イエス・キリストの良い知らせ
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 1章1節
神の子イエス・キリストの福音の初め。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章1節
今日から、マルコによる福音書を読んでいきたいと思います。
マルコという名前の人は使徒言行録にも出てきますが、使徒言行録に出てくるマルコがこの福音書を書いたマルコなのかどうかは100%確実なこととしては言えません。
同じ名前の別の人の可能性があるということですね。
ただ、この福音書を書いたマルコについては、聖書以外の記録では、ペトロの通訳だったと記録されています。
だとしたら、この福音書には、マルコがペトロから聞いた話がたくさん書かれていることでしょう。
ただ、この福音書が書かれたのは、イエスの時代から30何年くらい経ってからのことです。
若い頃にペトロと一緒に働いていたマルコが、おじさんというか、当時の感覚で言うと、おじいさんになってから書いたものなんですね。
どうしてそれまで福音書を書くということをしなかったのかと言いますと、イエスのことを直接見て、直接話して、よく知っているという人たちがたくさんいましたから、その人たちから話を聞けばいいということで、この時代は紙も高いですし(羊の皮を薄くして紙にする。福音書を書くとしたら一冊で何十万円かかる)、福音書は書かれなかったんですね。
ただ、イエスの言葉だけをまとめたイエス語録のような薄い本はあったようです。
まあ、それくらいあれば十分だった。
けれども、時間が経って、だんだん、イエスのことを直接知っている人が減ってきて、それで、とうとうマルコが年をとってから、この福音書というものを書いた、ということなんですね。
聖書に福音書は四つ納められていますが、最初に書かれたのはマルコです。
だったら、マルコを最初に持ってくればいいんじゃないかと思いますが、マルコによる福音書には、クリスマス物語がないですね。
それで、マタイを先に並べたということでしょう。
福音書を最初に書いたのはマルコです。
福音書というひとつのジャンルを成立させたんですね。
福音書というのは伝記ではありません。
伝記というのはその人の人生を最初から最後まで書くものですが、マルコによる福音書には、クリスマス物語がない。
最初がないんです。
そして、イエスは、死んでから復活して、生きたまま天に上げられます。
ですから、最後もないということになりますね。
それだと、伝記とは言えません。
福音書なんです。
福音について書いたんです。
それをマルコが始めたんです。
この福音書の書き出しは、まさにそうなっていますね。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」。
福音書は伝記ではないんです。
イエスを宣べ伝えることがゴールではありません。
福音を宣べ伝えるために書くんです。
この福音というのは、原文では「良い知らせ」という言葉です。
それを「良い」ということで「福」、「知らせ」ということで「音信」の「音」という字を取ってきて「福音」としたんですね。
何か専門用語のようになってしまいましたけれども、実は原文の「良い知らせ」という言葉は聖書の専門用語なんですね。
何の専門用語かというと、戦争の専門用語です。
戦争で「良い知らせ」ということですと、戦争に勝ったという知らせのことですね。
例えばその昔、アテネという国とペルシャという国が戦った。
マラトンというところで戦った。
アテネよりもペルシャの方がよほど大きな国ですが、アテネが勝った。
勝ったアテネの兵隊の中から、足の速い兵隊が選ばれて、アテネの町の人たちに勝ったことを伝えるために、マラトンからアテネまで走っていく。
これがマラソンの起源なんだそうですが、大事なのは、アテネの町にいて、戦争に勝ったという良い知らせを聞いた人たち、この人たちは、自分は戦っていないんですよね。
軍隊が戦って、勝ってくれた。
ここに、「イエス・キリストの福音」と言われているのも、同じことです。
イエスが勝ってくださったんですね。
私たちが戦うべき戦いを、私たちに代わって戦ってくださって、勝ってくださった。
と言いますか、最初から、私たちには勝てない戦いです。
罪と死に対する戦いですから、私たちにはどうしたって勝つことはできません。
イエスはそれに勝ってくださった。
私たちに代わって勝ってくださった。
それで、「良い知らせ」と言われるわけなんですね。
ところがこの良い知らせ、と言われている言葉は、この時代にはギリシャ語では、別の意味で使われていました。
皇帝の誕生日のことを、良い知らせの日、福音の日、と言ったんですね。
皇帝が生まれた日は勝利の日だ、この皇帝がいる限り大丈夫だ、ということでしょうか。
マルコに、それに対抗しようという気持ちがあったでしょうか、どうでしょうか。
マルコは、福音というのは「イエス・キリストの福音」なんだと言ったわけなんです。
ここでイエス・キリストと言われていますが、イエスは名前なんですが、キリストというのは名前ではありません。
キリストという言葉は、塗り薬の「軟膏」という言葉なんですが、どうしてそんなおかしな言葉を持ってきたのかと言いますと、もともと、旧約聖書に、メシアという言葉があったんですね。
この言葉は、油を注がれた者という意味の言葉なんですが、預言者や祭司や王といった、神に仕える仕事をする人は、頭から油を注がれてその務めにつきましたので、神に仕える仕事をする人のことを、メシア、油注がれた者と呼ぶようになったんですね。
それをギリシャ語に翻訳する時に、油を塗るということで、軟膏という言葉を持ってきたんですね。
もともとは油を注がれた者ということで、神に仕える仕事をする人のことです。
ところが、時代が下ってきて、だんだんその言葉の使い方が変化してきまして、いつしか、昔々から旧約聖書に書かれてきて、いつか神のもとからやってくる救い主のことをメシアと呼ぶようになったんです。
そして、イエスの時代には、人々は皆、メシアを待ち望んでいました。
この時代には、自分たちの国が、ローマ帝国という巨大な帝国に支配されているという現実がありました。
それでなおさら、巨大な力に支配されているところから救い出されることを人々は願ったんですね。
そうなりますと、自分で自分のことをメシアだという人が時々現れてくることになります。
しかし、そのような人々に率いられた運動は、すべて失敗に終わりました。
けれども、イエスの始めた運動は、イエスが天に上げられてから30何年経っても、ますます拡大している。
その中でマルコは、福音書を書くに当たって、一番最初に結論を書いたんですね。
他の誰かではない、イエスがキリストだ。
イエスこそ旧約聖書に書かれている神からのメシアだと言ったんですね。
そのイエスのことが、「神の子」であると言われています。
これはメシアを待ち望んでいた人々でも、そんなことを期待してはいなかったことです。
というよりも、人間が神の子であると名乗ることほど、神を冒涜することはないと考えられていました。
まして、この時代から300年も前のアレクサンダー大王以来、ローマ帝国の歴代の皇帝は、自分は神の子であると言って、自分を礼拝することを人々に強制していたんですね。
ですけれども、イエスは神の子でなければなりません。
そもそもの福音ということですけれども、これは、イエス・キリストにおいては、戦争をして、ローマ帝国と戦って、ローマ帝国を打ち倒すということではありません。
人間にとって最も根本的な問題、人間にとって最大の敵である罪と死に対する戦いなんですね。
そして、この戦いには、私たち自身の力では、どうしたって勝利することはできないわけです。
罪というのは原文では的外れという言葉ですけれども、最初の罪であるアダムとエバの罪に的外れということが現れています。
創世記3章のお話ですが、神から、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまった。
だとしたら、謝らなければいけないはずなのに、アダムはエバのせいにした。
エバは自分をだました蛇のせいにした。
自己中心というか、自分を偏って愛するエゴイズムです。
誰にでも多かれ少なかれ、あるものです。
そして、神は「死んではいけないから」その木の実を食べてはいけないと言っていました。
そこで、食べた結果、人間に死が入り込んだ。
罪と死はセットだということです。
いずれにしても、それを人間が自分でどうにかすることはできないものです。
ですから、神の子が人となられて、地上に来てくださるしかなかった。
しかし、神が人になること自体、どれくらいのチャレンジだったでしょうか。
神が、人になる。
私が神なら、人になって地上で生きるというのは、絶対にやりたくないことです。
そもそも、地上とはどのようなところか。
アダムとエバは、その後、神のみもとから出ていかなければなりませんでした。
それも、妊娠出産の苦しみ、人が人を支配する苦しみ、労働の苦しみを与えられて、神から離れて生きるようになった。
妊娠出産の苦しみ、人が人を支配する苦しみ、労働の苦しみ、神から離れていることというのは、この世では当たり前のことです。
ですけれども、神と共にいて、そのような苦しみがないところから、この世に来なければならないとしたら、それはもう、身震いするようなことではないでしょうか。
罪もないのに刑務所に入るようなこと、いや、それ以上でしょう。
それでも、神が人になられて、私たちのところに来てくださった。
どうしてか。
それほど、私たちのことを愛している。
刑務所にいるあなたを救い出すために、私が代わりに刑務所に入って、私が代わりに罰を受けよう。
あなたは神の元に帰りなさい。
そんなことは、神の子でなければできないことですし、そもそも、神の子でなければ考えもしないことです。
私たちは、この罪と死のこの世の中のことしか知らないんですから。
私たちには、神の子にいらしていただく必要があります。
そもそも、自分でどうにもできない状況というのは、誰かに来てもらうより他ありません。
キリストは、約束の通り、私たちのところにいらしてくださっただけでなく、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっています。
罪と死に打ち勝ったキリストが、私たちと共に、今もいてくださっている。
これ以上のことはありません。
これ以上に重大なことはありません。
ですから、ここでマルコは、「初め」という言葉を使っていますね。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」。
これは原文では、言葉の順序が逆になって、「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」となります。
「初め」という言葉が最初に来ているんですね。
創世記も同じです。
「初めに、神は、天地を創造された」。
天地創造の向こうを張って、初め、と書くんですね。
いえ、本当の意味での初めに、というのは天地創造に違いありませんが、神の子が人となられて、人を救い出してくださるという、これ以前にもこれ以後にもない、このあまりにも大きなプロジェクトが、ここから始まるんです。
それに当たって、初め、と書いた。
私たちは、そのプロジェクトに、私たちは入れられているんです。
これから、この福音にある、あまりにも大きな神の御心を、味わわせていただこうと思います。
終わりまで、キリストが共にいてくださいますように。
