2026年03月16日「わたしについて来なさい」

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わたしについて来なさい

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章16節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章16節~20節

原稿のアイコンメッセージ

前の場面で、イエスは、公の働きを始められました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
そのようにのべ伝えました。
では、ここからどういうことが起こってくるのでしょうか。
イエスの前に、洗礼者ヨハネという人がいて、この人は悔い改めの洗礼をのべ伝えていたということですから、イエスに先立って、イエスと同じようなことをしていたわけですが、この洗礼者ヨハネのところには、非常に多くの人が集まってきて、洗礼を受けたわけです。
それに対して、イエスはどうでしょうか。
イエスのところには、誰もやって来なかったかのように描かれています。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとありますが、一人で歩いておられたんです。
大勢の群衆が従っていたということではありません。
そして、ここで、イエスは四人の人に声をかけます。
その四人はイエスの最初の弟子になりました。
これも、洗礼者ヨハネの場合とは違いますね。
洗礼者ヨハネは、自分が出かけていって、人々に声をかけることはしませんでした。
人々は自分から、洗礼者ヨハネの元に来たんです。
ただ、その人々は、洗礼者ヨハネの元にずっと留まったということはありませんでした。
洗礼を受けたら、家に帰ったのです。
その点でも、イエスとの違いがあります。
イエスの弟子は、自分の家を出て、これから3年間、ずっとイエスと一緒に生活していくんです。

そう聞きますと、もうそれだけで、イエスの弟子になるというのは非常に大胆なことのように思えますが、この時代には、人生のある一定期間、家を出て、ある人に弟子入りして、その先生と一緒に生活をしながら学ぶ、というのは別に珍しいことではありませんでした。
現代では、大学に入る時に家を出て一人暮らしをする、ということが普通に行われていますが、それと同じようなものだと言ったらいいでしょうか。
あるいは、現代でも、職業によっては、その道の修行をするために家を出て東京に行く、ということがあるかと思いますが、それと同じようなことです。
当時も今も、全員がそういうふうにするわけではありませんが、それ自体は珍しいことではありません。

珍しいのは、イエスの方から声をかけて、弟子を選んだということです。
これは普通のことではありませんでした。
この時代には、誰に弟子入りするのかは、先生が決めることではなく、弟子になる人が決めることでした。
この先生の弟子になりたいとなったら、自分から、その先生の後をずっとついていくんですね。
先生の方から、「わたしについて来なさい」なんて言ってくることはありません。
自分で先生を選んで、ずっとついて行くんです。
そうすると、何日か経ったところで、先生の方から、弟子になっていいよとか、あなたには無理だよ、ということを言われて、弟子になれるかどうかが決まる、ということだったんですね。
最初から先生の方から声をかけてくるということは普通はありません。
弟子入りしたいと思ったら、自分からついて行くものなんです。

ということは、この四人の弟子たちには、イエスも驚くくらいの、他の人とは違う、何か素晴らしい点があったんでしょうか。
しかし、そういう話になりますと、気にかかるのは、イエスが直接選んだ弟子たちは最終的には全部で十二人になるんですが、その十二人の中には、聖書の専門家は一人もいなかったということですね。
もちろん、聖書の専門家の中にも、素晴らしい人もいれば、そうでもない人もいたんでしょうが、少しでも良い人を選ぶ、ということですと、まず、聖書の専門家に目を付けて、その中から、聖書以外の点でも良い人を選ぶ、というのがベストのように思えるんですね。
でも、そうはしなかった。
いや、そもそもイエスは、私たちが考えるような意味での良い人を選んでいたのかどうか。
何しろ、この十二人の中から、裏切り者が出るわけです。
そして、後の十一人も、イエスが逮捕されると全員逃げ出すわけです。
もちろん、イエスが十字架にかかることは、言ってみれば必要な手続きですから、裏切り者が出るというのも全員逃げ出すというのも、そうでなければ困るわけです。
裏切り者が出なくて、イエスの居場所が分からなくて、イエスを逮捕できないとなっては困ります。
裏切り者が出て、イエスの居場所が分かったとしても、他の弟子たちが頑張って戦ってイエスを逃がしたということになっても困ります。
それにしても、イエスの居場所が分かってイエスを逮捕するために、必ずしも弟子たちの中から裏切り者が出なくてはならないということでもないでしょう。
イエスの方から出頭してきてもいいわけです。
弟子の中から裏切り者が出なくても、弟子たちが逃げ出さなくても、別に構わなかったんです。
でも、弟子の中から裏切り者が出て、他の弟子たちはみんな逃げだした。
ということは、私たちが考えるような意味での良い人を弟子に選んだということではなさそうです。

では一体、イエスはどのような人を選んだのか。
この四人は漁師でした。
シモンとアンデレが湖で網を打っています。
仕事中だったわけです。
イエスは、その彼らをご覧になりました。
何気なくそちらに目をやってということではありません。
この言葉は、じっと見つめることを意味する言葉です。
イエスは、彼らの仕事ぶりをじっと見つめたんです。
イエスから声をかけて弟子にする時、弟子たちが仕事中であることがありますね。
2章14節で、イエスはレビを弟子にしますが、レビも仕事中でした。
私たちは、人に声をかけるのに、相手が仕事中だったら遠慮する、ということがありますが、イエスは気にしないんでしょうか。
そういうことかもしれません。
何しろ、これから、今やっている仕事よりも大事な仕事をすることになっていくんです。

しかし、それだけだとしたら、今やっている仕事の仕事ぶりをじっと見つめる必要はないですね。
今、声をかけたとして、その人がすぐについて来るかどうか、それを見極めておられたということでしょうか。
そう考えますと、確かに、イエスから声をかけると、断る人はいなかったんですね。
これは大事な点かも知れません。
普通の弟子入りだったら、ある程度前から、家族や職場の人や友人には、何月何日からあの先生のところに行くよ、と言っておくのが当然だったことでしょう。
でも、イエスの弟子になることはそれとは違います。
イエスの方から、突然、「わたしについてきなさい」と言ってくるんです。
それに、すぐにその場で応えることができるかどうか。
すぐにその場で応えなくてはなりません。
これは、ルカによる福音書の9章62節ですが、弟子になりたい人の方からイエスに声をかけたことがありました。
その時、その人はこう言ったんですね。
「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。
まず、いとまごいに行かせてください。
まず、家族にお別れの挨拶をさせてください。
それは当たり前のことのように思えます。
しかし、その時、イエスは断ったんですね。
イエスはその人にこう言いました。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。
家族に別れを告げるよりも、他のどんなことよりも、神の国が優先なんです。
何しろイエスは、「神の国は近づいた」と言って働きを始めたわけですから、神の国が第一なんです。
もっと言うと、神の国と言った時の国という言葉と王という言葉は原文ではほとんど同じような言葉ですから、神が王になってくださる時が近づいたということですね。
だからもう、他のものを王にしていてはいけないんです。
自分は王ではない。
自分の都合も王ではない。
家族も仕事も王ではない。
神を王にするんです。
そのために、すべてを捨てて、神の子イエスに従うんです。
これはもう弟子入りなんてものではありません。
丸っきり、生き方を変えることです。
それが求められているんです。

これは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人たちには起こらなかったことでした。
洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人たちは、ヨハネの教えや活動について聞いて、そこに期待して、自分からヨハネの元に行って、洗礼を受けました。
その人たちも、家に帰ってから、心新たに新しい生き方をそれぞれに始めていったことでしょう。
中には、洗礼を受けただけで何も変わらなかった人もいたことでしょうが、かなり立派な生き方ができるようになったという人もいたことでしょう。
ただ、いずれにしても、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人たちは、自分の考えで洗礼を受けたわけです。
だとしたら、その後の生き方というのも、基本的にそれまでの自分の考えから外れるようなものではなかったでしょう。
今までの自分の延長線上で生きていったんです。
イエスの弟子になるのは、それとは違います。
全く予想していなかったことに、イエスの方から自分のところにやってきて、あなたはわたしの弟子になりなさいと要求されるんですね。
そして、それに応えることから、実際に、この弟子たちに、それまで考えたこともなかったというか、全く想像もできなかったような新しい人生が、ここから始まっていったんですね。

しかし、そうなりますと、私たちとしては、そんなことができるのか、という思いになります。
仕事も家族も捨てて、ある日突然、それまでは良く知りもしなかった先生について行く。
そんなことは一体誰にできるのかと思うのです。
そして、実際、そんなふうにしてイエスに従った弟子というのは、イエスが働きを始めた最初の頃にイエスの弟子になった人たちぐらいです。
その人その人がどのようにしてイエスの弟子になったのかという話は聖書にそんなにたくさん書かれてあるわけではありませんが、例えばパウロの場合ですと、パウロが正しいことをしていると思ってキリスト教会を迫害していた時、イエスがパウロに出会ってくださって、パウロを回心させてくださったんでした。
パウロの場合は、イエスが、パウロの考えを変えてくださったということがあったんです。
それは、今日の場面にはないことです。
ただ、そのパウロにしても、ユダヤ教の若いエリートというそれまでの自分をすべて捨てて、イエスに従うようになったことは確かです。
ただ、すべてを捨てる、というのは文字通りのことではありません。
実際、この後、イエスはシモンとアンデレの家に行って、シモンのしゅうとめの熱を癒しています。
シモンとアンデレが、しゅうとめが熱を出しているからということで、イエスを自分の家に招いたんでしょう。
別に、家も家族も捨てていなかったんです。
また、イエスが十字架に付けられた後、弟子たちは、湖に出て漁をしています。
ということはやっぱり、文字通り、漁師を完全にやめたわけではかったわけです。

ただ、そもそも、弟子入りするというのは、何年間か、その先生にずっとついて行くことでした。
そうなりますと、家族とは一緒にいられません。
今までの仕事もできません。
となると、家族にも網にも舟にも、もう頼れなくなるわけです。
他のものには頼らずに、イエスに頼る。
そのような生き方を、弟子たちはしていったんです。
大事なのは、形の上で何かを捨てたかどうかではなく、考えの上でのことです。
本当に神を王にして、王に頼っているか。
それには、他の何者かを王にして、他の何者かに頼っていないか、ということが問われるんですね。
家族と別れる、仕事を辞める、ということが大事なのではありません。
パウロは、一生涯、テントを作る仕事を続けました。
シモンとアンデレは、何年間か、漁師の仕事をしませんでしたが、家族と別れたわけではありませんでした。
大事なのは、どこで何をしていようと、神を王にしているのかどうかです。
つまり、他のものを王にしていないかどうかです。
それが問われるんです。

そして、私たちは皆それぞれに、少なくとも今この時は、他のものを王にせず、神を王にしているから、ここにいると言えます。
もし、自分の王にしているのなら、ここには来ないで遊びに行くということも、ゆっくり寝ていることもできたわけです。
仕事を入れる、ということもできたかもしれません。
家族の中でお一人だけで教会にいらしている方は、家族を王にしていたら教会には来れなかったかもしれません。
私たちは今ここで実際に、「わたしについて来なさい」というイエスの招きに応えているんです。

そのイエスが、私たちにおっしゃいます。
「人間をとる漁師にしよう」。
四人の弟子たちが漁師でしたからこのように言ったんですが、実は「人間をとる漁師」とか、神が人を釣り上げるという話は旧約聖書にしばしば出てきます。
漁師は、水の中に隠れている魚を釣り上げるんですが、そのように、隠れしている人の罪を見つけて、人を釣り上げるんです。
つまり、人間をとる漁師は、罪人に対する神の裁きのために遣わされるんですね。
しかし、罪人に対する神の裁きを代わりに受けてくださったというのが、イエス・キリストの十字架です。
だからこそ、イエスはキリスト、救い主なんです。
罪人の救い主です。
だから弟子たちは、これはイエスご自身も同じですけれども、罪人のところに出かけていって、罪人を集めるんですね。
イエスは、聖書の専門家のような人のところには、ご自分からは行かないんです。
その人たちは、自分が罪人だとは思っていないからです。
聖書で言う罪というのは原文では的外れという言葉で、自分を一番に愛するエゴを指す言葉なんですが、聖書の専門家は自分がエゴイストだとは認めません。
基本的に、自分は自分を殺して聖書の言葉に従っているとしか考えません。
それは、違う言い方で言うと、自分で自分を王にしているんです。
イエスは罪人を集めます。
罪人こそ、自分の罪に気づいて、神を王にすることができるからです。

そのために、今日、四人の漁師が弟子になりました。
これが、イエスが最初になさった御業であったと言えます。
イエスは、何をするよりも先に、弟子を求めました。
どうしてでしょうか。
これからイエスはご自身の働きを進めていかれますが、働いた期間は3年半です。
十字架と復活の後、イエスは天に上げられます。
それは、天から弟子たちに聖霊を降してくださるためですが、イエスが天に上げられてからは、地上で弟子たちが働いていくんです。
世々にわたって、働き続けるんです。
一人でも多くの人を神の国に取り戻すためです。
そのために、いつの時代でも、弟子が必要なんです。
人間をとる漁師が必要なんです。
イエスはとにかく、一人でも多くの人を救いたいんです。
ご自分自身が生きているその時代の中で、身近な何人かでも救われればそれでいいとは考えなかったんですね。
一人でも多くを救いたいんです。

旧約聖書の時代には、神の民は、山に登って神のみ声を聞くということがありました。
山というのは神に近い場所だったわけです。
かつての神の民は、自分たちだけが、少しでも神の近くに行こう、という意識で生きていた。
その逆に、新約聖書の神の民は、海に乗り出して漁をするんですね。
イエスも、山に登って祈ることがしばしばありました。
神に近づくという意識は必要なものでもありますね。
しかし、イエスはすぐに山から下りてくるんですね。
そして、罪人のところに行くんです。
海に乗り出して漁をするんです。
一人でも多くを救うためです。
私たちは今、山に登って神のみ声を聞いていると言えます。
大事なのはここからです。
イエスは、私たちにもおっしゃっておられます。
「人間をとる漁師にしよう」。
神を王にする生き方を、世にあって、証していきたいと思います。
いや、今すでに、このように礼拝に集っていること、それ自体がもう証になっていると言えますね。
そして、そもそも、無理に頑張る必要はありません。
私たちは、「人間をとる漁師になれ」と言われているのではありません。
イエスが私たちを、「人間をとる漁師にしよう」と言っておられるんです。
大丈夫です。
イエスの言葉は実現します。
今日のイエスの言葉が、ペトロとヤコブ、ヨハネとアンデレに実現していったように、私たちにも実現します。
私たちはその、約束の御言葉を聞いたのです。

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