2026年01月26日「あなたはわたしに従いなさい」

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あなたはわたしに従いなさい

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 21章20節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 21章20節~25節

原稿のアイコンメッセージ

いよいよ、ヨハネによる福音書の最後です。
食事が終わって、イエスとペトロは二人で砂浜を散歩でもし始めたのでしょうか。
他に一人の弟子が付いてきたようですが、その場にいた7人の弟子たち皆でどこかに行こうという感じではなかったようですね。
このイエスの愛しておられた弟子というのは、この福音書を書いたヨハネだと考えられていますが、ペトロは後ろを振り向いて、ヨハネのことをイエスに聞きました。
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。
何をいきなり、という感じですが、これは、このすぐ前の場面と関係がある質問です。
イエスはペトロには、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃっておられました。
イエスの羊というのは、イエスを信じる人々のことですね。
クリスチャンを養いなさいということです。
そして、それだけでなく、ペトロが「両手を伸ばして」、……これは十字架に付けられるということですが、殉教の死を遂げるということもイエスは予告しました。
その上でイエスは、「わたしに従いなさい」とペトロに言ったんですね。
これからのペトロの道が、ここで定められました。
そうなると、他の人たちのことも気になってくるというのは自然なことです。
そして、今、後ろから、ヨハネが付いてきています。
ましてヨハネは、「あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかっていた」人です。
心からイエスを愛して、イエスに委ねていた。
イエスもそれを受け入れていた。
その上、そのヨハネは年齢がペトロの半分、10代半ば過ぎくらいだったと考えられています。
そのヨハネのことですから、どうしても気になります。
そこで、質問したんですね。
わたしのことは分かりましたが、しかし、「この人はどうなるのでしょうか」。
それがペトロの気持ちです。

イエスは答えました。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
そして、それに続けて、「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」と書かれています。
このヨハネは実際、この時代の人としては、かなり長生きしたようです。
74歳で死んだという説と、84歳で死んだという説があります。
ペトロも含めて、他の弟子たちは、もっと早くに全員殉教しました。
それでなおさら、後になるにつれてこのうわさが広まって、この福音書が書かれた頃には、多くの人が、ヨハネは死なないと噂していたのでしょう。
しかし、イエスはそんなことを言ったわけではありません。
「わたしが来る時まで」というのはいわゆる再臨の時ですね。
世の終わりの時です。
世の終わりまで、彼が生きているという、普通ではありえないことをもし仮に私が望んだとしても、あなたには関係ない。
あなたは私に従いなさい。
他の人のことは気にするな。
あなたはあなただけの自分の道を歩んで、私に従いなさい。
ペトロにはペトロの道が、すでに備えられています。
それは、このすぐ前の個所の言葉で言えば、殉教の死によって神の栄光を現す道でした。
ヨハネにもヨハネの道がありました。
それは、長生きして多くの弟子を育て、文書を書いて、多くの人に証しする道でした。
イエスに従うと言っても、その道は、一人一人違います。
どちらがより優れているということでもありません。
ですから、他の人のことを気にする必要は、最初からありません。

しかし、私たちは、他の人のことが何かにつけて気になるということがあります。
それは仕方のないことかもしれませんが、気を付けなければいけないこともあるということが、ここで言われているように思います。
この時、ペトロは、振り向いて、他の人を見ました。
しかし、イエスは、従うことを求めておられます。
従うというのは、まず、イエスを見つめることです。
身の回りに何があろうと、まず、イエスを見つめることです。
そして、ここに書かれた「振り向く」という言葉は、他のところでは、「回心」とも訳される言葉です。
回心というのは心の向きを変えて、神に向き直ることですね。
しかし、この場面では、ペトロは、心の向きを変えて、人の方を向いたんです。
人の方を向くと、神の方は見れなくなりますね。
いやそれどころか、人の方を向くと、それ以外のことには全く心が向かわなくなることがあります。
私たちも気を付けなければなりません。

そして、もっと言いますと、振り向いて人を見つめるのはイエスの仕事です。
かつて、イエスは、ご自分のことを三度も知らないと言ったペトロを、振り向いて見つめました。
それによって、ペトロは、イエスの言っていた通りになったことに気づかされた。
そのような自分のことを知っていながら、ご自分のそばに置いていてくださったことを気づかされた。
そのようにして、ペトロの心をイエスに振り向かせたんです。
また、そのことで思い出すのはマグダラのマリアのことです。
イエスが十字架に付けられ、墓に葬られた後、マグダラのマリアはイエスの墓の前で泣いていました。
その時、イエスは「マリア」と呼びかけ、マリアを振り向かせました。
イエスは、人を、ご自分の方に振り向かせてくださるのです。
他のことに心が向いている私たちを、イエスは取り戻してくださるということなんです。

イエスがしてくださるのはそれだけではありません。
今日の場面の、ペトロに対するイエスの言葉です。
イエスは、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても」と言いました。
主人が何を望むかということで、弟子の道は決まるんです。
弟子の道は、主人の望む道、私たちの道は、イエスが望む道です。
私たちが望む道ではありません。
イエスに従う道なんですから、イエスが望む道です。
そして、その道は、イエスが拓いてくださる道です。
ペトロの場合がそうでした。
道がなくなっていたペトロは、イエスとのやり取りの中で、イエスに従う道を拓いていただいた。
イエスが、ペトロに望んだことがあり、その道を、イエスが拓いてくださいました。
私たちにも、イエスが望んでおられることがあります。
だとしたら、その道は、イエスが拓いてくださるのです。

ペトロは、いつの日か、そのことが分かるようになったということでしょう。
新約聖書のペトロの手紙第一の5章7節で、ペトロはこのように書いています。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。
そうです。
思い煩うことはありません。
気負う必要もありません。
イエスが導いてくださるのです。
それが、私たちが神の栄光を現していく、イエスの道です。

次のところに、この本を書いた人のことが書かれています。
「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」。
ということは、この部分を書いたのは、「この弟子」、ヨハネではないですね。
おそらく、ヨハネはそれほどギリシャ語が上手ではなかったでしょうから、この福音書のような美しいギリシャ語を書くことはできなかったでしょう。
ヨハネが話をして、自分の弟子たちに伝えたことを、弟子の中で、ギリシャ語が特に上手な人が、文章にしていったということだと思います。
そして、そのような書き方で書くことも、ここにある通り、その人が書いた、と当時、一般的に、そう言っていたんですね。
しかし、「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」とはどういうことでしょうか。
人から何かを聞いたとしても、それが本当のことなのかどうかは分かりません。
ましてこれは、イエスについての話であり、神についての話ですから、他で同じような話を聞くこともまずないわけです。
それなのに、どうして、彼の証しが真実だと言えるのでしょうか。
今日の最初のところで、この弟子のことが紹介されていました。
それも、わざわざ、昔のことを引き合いに出して紹介されていました。
「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」。
この人とイエスのかかわりは、他にもいくらでもあったはずです。
どうして、この場面を引っ張ってくるんでしょうか。
この場面は13章25節です。
そして、13章25節のすぐ前、23節を見ますと、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」とあります。
この、13章23節の、「すぐ隣にいた」という言葉が、他のところでは、「ふところにいる」と訳されているんですね。
そしてその、「ふところにいる」という言葉は、1章18節に出てきます。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。
いまだかつて、神を見た者はいないんですから、当たり前の話、神についての証しというのは、正しいのかどうかは分からないものです。
しかし、父のふところにいる方が神を示されたのなら、話は別なんです。
そして、ヨハネは、独り子である神のふところにいるんです。
だから、その証しは真実なんです。
大事なのは、ふところにいることだ、と言っているんです。
私たちも、イエスのふところにいるべきです。
イエスの胸元に寄りかかるべきです。
いえ、実際今そうしていると言っていいんだと思います。
そのつもりがないのなら、教会というところには来ないでしょう。
この場面でも、この前の場面でも、わたしに従いなさいということが言われましたが、イエスに従うということは、覚悟を決めて一歩を踏み出すことではなく、まず、ふところにいて、胸元に寄りかかることなのでしょう。
何しろ、私たちがどのような道を行くのかを望んでくださり、その道を定めてくださるのは、私たちではなく、イエスなんです。
安心して、ふところに寄りかかりたいと思います。

最後に、面白いことが言われています。
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」。
これは大げさな表現にも思えますが、そうではないのかもしれません。
イエスのなさったことというのは、イエスが生きた三十何年間で、イエスが言ったこと、なさったことだけではないですね。
イエスは、今に至るまでずっと、一人一人をイエスの元に招き、ふところに寄りかからせ、一人一人の道を定め、その道を、一人一人と共に歩んでくださいました。
ですから、イエスと共に生きる私たち一人一人の人生すべてが、「イエスのなさったこと」です。
私たち一人一人の人生が、イエスのなさったことを証しする書物なんです。
この世界には、イエスがなさったことがあふれているんです。
その証しは、一人一人違うでしょう。
多くの人の目に留まる証しもあれば、誰も見ていないところでの証しもあるでしょう。
長い時間をかけてのこともあれば、ごく短い時間でのこともあるでしょう。
それは、どちらが優れているということはありません。
人が誰も気づいていなくても、イエスは共におられます。
そして、私たち一人一人のために拓いてくださった道を、今も共に歩んでくださっているのです。
他の人はどうであれ、あなたはわたしに従いなさい。
イエスは今、私たちにそう呼び掛けてくださっています。
そして、私たち一人一人のために拓いてくださる道の果てに、それぞれに、神の栄光を備えていてくださっています。
その道を行きましょう。
イエスが共に歩んでくださいます。
もう歩けないと思うこともあるかもしれませんが、もう歩けないところまで落ち込んでいたペトロも、この通り、立ち上がって、イエスと共に歩けるようにされました。
大丈夫です。
私たちの道は、イエスの道だからです。

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