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2023年04月09日「復活の朝」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

この日は週の初めの日だったということなので、日曜日。
日曜日に、女性たちがイエスの墓に行った。
そして、この女性たちのところに、復活したイエスが来てくださる。
その時、9節で、女性たちはイエスの足を抱いて、イエスの前にひれ伏した。
足を抱いたんだったら、もちろん、ひれ伏した姿になると思うが、わざわざここで「ひれ伏す」という言葉がつかわれている。
この「ひれ伏す」という言葉は、「礼拝する」という意味になる言葉。
私たちは日曜に礼拝する。
日曜は復活のイエスに出会う日。

しかし、女性たちにとって、この日曜日は最初から喜びの日だったわけではない。
女性たちは、イエスの墓を見に行った。
この「見る」という言葉は、「じっと見る」という言葉。
女性たちは、ただただ、墓を見ることしかできない。
この日の2日前に、この二人の女性は、イエスの体が墓に入れられるところにいた。
その後、この女性たちは何をしていたか。
他の人が帰って行った後も、墓の方を向いて座っていた。
そして今日も、墓を見るために墓に行く。
この女性たちには、そうすることしかできない。
もう、この人たちは、普通の生活ができなくなっている。
そして、この、「マグダラのマリアともう一人のマリア」だが、「もう一人のマリア」というのは、イエスの母マリアだったのではないかとも言われている。
一体どんな気持ちだっただろうか。

ここに神の力が現れる。
大きな地震が起こる。
天使が天から降りてくる。
そして、天使が墓の石を転がした。
イエスが死んだ時にも地震が起こった。
それだったら、復活の時にも地震が起こったのはセットになっている出来事かとも思う。
しかし、この場面は、イエスが復活した場面ではない。
イエスはもう、復活していた。
天使たちが石を転がした。
墓の中にイエスはいなかった。
地震が起こったのは、イエスが復活したからではない。
天使が降りてくるというだけで、地震が起こった。
神が強い思いで、この女性たちに話をしようとしているということか。
しかし、天使が話した内容は、女性たちに伝えるよりも、弟子たちに直接伝えた方が良いような話。
それをわざわざ、この女性たちに伝えたところに、神の強い思いがある。
弟子たちよりも悲しんでいただろうこの女性たちに、最初に、復活を伝えたい。
この人たちに、最初に喜んでもらいたい。
神は、人に喜んでもらいたい。

ただ、女性たちは、最初は当然、怖かった。
その場所には墓を守る兵隊もいたが、兵隊たちは怖くて固まってしまった。
天使は女性たちに、「恐れることはない」と言った。
この言葉は、「あなたがたは恐れるな」という言葉。
兵隊たちが恐れても、あなたがたは恐れなくていい。
私はあなたがたのために来たんだ。

そして、天使はイエスが復活したことを伝えた。
「復活なさったのだ」と言っているが、これは「復活させられたのだ」という言葉。
イエスは復活させられた。
神がイエスを復活させた。
イエスが自分の力で復活したのではない。
神がイエスを復活させた。
そして神は、イエスだけの神ではなく、信じる人たちすべての神。
もちろん、この女性たちの神でもある。
そして、この女性たちは、イエスを復活させた神の力を信じることができる。
イエスが死んだ時のように、この時も、大きな地震が起こった。
神はすべてを力ある御手の内に置いておられる。
その神が、イエスを復活させた。

そして、女性たちに働きが与えられる。
「急いで行って弟子たちにこう告げなさい」。
それは、弟子たちに復活を知らせること。
そして、ガリラヤに行きなさいということ。
しかし、この弟子たちとはどういう人たちだったか。
この弟子たちは、今は、全員逃げ出して、家の中に鍵をかけて閉じこもっている。
人間の目で見たら、これはもう弟子ではない。
それでも、天使は弟子だと言っている。
どうして弟子だと言えるのか。
逃げ出したとしても、この弟子たちが、イエスが弟子として選んだ人たちだということは変わらない。
この「弟子たち」という言葉は、原文では、「彼の弟子たち」という言葉。
イエスが選んだ、イエスの弟子。
私たちも同じこと。
イエスが選んで、イエスが呼んでくださったから、今、私たちは礼拝できている。
私たちがどうだったとしても、イエスが選んだから、私たちもイエスの弟子。
それどころか、イエスは後で、女性たちに出会ってくださって、天使が言ったことと同じことを言うが、その中の10節で、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と言っている。
イエスの弟子になることは、イエスの兄弟になること。
そして、兄弟というのは、一生変わらないこと。
弟子は弟子でなくなることが実際にある。
でも兄弟は、一生、兄弟であることは変わらない。

ただ、イエスが弟子たちに会うのはガリラヤで。
この女性たちには、イエスはこの後すぐに会ってくださるが、男性の弟子たちに会うのはガリラヤで。
どうしてガリラヤなのか。
ガリラヤは弟子たちが弟子になる前に生活していたところ。
そして、そこでイエスの弟子になったところ。
復活のイエスは、そこで弟子たちに出会ってくださる。
スタートしたところから、もう一度やり直してくださる。
今、弟子たちは、弟子であるとは言えないようなことになってしまっている。
しかし、イエスは一度選んだ弟子を見捨てない。
やり直させてくださる。
少し後のところを読むと、その場所は、山だった。
そこはもしかすると、この福音書だと5章になるが、イエスが最初に長い説教をした山だったかもしれない。
そこから、弟子たちはリスタートすることになる。
それも、その場所に、イエスは先に行って待ってくださっている。
安心して行ける。
喜んで行ける。

ただ、そうなる前に、イエスはこの女性たちにはここで出会ってくださる。
イエスは女性たちにあいさつをした。
「おはよう」と書かれている。
珍しい言葉。
イエスがあいさつする場面は他にもある。
しかし、他のところでは、「おはよう」とは書かれていなくて、「あなたがたに平和があるように」と書かれている。
「あなたがたに平和があるように」というのは、イエスが話した言葉、ヘブライ語のあいさつの言葉。
あいさつの言葉だから、日本語で「おはよう」と訳してもいいけれども、福音書を書いた弟子たちは、それをギリシャ語でそのまま、「あなたがたに平和があるように」と書いた。
それに対して、今日のあいさつの言葉は、ギリシャ語のあいさつの言葉がそのまま書かれている。
だから、日本語に訳す時に、今は朝なので、「おはよう」と訳した。
ただ、その言葉は、あいさつの言葉だが、ストレートに訳すと、「喜びなさい」という言葉。
イエスの復活を知って、恐れながらも大いに喜んだ女性たちに、「喜びなさい」。
そして、この言葉は、ユダがイエスを裏切る時に、イエスに言った、「こんばんは」という言葉も同じ言葉。
イエスが十字架にかけられる前に、ローマ帝国の兵隊たちがイエスをバカにして「ユダヤ人の王、万歳」、と言った、「万歳」という言葉も同じ言葉。
人間は心の中にあることと全く逆のことを言う。
イエスの言葉は心のままの言葉。
そして、その言葉が実現する。

もう恐れもなくなって、大喜びした女性たちは、イエスの足を抱いて、ひれ伏した。
礼拝した。
そして、礼拝した後、何をするか。
喜びの知らせを伝えに行く。
伝道ということ。
喜んで礼拝した人が、伝道に出ていく。
今、皆さんは喜んでいますか?
喜んでほしい。
私たちの神が私たちの兄であるイエスを復活させた。

そして、女性たちが伝道しに行ったということ。
これはすごいことではないか。
後で、男性の弟子たちはガリラヤでイエスに会って、そこで、伝道しなさいと言われるけれども、それよりも先に、女性たちの伝道があった。
喜んだのも、礼拝したのも、女性たちが先だった。
だから、伝道も先。
そして、一番最初はどうだったかと言うと、女性たちは、墓をずっと見ていた。
墓をずっと見る。
自分の力の無さをずっと感じ続けた。
そこから、喜びに変えられて、礼拝に招かれて、伝道に出ていく。
男性の弟子たちはどうしてそうならなかったか。
男性の弟子たちは、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた。
自分が情けないな、自分はだめな人間だなとは思っていただろう。
しかし、部屋に鍵をかけて閉じこもっているとはどういうことか。
自分で自分を守ろうとしている。
弟子たちは、自分に力が無いことを十分には知っていない。
私たちも、自分の力の無さを知らなくてはいけない。
それがスタートになる。

後のところは、婦人たちと同じものを見たはずの兵隊たちの話。
兵士たちは、すべてを報告した。
けれども、祭司長たちは人間の間の力関係の話しかしていない。
兵士も、お金をもらってその通りにする。
何より、この祭司長たちの言葉は何か。
もし、祭司長たちが、兵士たちの言葉を信じていなかったのなら、兵士たちに怒るだろう。
怒っていない。
こういうことにしておこう。
兵士たちの話を受け入れている。
けれども、神の力を受け入れない。
祭司長たちは兵士たちに、もしローマ帝国の総督に知られても、うまく総督を説得すると言っている。
どうやって説得するのか。
総督のポンテオ・ピラトはお金に弱い人だった。
この世の力の話とお金の話。
それが入り込んでくると、神の力を受け入れる余地はなくなる。

大事なのは、まず、私たちが、自分に力が無いということに気づくこと。
自分には何もできないことがあるということに気づくこと。
それに気づけなかったら、結局、人間の力と金の力になる。
この世の人たちは、人間の力と金の力だけで生きている。
しかし、私たちは、今日の女性たちと一緒にいたい。
じっと墓を見る。
そんなことをしていても何も起こらないが、それは人間の考え。
神はそこに、神の力を現してくださる。
私たちは、イエスの兄弟だから。
イエスの兄弟は、自分の力を無くしてしまったところから、神の力で復活させられて、伝道に出ていく。
女性たちも、何の力もなかったところから、復活した。
イエスの復活は、私たちの復活。
私たちは、復活しただろうか。
復活するためには、一度死ななくてはならない。
私たちは、人間の力と金の力に死んだか。
私たちは、神の前にそう言えるだろうか。
死んだ人を、イエスは復活させる。
喜びにあふれさせて、礼拝に招き、伝道に押し出す。
それが私たち。
人間の力も、金の力も、どうでもいい。
神の力はこの世のすべてを超える力。
その力が私たちを伝道に押し出していく。
伝道に出ていこう。
神の力は、私たちと共にある。
伝道と言っても、何か難しいことを話すわけではない。
女性たちも、この後の弟子たちも、したことは同じ。
証しすること。
そして、神は人が証しすることができるようにしてくださる。
そこまで含めて、すべて神の力。

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