身を起こして頭を上げる
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 21章20節~28節
20「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。21そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。22書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。23それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。24人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。
25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 21章20節~28節
今日の話はなんだか恐ろしい話ですね。
大変なことが起こってくるような感じです。
折しも、今日は選挙の投票日ですね。
私たちの一票で政権を選択するわけですが、それによって、この国がどう動くか。
政権の選択によっては、大きなことが起こってくるかもしれないということをわきまえておかなくてはいけません。
戦前の日本の政権も、ドイツの政権も、国民の投票で選ばれたんですね。
民主的な選挙が行われないような独裁政権というものも、国民の支持を失えば、政権はひっくり返ります。
私たちには、国がどのような国であるかに、責任を負っています。
今日はそれを表す日ですが、私たちがどのような未来を望むかだけでなく、どのような未来を望まないかということも考えて投票したいですね。
国民が政権の選択を間違うことがあるのは、自分が望むことだけ考えて、自分が望まないことを考えないからです。
候補者たちも、私たちが望むことにばかり、訴えてきます。
しかし、私たちは、何を望まないか、それをはっきりさせて投票に望みたいですね。
今日の場面では、未来に起こる大変なことが言われています。
世も末だ、という言葉はいつの時代にもある言葉なんでしょうし、今の私たちの時代も、見ようによっては世も末だ、という感じですが、今日の場面の特に後半の方で、世の終わりのことが言われています。
ただ、イエス様は、今日の場面の前の場面から、ずっとこういう話をしてきていて、しかし、その話というのは、惑わされてはならない、おびえてはならないという話だったんですね。
今開いていただいているページの前のページから、なんだか怖い話が始まったんですけれども、前のページの上の段のところで、イエス様が神殿の崩壊を予告したわけです。
イスラエル人にとっては神殿というのは神様がいる場所ですから、神殿が崩壊するというのはイスラエル人にとってはもうそれはまさに世の終わりの出来事ですから、イスラエル人たちは、それがいつになるのか、そういうことがあるとしたらどういうしるしがあるのかをイエス様にたずねたんですけれども、イエス様はそれに対して、惑わされてはならない、と言うんですね。
そして、戦争が起こったり地震があったりしても、世の終わりはすぐには来ないと言うんですね。
考えてみればそれはそうですよね。
戦争にしても地震にしても、いつの時代でもあることです。
神殿の崩壊にしても、人間が作ったもので壊れないものはありません。
人間が作ったものはどんなものでもいつかは壊れますし、戦争にしても地震にしても、大きな戦争とか大地震なんかがあるとひとつの時代が終わったと私たちは感じますけれども、別にそれで世の終わりではなくて、そこから新しい時代が始まっていくんですね。
81年前に戦争に負けてから、日本は新しい時代に入りました。
15年前に大地震があって、新しい時代に入ったと言ってもいいでしょう。
ただ、古い時代が終わって新しい時代に入ったからといって、それは世の終わりではないんですね。
世の中は続いていくわけです。
ですから、そういうものに惑わされるなとイエス様は言うんですね。
そんなのは世の終わりではない。
大事なのは、世の終わりは人間の力で起こるものではないということですね。
ですから、今日の場面では、前半のところに「エルサレムの滅亡を予告する」というタイトルが付いていますけれども、これにしたって、長い歴史の中でそういうことは当然起こるという当たり前のことを言っているだけですね。
前のページの下の段の9節で、「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」という、そういうことなんですね。
要するに、やっぱりこれも惑わされるなということなんです。
エルサレムという一つの町が滅亡するんですから、そのことによって世の中は新しい時代には入るでしょう。
イエス様も24節で、そこから「異邦人の時代」になる、と言っていますね。
時代は変わるんです。
でも、世の終わりではないんです。
惑わされてはいけないんですね。
だから今日イエス様は、21節で、「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」って言っているじゃないですか。
この言葉は実は、惑わされてはならないということを言っているんです。
「エルサレムが軍隊に囲まれ」たら、「山に逃げなさい」とか「立ち退きなさい」とか「都に入ってはならない」とか、それは私たちからすると当たり前のことにように思われるかもしれませんけれども、この時代の町というのは高い壁で囲まれていたんですね。
だからもう、町というのはそのままお城のようなものだったんです。
ですから、戦争になりますと、人々は町の中に入って、そこに立てこもって戦ったんですね。
それなのにイエス様は「山に逃げなさい」とか「立ち退きなさい」とか「都に入ってはならない」と言っているんです。
まして、エルサレムには神殿があるわけです。
神殿には神様がおられるとイスラエルの人たちは信じていました。
ですから、イスラエルの人たちは、神殿があるこのエルサレムの町にいれば大丈夫だと信じていましたし、神殿の祭司たちも人々にそういうふうに教えていました。
この町には神殿があるから、何があっても大丈夫だと言っていたんです。
けれども、実際にはどうなったかと言いますと、この時から40年後、エルサレムはローマ帝国の軍隊に囲まれてしまいまして、滅ぼされてしまったんですね。
そしてその時には、たくさんの人が神殿の中に逃げ込んだんですが、神殿が焼け落ちて、神殿の中で死んだんだそうです。
ですからまさにこれ、「山に逃げなさい」とか、「立ち退きなさい」とか「都に入ってはならない」とかいうのは、惑わされてはならないということですよね。
神殿は大丈夫だ、エルサレムは大丈夫だという言葉に惑わされてはならないということですね。
それは別にイエス様がすごいことを予言したということでもないんだと思います。
実際に神殿は、この時までに一度崩壊しているんです。
これは旧約聖書にも書かれていることですが、紀元前6世紀のことです。
その時はバビロニア帝国という国が攻めてきて、エルサレムは滅亡して神殿が崩壊するということがあったんです。
それなのに人々は何の根拠もない考えにしがみついてしまって、それに惑わされてしまって、命を落としてしまったんですね。
エルサレムは大丈夫だ、神殿は大丈夫だと言っていた祭司たちは、何も人々をだまそうとしていたわけではないでしょうね。
ですけれども、間違った信念にとらわれてしまって、結果として人を惑わしてしまって、人々が命を落とすことになってしまったわけです。
これと似たようなことが81年前の日本にもありましたね。
81年前の戦争を指導した人たちは、日本の国は神の国だから、日本は戦争に絶対負けないと言っていたんですね。
間違った信念にとらわれてしまって、自分も人も惑わしてしまうというのも、いつの時代でもあることではないでしょうか。
私たちも気をつけたいですね。
こうしていたら大丈夫だ、とかいう話を私たちはいろいろなことについて、いろいろなところで聞くことがありますけれども、本当にその話に根拠があるのか、間違った信念に惑わされていないか、よく気を付けたいと思いますね。
相手は何もこちらをだましているつもりなんかなくても、結果として惑わされてしまうということがないとは言えないんですね。
考えてみると、イエス様がここまで惑わされてはならないということを言うのは、私たちが惑わされやすいからじゃないですか。
私たちが惑わされやすいから、それをよく知っていて、惑わされるな、とここまでいろいろ言ってくれていると思うんですね。
もしかしたら、今も、私たちは何かに惑わされているかも知れない。
惑わされているのに、惑わされていることに気づいていないだけかもしれない。
自分自身の頭の中を良くチェックしたいですね。
ただここでイエス様は、ただ単に惑わされてはならないと言っているだけではないんだと思います。
「山に逃げなさい」とか「立ち退きなさい」とか「都に入ってはならない」とかおっしゃっておられるんですが、それは、惑わされてはならないという意味だけではありませんね。
ここでイエス様は、生きのびなさいと言っているんですね。
人が作ったものが壊されて、もう世の終わりのようになったとしても、それで世の終わりが来るのではない。
もうおしまいだと思うようなことがあっても、あなたは生きていきなさい。
イエス様はそう言っておられるんだと思います。
今日の22節なんかを見ますと、「書かれていることがことごとく実現する報復の日だ」なんていう言葉があって、ここに出てくる「報復」という言葉は「裁き」という言葉なんですが、これは神の裁きだ、だから、これはもう世の終わりだと思ってしまうことだって私たちにはあると思うんですね。
それでも、それは世の終わりではないんですね。
もうおしまいだと思うようなことがあっても、あなたは生きていきなさい。
そう言ってイエス様は私たちを励ましてくださっているんだと思います。
考えてみると私たちは割と簡単にもうおしまいだと思ってしまうところがあると思うんですね。
自分で自分を惑わしてしまうというか、そういうところがあると思うんです。
もうおしまいだ、と思ったことが一度もない人というのは、かなり少ないのではないかと思います。
でも、もうおしまいだと思うようなことがあっても、あなたは生きていきなさい。
イエス様は私たちを励ましてくださっているんですね。
人に惑わされるな、自分に惑わされるな、あなたは生きていきなさい。
そう言ってくださっている。
ただ、世の終わりというのはいつか必ずやってきます。
それは聖書を読んだことのない人でも認めていることですね。
この地球という星にも、太陽という星にも寿命がありますから。
25節からのところでは、何かそんなことが言われていますね。
太陽と月と星に徴が現れ、地上では海がどよめき荒れ狂う。
何か大変なことになっています。
ただこれは、大きな国が滅ぶ時に聖書ではこういう表現をするんですね。
この表現は、大きな国が滅ぶということを言っているんです。
どんな大きな国でも必ず滅びます。
どんな大きな国でも、国というのは人間の力による支配なんですから、永遠のものではありません。
国が滅ぶというのは人間の歴史の中で普通に起こってきたことです。
もちろん、それはその国に住んでいる人にとっては大変なことで、世の終わりだと思ってしまっても不思議ではないことなんでしょうが、人間が作ったもので壊れないものはありません。
ですから、それ分かっていれば別に惑わされることはないわけです。
ただ、続きを読んでいきますと、「天体が揺り動かされる」と書かれています。
この「天体」という言葉は、「天の力」という言葉なんですね。
ですからこれは、天の力も揺り動かされるような出来事が起こると言っているんです。
だとしたら当然、大きな国が滅ぶ、人間の力が滅ぶ、ということにもなるでしょうね。
ではどうしてそういうことが起こるのかといえば、27節です。
「そのとき、人の子が大いなる力を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」んですね。
これは旧約聖書のダニエル書の7章にこの言葉があるんですが、世の終わりに救い主がやって来ることをこういう言葉で表現しているんですね。
実際に雲に乗ってやってくるのかは分かりませんが、とにかくこれは、救い主がやって来ることを表す表現です。
世の終わりに救い主がやってくるからこそ、天の力も揺り動かされて、人間の力は滅ぶわけです。
その救い主というのは誰なのかと言うと、今お話なさっているイエス様が自身なんですね。
イエス様はこの後、この福音書の最後のところで、天に上って行かれますが、その前に、再び地上に来られることを約束しておられました。
それが世の終わりの時なんですね。
ですから、イエス様は今、戦争や地震などに惑わされるのではなく、私に目を向けなさいと言っておられるんですね。
世の終わりは、私が再び来ることによって起こる。
その私に目を向けなさい。
イエス様はそう言っておられるんです。
世の終わりに救い主は「大いなる力を帯びて」やってきます。
イエス様は最初に地上にこられた時には、力が全くないようなところにお生まれになりました。
生まれたのは馬小屋ですね。
それは生まれてくるのにふさわしい場所ではありません。
誰よりも低い状態でお生まれになられたんです。
しかし、だからこそ、誰でもそこに近づけることができるわけです。
もしイエス様が力にあふれたような場所に生まれていたとしたら、例えば、お城のような場所に王子として生まれていたとしたら、誰も勝手にイエス様に近づくことはできません。
けれども、イエス様は馬小屋にお生まれになられました。
そして、イエス様を最初に礼拝したのは羊飼いたちです。
羊飼いは人間であって人間でないような、低い人たちだと見なされていました。
その羊飼いがイエス様を最初に礼拝したんです。
これは、どんな人でもイエス様に近づいて、イエス様を礼拝することができるということです。
ということは、どんな人でもイエス様は救うことが出来るということです。
それだけの力があるということです。
だからこそ、世の終わりに来られるときには、「大いなる力を帯びて」来られるんですね。
その力は、すべての人々を裁く力です。
裁くというのは、救われる者と滅びる者とを分けることです。
世の終わりがいつかやってくるその時、人間の力が滅んで、天の力も揺り動かされる時、25節ですが、「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥」ります。
けれども、私たちはそうではない。
洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちは、その時こそ、28節ですが、「身を起こして頭を上げ」るんですね。
そこに書かれていますが、「解放の時が近いから」です。
私たちが人の力に支配されている、罪の力にも支配されている、そこからの解放の時が近いからです。
私たちはその約束を信じて生きていくんですね。
救い主イエス・キリストを見つめて、この世を生きていくんです。
今日読んできた世の終わりの表現は恐ろしいような表現が多くありましたが、私たちは、世の終わりの裁きの時を考える時、恐れる必要はありません。
確かに、恐れたくもなるような大きな出来事がこの世に起こるのでしょうが、私たちには信じていいことがあります。
イエス様が私たちを愛しているということです。
それも、命がけで私たちを愛してくださっているということです。
命がけで私たちを愛してくださって、私たちの罪に対する罰を代わりに受けてくださったということです。
私たちは自分の罪を自分自身ではどうすることもできません。
私たちには生まれつき、神に背く性質があります。
けれども、そんな私たちをイエス様は愛してくださり、罪に対する罰を代わりに受けてくださったのです。
ですから、私たちには、もう受けなければならない罰はないのです。
今や、私たちは、命がけの約束の中に入れられています。
私たちは、命がけでイエス様が私たちを救ってくださったという約束の中に入れられています。
私たちは、そのことを信じて洗礼を受けたのです。
罪を洗い清めるキリストの洗礼を受けたのです。
もう私たちは世の終わりの罰を待つ者ではありません。
私たちは、世の終わりの解放の時を待っています。
世の終わりに大いなる力を帯びてキリストはこられます。
そのキリストを待ち望みながら生きるとき、私たちは、この世のどんな力にも惑わされない生き方ができるはずです。
惑わされやすい私たちが、自分の考えにも、人の言葉にも惑わされずに生きていくことができるとしたら、それは救い主を見つめることによってだけではないかと思います。
今日、キリストは、惑わされずに、身を起こして頭を上げてに生きていくようにと、私たちを励ましてくださっています。
今日の場面の世の終わりについての表現は確かに恐ろしいものです。
けれども、イエス様はそこで私たちに対して、覚悟しなさいとか、そういうことは言わないんですね。
「身を起こして頭を上げなさい」、「解放の時が近い」。
そう言うんですね。
この言葉に従って、身を起こし、頭を上げて、惑わされずに真っ直ぐに生きていきましょう。
