生きている者の神
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 20章27節~40節
27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章27節~40節
今日の話ですけれども、復活についてということですので、私たちが死んだ後の話ですね。
死んだ後、人はどうなるんでしょうか。
私たちは生きている間、このことをあまり真剣に考えませんね。
死んだ後のことよりも、今をどのようにして生きるか。
そのことを私たちは熱心に考えます。
特に若い頃は、自分はどのような生き方をしていこうかということを熱心に考えることも多いのではないかと思います。
どのような生き方をしようか、どのような自分になりたいか、そういうことをまじめに考えることがあります。
ある程度年を取ってくるとだんだんそういう事を考えることは少なくなりますけれども、だからと言って、死んだ後のことを考えるようになるかといいますと、そうではないですね。
死んだ後のことなんていう先のことよりも、どのような生き方をしたいかなんていう大きなことよりも、今の自分の周りのこと、家族のことだったり、仕事のことだったり、もしかしたら今日一日のことだったり、そういう身近なことを考えるようになっていきますね。
けれども、死んだ後、どうなるのか。
これは人生の一番大きな問題ですね。
死んだら何もなくなると言うのなら、生きている間のことだけ考えれば良いのですが、死んだら何もなくなるということを証明できた人はいません。
むしろ、死にそうになったけれどもなんとか助かって死ななくて済んだという人たちがいますけれども、そういう人たちは、死後の世界の入口を見てきたということを言うんですね。
実際のところ、死んだ後どうなるのか。
これは、今生きているすべての人にとって大切なことです。
私たちはどうかすると、生きている間が本番で、死んだ後のことは夢の世界のようなものだと考えてしまいますが、もし、死んだ後が本番で、生きている間が夢の世界のようなものだったとしたらどうでしょうか。
中国に、胡蝶の夢という話がありますね。
自分が蝶になって飛んでいる夢を見た。
目が覚めたところで考える。
自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも、蝶が人間になった夢を、今見ているのか。
どちらが夢でどちらが本番というのは、簡単に決めることはできないことですね。
死んだ後の方が本番で、死んだ後、本当に大事な出来事が起こらないとは誰も言えません。
では、聖書には死んだ後のことについて、どういうふうに書かれているでしょうか。
実は、聖書には、死んだ後のことについては、まとまった形でだれにでもはっきり分かるようには書かれていません。
聖書は、今をどのように生きるなら、神様の御心にかなって幸いに生きることができるのか、ということを伝える本なんですね。
ですので、そういう御心にかなう生き方をしていれば、いわゆる、天国というところに導かれるということは言えますけれども、その天国がどういうところなのか、死んだ後にどういうことが起こって、どういう手続きがあってそこに入ることになるのか、と言いますと、具体的なことがはっきり書かれているわけではないんですね。
ですので、今日の場面のように、あるのかないのかと論争になるようなことも起こってくるんですね。
今日の場面では、復活ということがあるのかないのかということが問題になっています。
この復活というのはどういうことなのかと言いますと、死んだ人が生き返るという奇跡があるのかどうかということではありませんでして、ここでの復活というのは、世の終わりにそういうことがあるのかないのか、ということなんですね。
この世界の終わりというのはいつか必ずやってきます。
地球という星にも寿命というものがありますから、いつか必ずこの世界は終わるんですね。
もちろん、地球という星の寿命がなくなってしまう前に、世界の終わりはやってくるかもしれません。
とにかく、何らかの形で世の終わりはやってきます。
その時、すでに死んだ人が復活して、新しい世界に入れられるということがあるのかどうか。
それが、復活はあるのかないのかという問題です。
ですのでこれは、復活はあるのかないのかという言い方をするから分かりにくいのであって、分かりやすく言い換えるとしたら、天国はあるのか、あるとしたらどんなところなのか、という話なんです。
これはインターネットで調べてみたんですが、「日本人の意識調査」というものが、5年に一度行われていまして、その中に、「あなたは『あの世』というものを信じていますか?」という質問があるんですね。
2013年にこの調査が行われた時、こういう質問がありました。
「あなたは『あの世』というものを信じていますか?」という質問です。
この質問に、信じると答えた人が多かったんですね。
40%の人が信じると答えました。
信じないと答えた人は33%。
どちらとも決めかねると答えた人が19%。
残りの8%の人は回答しなかったようです。
これは面白い結果だと思いました。
どちらとも決めかねるという人が一番多いのかと思っていたんですが、そういう人はむしろ少なかったんですね。
信じるが40%、信じないが33%でした。
そして、今日の場面ではサドカイ派の人たちが登場してきますけれども、この人たちは、天国があるということを信じていない人たちだったんですね。
どうしてかと言いますと、この人たちは、聖書の読み方にある特徴があったんですね。
この人たちは、旧約聖書の最初の5つの書物だけしかきちんと読まないんです。
これは、この人たちも今日、言っていますけれども、この5つの書物はモーセという人が書いたとされています。
そしてこのモーセという人は時代を超えて非常に尊敬されていた人でした。
ただ、旧約聖書には全部で39の書物が収められているのに、この人たちは最初の5つの書物だけしかきちんと読まないんです。
そうなりますと、最初の5つの書物には、天国とはどんなところかみたいな話は出てきませんので、そこでこの人たちは天国なんてない、と考えていたんですね。
そして、今日、この人たちは、そういう自分の考え方をイエス様に認めさせようとして、イエス様に質問するんですね。
最初のところでいきなりなにかおかしな法律みたいなことが言われますね。
「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」。
……自分の兄が亡くなったら、弟は兄の奥さんと結婚しなくてはならない。
これは大変なことですね。
できますかと言われたら困りますという話になりますね。
でも、旧約聖書の5つ目の書物、申命記の25章にこういうことが書かれているんですね。
この決まり、調べてみますと、別に珍しい決まりではないようです。
今でもこういうことを普通にしている国もありますし、昔は世界中の多くの地域でこういうことがあったようです。
こういうふうにして、家を残そうとするんですね。
家というものが大事なところでは、こういうやり方もあるということです。
ただここで、どうしてサドカイ派の人たちがこの決まりを持ち出したのかと言いますと、この人たちは天国というものを信じていませんから、天国に入る前に、死から復活するという話も信じていません。
だから、復活なんてないんだと言いたいんですね。
そのために、こういう決まりを持ち出して、こういう決まりがあるのに、復活なんていうことが起こったとしたら、困ったことになってしまうんじゃないですか、やっぱり復活なんておかしいですよと言いたいんですね。
ではどうして復活があると困ったことになるのかと言いますと、サドカイ派の人たちはここでたとえ話をするんですね。
七人の兄弟が、決まりの通りに、一番上の兄から順番に、一人の女の人と結婚したけれども、結局子どもはできず、みんな死んでしまったという話ですね。
その場合、復活したら、七人の兄弟の内のだれがこの女の人の夫になるのか、これでは困るじゃないか、でも聖書には確かに、こういうふうに結婚しなさい、弟は兄の奥さんと結婚しなさいという話があるんだから、それで何か困ったことは起こらないはずだ、だったら、復活なんてないんじゃないか。
サドカイ派の人たちはこうそういうふうに言いたいんですね。
そんなことまで考えますか、という感じですが、しかし、私たちも、復活ということに関しては、いろいろなことを考えることはあると思うんですね。
天国に行ったら、何歳くらいの自分になるんだろうかなんてことを考えたことはないでしょうか。
もしこれが、死ぬ直前の自分の体で復活するとしたら、困るかもしれませんね。
死ぬ直前というのは多くの場合、年をとっていて体力もあまりないわけですから、その体で復活しても困るわけです。
体は若い方がいいような気がする。
でも、知識や経験はどうでしょうか。
ある方がいいわけです。
しかし、年を取って、知識や経験を身に付けていけばいくほど、自分の知識や経験にこだわって、頑固になることもあります。
若い頃の方が柔軟な考え方をしていたな、と思うこともあるわけです。
では一体、私たちは、何歳の自分として復活するんでしょうか。
死んでからのことというのははっきりは分かりませんから、いろいろに想像できるわけです。
そして、細かいことを考えていくと、あれ、おかしいんじゃないか、ということも出てくるでしょうね。
これに対して、イエス様はお答えになりました。
イエス様は、天国に入るために復活する人たちは、もう結婚なんてしないんだと言ったんですね。
そして、そういう人たちは、天使に等しい者だ、神の子だ、とまで言うんです。
もう何か、人間レベルじゃないんですね。
人間を超えているような感じです。
ここのところを読みますとまず、復活というのは私たちが今生きているこの体で復活するのではないようですね。
復活ということについては、今の私たちの考えではかることができるものではないようです。
と言いますか、死んでからのことというのは、そもそも、今の私たちの考えではかることができるものではないですね。
生きている間のことは私たちにもそれぞれにいろいろな経験があるわけですけれども、死んでからの経験はまだしていないんですから、今の私たちの頭の中でこれはこうだろうと決めることはできません。
天使に等しくなるとか、神の子なんだというふうに言われるのは、結局、そういうことでしょうね。
これは新約聖書の中で、今日の箇所よりももっと後の方になりますが、復活のことが植物の成長にたとえられている箇所があります。
それを元にして考えてみますと、植物というのは、最初は種ですね。
種に水をあげて光を当てると、芽が出ます。
それから茎が伸びて、花が咲いたり実がなったりします。
そうなったとき、元の種はもうどこにもないんですよね。
土の中を探しても、まったくない。
最初にあった種はもう、全く違うものになってしまっている。
種の形からは、成長した植物に形は想像もできません。
それくらい、今の私たちからは、想像もできないものになっていく。
だから、今の自分の延長線上に復活ということがあるんだと考えてはいけないよ、自分に引きつけて考えてはいけないよ、ということなんです。
そういうことが今日の場面でも言われているのかなあと思います。
私たちは、自分の経験や知識の範囲内で物事を考えるしかありません。
けれどもそれは、自分に引きつけて物事を考えてしまっているということです。
それがいつも正しいかどうかなんて分かりません。
でも私たちは、これはこうだろうと勝手に思っている。
それに気をつけなさいよということです。
ただ、この話はそういう、そう言われてみればそうかというような話では終わりませんでして、イエス様は37節くらいから、復活ということについて、積極的に話をしていくんですね。
ここでイエス様はモーセの名前を持ち出しました。
サドカイ派の人たちがきちんと読んでいる、モーセの書いた書物、旧約聖書の最初の5つの書物ですね。
その中に、復活があるということが示されているんだ、とイエス様は言うんですね。
イエス様は、モーセが神様のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると書いていることを取り上げます。
そして、それが、復活はあるということの証拠だと言うんですね。
これは一体どういうことなのかと言いますと、これはイエス様がその次の38節で言っていることなんですが、まず、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なんですね。
これは、サドカイ派の人も反対はしないでしょうね。
サドカイ派の人たちは人間は生きている間だけの存在だと考えていましたから、神は死んだ者の神ではありません。
生きている者の神です。
ですけれども、モーセは神のことを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だと書いているんですね。
アブラハムというのはイスラエル人の最初の先祖です。
イサクはアブラハムの子どもで、ヤコブは孫です。
この人たちはみんな、モーセの時代にはとっくの昔に死んでいた人たちです。
けれどもモーセは、死んだはずのこの人たちの名前を出して、神様は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だと書いたんですね。
神は生きている者の神なんですから、だとしたら、アブラハム、イサク、ヤコブは生きているということになります。
地上からは姿を消しましたが、神の前に生きているということになります。
もしそうでないのなら、神はアブラハムの神だった、というふうにモーセは書いたはずですね。
でもそうではないんです。
神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」なんです。
続けて、イエス様は言います。
「すべての人は、神によって生きているからである」。
すべての者は神によって生きる。
考えてみるとそうですね。
私たちは、自分は自分で生きていると思ってしまいがちですが、もちろん、それはある面では正しいのでしょうが、生まれてこようと思って生まれてきた人はいません。
自分の命を自分で作った人はいません。
私たちの命は、私たち自身を越えているんですね。
それはもう、私たちの手の届かないところにあるものなんです。
手の届かないところから与えられているものなんですね。
そのことを、私は、自分の兄が死んだ時に知りました。
私の兄は39歳で死んだんですけれども、それは本当に早い死ですよね。
その2、3日前に電話で話したばかりでしたけれども、お医者さんに言わせると、突然心臓が止まってしまったんだそうです。
私たちは男兄弟の割には非常によく話をする兄弟でしたから、私は本当にショックを受けました。
ほんの数日前まで生きていたのに、棺桶に入った兄は、呼びかけても何も反応しないんです。
触るともう、信じられないくらい硬くて冷たいんですね。
この人が数日前まで生きていたなんて思えないくらいです。
けれども、兄の死を通して、私は多くのことを学びました。
命が失われたわけですけれども、命が失われると、人は呼びかけにも答えなくなる、固く、冷たくなる。
当たり前のことですけれども、39歳で自分の兄がそうなってしまったということを体験して、そこから逆に、命の尊さ、かけがえのなさが良く分かったんですね。
本当に、命というのは、かけがえがない、もう人間というのは、生きているだけで、それだけで、もう限りなく尊いんですね。
生きているというのはすごいことなんです。
これはもう私だけの感覚で、申し上げても伝わらないかもしれませんけれども、生きているということ以上に尊いことはありません。
皆さんも、私も、こうして今生きている。
それはもう、私たちがどんな人間であるかとか、何を考えているのかとか、そんなことは本当に小さなものだと思えるくらい、生きているということは大きなことなんです。
それはもう神の事柄だと言ってもいいくらい、私たちを越えた事柄なんです。
そのことを、イエス様はこう言うんです。
「すべての人は、神によって生きている」。
命を与え、人を生かすのは神です。
命は、神の事柄です。
だから、神が人を生かすなら、神の前にはいつまでも命ある者なんですね。
地上から姿を消しても、天使に等しい者として、神の子として、神の前に生きるんです。
神によって生きるんです。
イエス様は今日、そのことを約束してくださっているんです。
だから大事なことは、神様が私の神だと言えるかどうかですね。
もし、私の神だと言えるなら、それは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのと同じことです。
私たちも、神によって生きることになります。
地上から姿を消しても、天使に等しい者として、神の子として、神の前に生きるんですね。
それはもう今日の場面のように、議論して決めるようなことではありません。
最初から私たちを超えた事柄です。
私たちには想像もつかないような次元の事柄です。
それを認めて、私の神だと言えるかどうか。
イエス様は、私たちが、生きることを望んでおられます。
神の前に、生きていきましょう。
神様のくださった命が、私たちの内にあります。
今、私たちは生きている。
確かに生きています。
これは、私たちを超えた神の業です。
一番大きな神の業です。
