場面が変わって、ティベリアス湖畔です。
これはガリラヤ湖のことですが、この地域の領主であったヘロデが、ローマの皇帝に気に入られようとして、湖の名前をローマの皇帝の名前に変えたんですね。
ここにいた弟子たちは全部で7人です。
名前が出ている弟子たち中で、トマスは出身地が分からないのですが、トマス以外はガリラヤの出身です。
他の二人は名前が分からないということですが、ペトロがいますので、二人の内一人はペトロの兄弟のアンデレだったかもしれませんね。
もう少し想像してみますと、弟子たちが弟子になった時、フィリポがまず弟子になって、その後、ここに名前が挙がっているナタナエルをイエスの元に連れて行ったんですが、そのフィリポがもう一人ということなのかもしれません。
ここで、ペトロが、「わたしは漁に行く」と言いまして、他の弟子たちは、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。
皆さんはこの場面をどのようにお読みになるでしょうか。
名前が挙がっている弟子たちの内、ペトロは漁師です。
ゼベダイの子たちと書かれている、ヤコブとヨハネも漁師です。
ここにいたかもしれない、ペトロの弟アンデレも漁師です。
漁をするのはこの湖では夜と決まっています。
つまり、漁をするんだったら、「わたしは漁に行く」、「わたしたちも一緒に行こう」なんていう会話はしなくていいはずなんです。
他の福音書には、弟子たちが復活したイエスに、ガリラヤに行くように命じられたことが書かれていますが、弟子たちは、ガリラヤに帰ってきたものの、することが無くて、じっと座っているだけの時間が長かった。
そこで、重苦しい空気を打ち消そうとして、ペトロが腰を上げたということではなかったかと思います。
それに、他の人たちも付いて行った。
漁師でない人たちも、することがないので付いて行ったということではないかと思います。
けれども、夜通し働いても、何も取れないまま、夜が明けました。
私たちにもそういうことはありますね。
長い時間働いても、結果としてそこに実りはなかったということを経験したことのない人はいないでしょう。
まして、弟子たちとしては、イエスにガリラヤに行けと言われたから戻ってきたんです。
それなのに、することが無くて、出来ることでもやってみようということで働いたけれども、何も実りはなかった。
私たちにもそういうことはありえます。
イエスに従っているんだけれども、今の自分にできることはない。
とりあえず出来ることでもやってみようということで、やってみたけれども、実りはない。
けれども、聖書は言うんですね。
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」。
すでに夜が明け始めています。
光が、もうすぐそこまで来ているんです。
何も実りのない夜は、いつまでも続かないんです。
明るい岸に、イエスが立って、私たちを待っておられるんです。
自分の意思でやってみようとして、じたばたしていた私たちを待っておられるんです。
けれども、「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」ということですね。
復活のイエスに出会った人たちの何人かが、最初はイエスだと分からなかったということがありましたけれども、ここでの弟子たちもそうだったんですね。
不思議です。
どうしてイエスだと分からないのか。
少し後のところを見ますと、岸まで200ぺキス、90メートル離れていたということですので、今は明け方の、これから明るくなってくる頃ですし、まだ暗くて、はっきりとは見えなかったということかもしれません。
しかし、もう少し後の12節を見ますと、「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった」と書かれていますから、ということは、やはり見た目ではイエスだとは分からなかったということでしょう。
不思議な話です。
復活のイエスは、外見は問題ではないということでしょうか。
それはそうかもしれません。
死の力にも打ち勝って復活したということは、ただの人ではないということですから、人間としての外見を問題にするべきではないでしょう。
ただ、そこで思うんですね。
復活したイエスは、手とわき腹の傷は、十字架の時のままだったんですね。
トマスに、手とわき腹の傷を示しましたけれども。
顔立ちでは判断できない。
でも、傷は死ぬ前の時のまま。
だからこそ、イエスは、ただの人ではなく、救い主であるということなんでしょう。
イエスが十字架に付けられたのは、人の罪を背負って、代わりに罰を受けるためでした。
手とわき腹の傷は、私たちが受けるべき罰を受けてくださったということです。
その傷はそのままなんです。
復活したというのなら、手とわき腹に穴が開いたままなのはおかしなことにも思えますが、その傷こそが、イエスが救い主であるということだからです。
イエスはもう、外見で判断すべき方ではありません。
私たちのためのその傷で、判断すべき方なんです。
その救い主が弟子たちに声を掛けました。
「子たちよ、何か食べる物があるか」。
弟子たちは、「ありません」と答えました。
救い主は言われました。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。
救い主は見ていてくださったんですね。
弟子たちが夜通し苦労しても、何の実りもなかったことを見ていてくださった。
そして、そこに、御言葉が与えられる。
その御言葉に従った時、大きな実りが与えられる。
網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかったというんですね。
これも、私たちが経験することです。
私たちが自分の意思で努力しても、それが空回りしてしまうことというのはあります。
しかし、弟子たちがガリラヤに行けと言われてその通りにした、つまり、主に従う中で実りがなかったということなら、救い主は、私たちをそのままにしてはおかれません。
改めて、自分の意思ではなく、イエスの言葉に従う時、大きな実りが与えられるんですね。
ここで、イエスの愛しておられたあの弟子が、それがイエスであると気づきました。
これはゼベダイの子のヨハネですね。
ヨハネはペトロに、「主だ」と言いました。
それを聞くと、ペトロは裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込みました。
舟を陸に上げるよりも、少しでも早くイエスのところに行きたかったからです。
上着を着ない方が速く泳げますが、人と会う時に裸同然というのはマナー違反ですから、そうしたんです。
他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来ました。
陸に上がってみると、炭火がおこしてありました。
イエスがおこしてくださったんです。
その上に魚がのせてあり、パンもありました。
イエスは朝食の支度をして、弟子たちを待っていてくださったんです。
イエスが備えてくださった朝食を、弟子たちはいただくのです。
救い主は、弟子たちの食事をも備えてくださるのです。
弟子たちは、自分の意思でじたばたする必要は最初からなかったのです。
ここでイエスは、イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われました。
ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいでした。
この、「百五十三匹」が何を意味するのかは、昔から、様々な人が様々なことを言ってきました。
ただ、魚の数を一匹一匹数えるというのは普通のことで、全部きちんと数えて、舟に乗っていた人たちで平等に分けるということがありました。
それにしても、わざわざここに数を書く必要はないと思います。
そこで、この「百五十三匹」に意味があるとすれば、それは、この「百五十三」という数字は、この時代には、すべての魚の種類の数であるとされていたということです。
世界中のすべての魚の種類が、百五十三種類に分けられていたんです。
それを、弟子たちは、引き上げた。
これは他の福音書が記している話ですが、漁師であった人たちを弟子にする時に、イエスが、このように声をかけたことがありました。
「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」。
そして、弟子たちに対するイエスの最後の言葉は、マタイによる福音書では、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」ということですね。
そして、この百五十三匹の大漁をイエスが与えてくださったんですね。
「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。
イエスの言葉が弟子たちに実現したということです。
「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」という言葉も、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉も、どちらも命令形で、ということは、弟子たちがしなければいけないはずのことなんですが、イエスご自身がそれを弟子たちに実現させてくださったんですね。
むしろ、弟子たちが、自分の意思でやろうとしている内は、うまくいかなかった。
イエスの言う通りにした時に、大漁になった。
そして、ここには、「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」とも書かれています。
普通だったら網が破れるくらいの魚が入ったんでしょう。
でも、網は破れていない。
これまでの話の流れからすると、世界中の魚で一杯の網は教会を表していることになります。
普通だったら、世界中の人が一緒にされてしまうと、共同体として成り立たなくなってしまうような気がします。
それぞれの国や地域で、習慣や常識が大きく違うからです。
誰かにとって当たり前のこと、誰かにとって普通のことが、世界中どこでもそうであるかというと、そうではありません。
もし、実際に、世界中のすべての国から一人ずつ人を集めてきて、一つの共同体にしたとしたら、どうなることでしょうか。
しかし、この場合、網は破れないんです。
教会は倒れないんです。
そもそも、網を降ろせと言ったのはイエスです。
ということは、イエスは網が破れないと知っていたことになります。
しかし、普通だったら網が破れるくらいの大漁です。
ただ、イエスからすると、ここで一匹二匹魚がかかったというのでは、弟子たちにイエスだと気づいてもらえません。
百五十三匹でないといけません。
それでも、イエスは網が破れないと分かっていました。
これはつまり、イエスご自身の力で、網が破れないようにしていたということです。
イエスの御力がそういう形でも及んでいたんです。
それから、弟子たちはイエスと一緒に食事をしました。
イエスがその手で、パンと魚を与えてくださいました。
ここに、教会が破れなく一つであるということが、現実に、私たちの教会の中で、どのように現れるのかということが示されています。
それは、イエスが備えてくださる食事にあずかることにおいてです。
私たちは、イエスから養いを受けているという点で、一つなのです。
私たちは、人間的な考えで一つになっているわけではありません。
皆で同じことをしているから一つであるわけでもありません。
イエスが私たちを養ってくださっている。
その点で一つなんです。
そこに、弟子たちの取った魚が加えられました。
10節で、イエスは、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われました。
これは、私たちのささげものが用いられることを表していると言えるでしょう。
イエスが招いてくださる食事、イエスが用意してくださったパンと魚がすでにあるわけですが、そこに、私たちのささげもの、私たちの奉仕も加えられて、食卓は一層豊かになります。
私たちがイエスにささげ、イエスに喜んでいただくだけでなく、お互いがお互いに養い合うということにもなるでしょう。
それが教会なのです。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。
主であることを知っていたからです。
生きておられるイエスが、共にいてくださっている。
そのあまりにも大きな祝福を、弟子たちは感じていたんです。
私たちも、同じ祝福を感じることができます。
私たちも、このところで、イエスの養いを受けているからです。
私たちも、このところで、イエスにささげ、お互いにお互いを養っているからです。
ここに、生きておられるイエスがおられるからです。
弟子たちが感じたのと同じ祝福が、ここにあるのです。
人間的な見方をすると、この弟子たちは、元の漁師に戻ってしまったような人たちです。
でも、そこにも、イエスはいらしてくださり、祝福へと招いてくださるのです。
弟子たちは、最初、重苦しい空気の中にいたことでしょう。
それは、イエスがおられなかったからです。
そうなると、自分でどうにかするしかありません。
けれども、何の実りもなかった。
しかし今は、イエスが共におられる。
そこに、祝福がある。
このことに、私たちも慰められます。
イエスがおられる限り、空しさや重苦しさで終わることはないのです。
イエスがおられる限り、空しさも重苦しさも、祝福に変えられるのです。
そのイエスが今、私たちと共におられます。
安心してください。
イエスは、私たちにも、格別の祝福を用意しておられます。
新しい年が、格別の祝福をいただく年となりますように。