2026年02月15日「あなたはわたしの愛する子」

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あなたはわたしの愛する子

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章2節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章2節~11節

原稿のアイコンメッセージ

この福音書は、1章1節で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まったんですが、続く2節では、イエスの話は出てこなくて、この通り、旧約聖書のイザヤ書にこう書いてある、という話につながるんですね。
預言者イザヤとありますが、イザヤという人は、神から御言葉を預かって、それを人に伝える働きをした人です。
それが預言者の働きなんですね。
そして、預言者というのはイザヤだけではありませんでして、大体いつの時代にも一人か二人はいたんですね。
そして、それら預言者たちの言葉が、旧約聖書にはたくさん収められています。
旧約聖書の中で、「イザヤ書」というように、カタカナで名前が書かれて「○○書」というタイトルになっているのが預言書です。
たくさんの預言者たちが、神の言葉を人に伝える働きをしてきました。
そして、イザヤはイエスの時代から700年前の人で、旧約聖書の最後の預言書はマラキ書なんですが、マラキという人はイエスの時代から400年前の人です。
そして、マラキの時代までは、大体いつの時代も預言者という人が一人か二人はいたんですが、マラキの時代より後には、預言者という人が出てこなくなりました。
そうなりますと、人々の感覚としては、預言の時代は終わったということになりますね。
神が言葉で人に伝える時代は終わった。
後は、実際に、預言の通りに救い主がやってくる、それを待ち望むんだということになっていくんですね。
そもそも、預言者が伝える神の言葉には共通点がありまして、一つは、人々に対して、悔い改めなさいということです。
そして、もう一つは、いずれ神の元から救い主がやってくるということでした。
救い主を迎えることができるように、罪を悔い改めなさいということにもなるでしょうか。
そうしますと、今日の3節ですが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」、これは、救い主がやってくることを示している言葉だと言えますね。
「主の道」という言葉がありますが、「主の道」というのは、戦争に勝って帰ってくる王を迎える道のことです。
そもそも、1章1節に、イエス・キリストの福音とありましたが、その「福音」という言葉は、もともとは、戦争に勝ったという知らせのことでした。
つまり、救い主が、私たちのために勝利してくださって、私たちのところにいらしてくださる、私たちに勝利をもたらしてくださる、だから、その道を整えよう、ということです。
ただ、その声は、荒れ野で聞こえるということですね。
今はまだ、救い主を迎えるのにふさわしい道は敷かれていないんです。
人々の側に、救い主を迎える準備ができていない。
だからこそ、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われるんですね。
これは、悔い改めなさいと言うことですね。
そして、そのように叫んでいる者のことが、2節では、先に遣わされる使者だと言われています。
使者が先に遣わされる。
その後から、救い主がやってくる。
この2節の方はイザヤ書ではなくてマラキ書の言葉なんですが、イザヤが言っていた叫ぶ者というのは、マラキの言っていた使者だと言いたいんですね。

そのような者として、洗礼者ヨハネが現れました。
洗礼者ヨハネは、ヨルダン川が流れる荒れ野に現れました。
ヨルダン川というのは、その昔、エジプトで奴隷だった人々が、エジプトを脱出して、その川を越えて、神が約束してくださった土地に入っていった、その場所です。
豊かな土地が、もうすぐそこに広がっている。
ただ、洗礼者ヨハネがいたのは荒れ野です。
荒れ野に、道を通さなくてはならない。
それは、かつてのように、人々がその道を通ってそこに入っていく道ではありません。
もうすぐ、約束の救い主がいらしてくださる。
その救い主を迎えるために、荒れ野に道を備えるんです。
それが、罪を悔い改めるということです。
罪を悔い改めない限り、荒れ野なんです。
主の道が通っていないということになるんです。

ここで興味深いのは、洗礼者ヨハネは、洗礼を授けたとは言われていません。
洗礼を「宣べ伝えた」と言われています。
そもそもこの時代には、洗礼というと、異邦人が信仰の道に入る際に受けるものでした。
ユダヤ人は洗礼を受けなくてよかったんですね。
ユダヤ人というのは神が選んだ神の民だからです。
悔い改めれば赦しが得られる、そのために罪を洗い清める洗礼を受けるというのは神の民でない異邦人がすることで、ユダヤ人は最初から神の側にいるのだから大丈夫だと考えられていました。
にもかかわらず、ユダヤ人に洗礼を授ける。
こういうことはそれまでにはなかったことでした。
そして、洗礼者ヨハネが宣べ伝えたことがもうひとつあります。
それが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということですね。
7節、8節で洗礼者ヨハネ自身が言っています。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
「わたしよりも優れた方が、後から来られる」。
そう言う洗礼者ヨハネは救い主に先立つ使者なんですね。
「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」。
履き物のひもを解くというのは奴隷の仕事です。
自分は救い主の奴隷ですらない。
「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。
わたしは水であなたがたの罪を洗い清めるが、その方は神の霊をあなたがたにくだしてくださる。
そこで、そうなるように、人々に悔い改めの洗礼を授けて、救い主を迎える準備をさせているんですね。

ここで、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と書かれていますが、これはいくら何でも大げさに書いていることでしょう。
ただ、洗礼者ヨハネのことが社会現象のようになっていたことは、この時代から数十年後の歴史の本にも書かれていますし、非常に多くの人が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことは間違いないでしょう。
ただ、そうなりますと、反発する人も非常に多くいたはずです。
何しろ、洗礼者ヨハネの洗礼は、ユダヤ人のプライドを否定するものでした。
異邦人でもないのに、どうして神の民である自分が洗礼を受けなければならないんだと思う人は多くいたことでしょう。
でも、誰も洗礼者ヨハネの洗礼を止めることはできなかった。
これは、当時のイスラエルの置かれていた状況が苦しいものであったことが関係しているのでしょう。
この時代、イスラエルの国はローマ帝国という大きな国に支配されていました。
神の民である自分たちの国が、異邦人に支配されているんです。
自分たちは神の民だから、異邦人とは違うんだ、と思ってはいたでしょうが、それを口に出しても空しいような状況に置かれていたんです。
もし、イスラエルの国が独立を保って、栄えていたら、洗礼者ヨハネの活動は社会現象というほどにはならなかったはずです。
苦しい状況の中でこそ、罪を指摘して悔い改めを求める言葉が心に響きます。

そもそも、聖書で言う罪という言葉は、原文では「的外れ」という言葉で、それはアダムとエバが食べてはいけないと神から言われていた木の実を食べてしまったことに始まるのですが、その時、神から、お前は何をしたのかと問われて、アダムは、自分に木の実を渡したエバのせいにした、もっと言うと、エバを自分のところに連れてきた神のせいにもした、エバは、自分をだました蛇のせいにした。
嘘をついているわけではありませんが、謝らなければいけないのに、謝るどころか他者のせいにした。
これが「的外れ」ということです。
自分中心というか、自分のことにばかり、偏って心を向けている。
一般的な言葉で言うと、エゴと言ってもいいかもしれません。
それが聖書で言う罪ということです。
つまり、多かれ少なかれ、誰にでもあるものです。
しかしそれは、今日の言葉で言うと、心の中が荒れ野であるということです。
自分のことに心を向けて、神に心を向けない。
それは、心の中に主の道が通っていないということです。
それでは、救い主を迎えることはできません。
私たちも、気を付けなければなりません。
私たちは心の中に主の道が通っていると思っているかもしれません。
しかし、聖書で言う罪というのは、多かれ少なかれ誰にでも当てはまるものです。
私たちの中の主の道は、どこかで道が途切れているということだってあり得なくはないんです。
そもそも、自分が的外れかもしれない、方向性を変えなくてはならないかもしれないというのは、誰でも意識していなければならないことです。
ただ、そうだとしても、いつでもその場で道を通すことはできます。
それが悔い改めです。
悔い改めるとは、自分に向けていた心を、神に向き直らせることです。
悔い改めと訳されていますが、原文では「帰る」という言葉です。
神から離れてしまって、だからこそ、エゴで生きていかなければならなくなったところから、神に立ち返る。
その悔い改めによって、主の道が敷かれます。
そのために洗礼者ヨハネは働きました。

その洗礼者ヨハネですが、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」とわざわざ書かれています。
らくだの毛衣というのは、らくだの皮をそのまま着ているのではなく、ラクダの毛織物のことです。
そして、腰には皮の帯、ということですが、これは昔の預言者だったエリヤの服装なんですね。
洗礼者ヨハネは、エリヤに倣って働いたんです。
そして、エリヤも、ヨルダン川で、罪の悔い改めを宣べ伝えた人でした。
いなごを食べる、と聞きますと日本でもそういうことがあるわけですが、これは、昆虫のいなごかもしれませんし、イナゴマメというナッツのことかもしれません。
野蜜というのは、蜂蜜のことです。
とにかく言えることは、荒れ野で、そこにあるものを食べていたということです。
洗礼者ヨハネは、自分が宣べ伝えていることの通りの生き方をしていた、と言えるのかもしれません。
ある神学者は、自分もヨハネのようでありたい、と言ったそうです。

そこに、イエスが洗礼を受けにやってきます。
川の水に浸かって、そこから上がると、「“霊”が鳩のように御自分に降って」来ました。
聖霊は目に見えませんから、「鳩のように」というのは、鳩の形でということではなくて、鳥が羽ばたくような感じで、ということでしょう。
聖霊については、創世記の最初に、「神の霊が水の面を覆っていた」とありますが、その「覆っていた」という言葉が、羽ばたくという言葉です。
聖霊はじっとしているものではないんですね。
エネルギーの塊なんです。
そして、この聖霊が、これからずっと、イエスと一緒に働いていくんですね。
これは聖書の歴史の中ではものすごいことです。
何しろこの聖霊というものは、もともと、人間と一緒にずっといたんですね。
ですけれども、創世記の6章に入ると、人間の罪が深まってきまして、それによって、神が聖霊を人間から取り上げるということがありました。
その後、聖霊が人に降るということも旧約聖書の中で時々はありましたけれども、それはその時だけで、聖霊が人と共にずっといてくださるということはもうなくなっていたんですね。
それが、この時、まず、イエスに聖霊が降って、ずっと共にいることになった。
そして、そのイエスが天に昇ってから、父なる神にお願いして、弟子たちに聖霊を降してくださって、弟子たちとも、聖霊は一緒にいてくださるということになっていくんですね。
これが、洗礼者ヨハネがイエスについて言っていた、「聖霊による洗礼」ということです。
とにかく、ここから、聖書の歴史に一線を画するようなことが起こっていくんです。

ただ、どうして、イエスが洗礼を受ける必要があったのか。
洗礼者ヨハネの洗礼は、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼ですね。
しかし、イエスは、人に罪の赦しを得させるために、ご自分が人の罪を背負って十字架にかかる、そのために来られたんです。
そして、死に打ち勝って復活する。
だからイエスのやってくる道は、「主の道」だと言われるんです。
罪と死と戦ってそれに打ち勝った王を迎える道なんです。
普通の人がそんなことをすることはできません。
だから、イエスのことが、この福音書の最初から、「神の子イエス・キリスト」と言われています。
人間の子だったら人間です。
神の子ということは神なんです。
神でなければそんなことできませんし、神にも罪があって悔い改めないといけない、神に向き直らないといけないなんていうことはおかしな話です。

けれども、これは神の御心にかなうことだったんですね。
天から声が聞こえました。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
イエスも悔い改めなければならなかったということではありません。
罪がないにもかかわらず、イエスが罪人である普通の人間と同じように洗礼を受けてくださったのは、もうその時から、救い主としての働きの最初から、神でありながら、人間の側に立っていてくださっていて、私たちの罪を背負うということをなさってくださっていたということです。
父なる神は、それを喜んでくださったんです。
救うと言っても、いろいろな形があるのかもしれません。
ただ、イエスという方は、私たちの罪と、そこからくる苦しみ悲しみを、私たちと共に背負って、共に歩んでくださる方なんです。

私たちも、洗礼を受けると聖霊が与えられます。
聖霊は神の霊で、つまり神です。
ですから、洗礼を受けると、父なる神とも子なる神イエスとも、一つとされます。
つまり、洗礼を受けた人は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、この御言葉を、自分自身に語りかけられている御言葉として聞くことになります。
イエスは私たちの罪を背負ってくださる方であり、私たちは背負っていただく側ですが、そのためにこそ、イエスは私たちのところに来られたのですから、私たちが洗礼を受けることは、まことに御心に適うことです。
ですから、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、この御言葉は、神が私たちにおっしゃってくださっている言葉でもあるんです。
私たちは、神に愛されている。
愛しているから、イエスを人となって、私たちのところにいらしてくださったんです。
愛しているから、私たちを背負ってくださるんです。
愛しているから、代わりに十字架にかかるんです。
私たちは愛されている。
その愛を、私たちは受け入れた。
それが洗礼を受けるということです。
神の御心に適うことです。
神に愛され、御心に適う者として、私たちは、今ここに、在る。
そのことに感謝したいと思います。

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