倒して、この世の王になられる方ですから、当然のことです。
むしろ、それくらいでなくては困ります。
ただ、ここまでの状態になっている人を私たちが見たことがあるでしょうか。
自分の言葉をしゃべれなくなっていて、汚れた霊の言葉をしゃべっている。
あまりないのではないかと思います。
しかし、ここまででなくても、ほんのわずかなら、私たちにも、「あなたはわたしと何の関わりがあるのか」と言いたくなってしまうことというのは、誰にでもあるのではないかと思います。
このままではいけない、悔い改めなさいという言葉を聞いて、自分にかまわないでくれ、という思いになる。
それは誰にでもあることのはずです。
何しろ、聖書によると、人間というのは、神に背くものなんです。
神の言葉に対して、放っておいてくれ、と思うことは、誰にでもあることです。
私たちのそのような思いも、汚れた霊の思いであると表現することができるでしょう。
そしてそれは、私たちの力ではどうすることもできないものです。
汚れた霊は人間を完全に支配することだってできるというのが今日の話です。
しかし、それを気にする必要はありません。
イエスが「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊は出て行きました。
このイエスの言葉ですね。
「黙れ。この人から出て行け」。
この言葉は、汚れた霊に向けられた言葉です。
この男性に向けられた言葉ではありません。
イエスは、神に背く私たちを滅ぼそうというのではないんです。
汚れた霊を滅ぼして、私たちを解放してくださるということなんです。
だから、言っていたんです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

ここに、汚れた霊とイエスの戦いが始まりました。
ここで終わったわけではありません。
ここからです。
言いようによっては、イエスの生涯は汚れた霊との戦いの連続だったと言えるでしょう。
そのクライマックスが、十字架の死であったと言うこともできます。
人間が神に背く者である、その罪を背負って、十字架にかかってくださった。
これは言いようによっては、私たちの汚れた霊を引き受けて、十字架で滅ぼしてくださったということです。
その、私たちに言われているんです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
神の国はまだ完成していません。
しかし、イエスの時代以来、確実に広がってきたと言えます。
だからこそ、悔い改めたい。
神に立ち返りたい。
信じなさいと言われているのは、私たちに対する裁きではありません。
私たちを解放するという福音です。
良い知らせです。
神は、神に背く私たちを滅ぼそうというのではありません。
汚れた霊を滅ぼして、私たちを救い出してくださるんです。
悔い改めて、福音を生きていきましょう。
神の国は、そこにこそあるのです。

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