キャンドル・サービスの説教
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 2章15節~20節
15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 2章15節~20節
イエス様がお生まれになられたことが羊飼いたちに知らされました。
天の大軍が羊飼いたちに現れたんでしたね。
びっくりしてしまうような場面です。
私たちが羊飼いだったらどうでしょうか。
びっくりして気を失ってしまうかもしれないですね。
しかしそこで、羊飼いたちはどうだったでしょうか。
もちろん、びっくりしたとは思うんですが、羊飼いたちは言っていますね。
「さあ、ベツレヘムへ行こう」。
どれくらい驚いても足りないような場面ですが、驚くよりも、そこへ行こう、希望に燃えているんです。
また、羊飼いたちは、ベツレヘムで救い主が生まれたということを知っているんですね。
これは天使たちが羊飼いたちに知らせてくれたことではありませんが、旧約聖書に昔々から預言されていたことでした。
羊飼いたちは旧約聖書を知っていたんですね。
そして、注目したいのが、この時の羊飼いたちのリアクションのとり方です。
「急いで行った」と書かれています。
これ、マリアと同じですよね。
イエス様の誕生を知らされたマリアにも、それが神様の業であるというしるしが与えられました。
その時マリアも、急いで、そのしるしを見に行ったんでした。
羊飼いにも、しるしが与えられていますよね。
「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」イエス様というしるしです。
それが神の業であるというしるしです。
そこで急いで行くんですね。
羊飼いたちは、神の言葉にすぐに反応したんです。
これは、羊飼いたちとマリアだけではなくて、後にイエス様の弟子になる人たちもそうでした。
弟子たちが弟子になる時にはどういうことが書かれているかと言いますと、「すぐに従った」と書かれているんですね。
神の言葉にその場で反応したんです。
今いる場所を離れて、今の自分を離れて、その場で、神に従う、神の言葉の側につくということですね。
1章前半には、それができなかった人のことも書かれていました。
ザカリアですね。
ザカリアは、神の言葉を受け入れなかったために、何か月間か、話すことができなくされました。
耳も聞こえなくされました。
人の言葉を話せなくなったんです。
人の言葉を聞けなくなったんです。
そうして、神の言葉にだけ向き合う時が与えられたわけですね。
ですから、大事なことは、まず、神の言葉にしっかり反応することなんです。
私たちも神の言葉である聖書を読みますけれども、読む時、その時、その時、自分を離れて、神の言葉の側につくということですね。
私たちの中には、普段、自分の言葉、人の言葉がうずまいています。
私たちの頭の中は人間の言葉でいっぱいなんですね。
神の側につくためには、それらの言葉に沈黙しなさいということことですね。
そうしてすぐにその場で神の言葉に反応することが大事なんだということです。
これは大変なことだと思うかもしれません。
しかし、そうではないんですね。
神の言葉は何と言っているでしょうか。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言っているんですね。
神様が私たちに伝えたいことはいつもこれなんです。
羊飼いたちは、その知らせに動かされたんです。
そこで、自分の言葉も人の言葉も退けて、神の言葉に従っていったんですね。
ただこれは、羊飼いたちにとって大変なことだったと言えば、大変なことでした。
羊飼いたちはこの時、何をしていたでしょうか。
仕事中だったんですね。
夜通し、羊の群れの番をしていたんです。
でも、すぐに反応したんです。
これは大変なことですね。
仕事場から勝手に離れたということです。
仕事をしていた場所から動かないで、「ああ、良かったね」ということではなかったんですよ。
これは、他人事ではなかったということですね。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、これを、まさにこの自分のことだと受け止めたんです。
だから、自分が出かけていくんです。
人間の言葉を退けて、仕事だとか用事だとか、自分の都合も退けて、語りかけられている神の言葉を、自分のことだと受け止める。
自分のことだと受け止める時、私たちは動かされていく。
そうすると、どういうことが起こりましたか。
神の言葉が実現していくんですね。
17節に、羊飼いたちは、「その光景を見」たと書かれています。
この「光景」という言葉は、15節の「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」の「出来事」という言葉と同じ言葉です。
そして、15節の「出来事」という単語も、17節の「光景」という単語も、どちらも「言葉」という単語なんですね。
羊飼いたちは、神の言葉を見ようとして出かけたということです。
そして、神の言葉を実際に見たわけです。
つまり、神の言葉は目に見える形で実現するものなんだということですね。
よく考えてみれば、この時、羊飼いたちが見たのは、そんな素晴らしい場面ではないですね。
一組の夫婦がいて、赤ちゃんが飼い葉桶に寝かされている。
飼い葉桶に寝かされているということですから、場所は馬小屋だったのでしょう。
ある夫婦が、長い旅をしてこなければならなくなって、そして、泊めてくれる宿もなかったので、馬小屋で子どもを産んだ。
それは悲しい現実ですね。
それを、羊飼いたちは見たんです。
けれどもここで羊飼いたちは、「どうして救い主がこんなところに生まれなければならなかったんですか」とは言いません。
神の言葉が実現しているからです。
ということは、救い主が馬小屋で生まれるということも、神の目にふさわしいことだったということですね。
救い主、神の子イエスは、ここで、私たちの側に立ってくださっているんです。
イエス様の両親が長い旅をしてベツレヘムに来なければならなかったのは、ローマの皇帝が住民登録を命じたからでした。
だから、自分の先祖の町に、自分の本籍地に来なければならなかった。
そして、その町に来たものの、お腹の大きい女性がいるというのに、誰も泊めてもくれなかった。
イエス様は、人の力に追いやられて、人の心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、そこでお生まれになられたんですね。
言ってみれば、イエス様は、人の罪のただ中でお生まれになられたんです。
それが馬小屋なんです。
それは、生まれてくる場所としては、最もふさわしくない場所です。
だからこそ、羊飼いたちは、そして私たちも、信じることができます。
この方は、私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださる、どんな時も、私たちの側に立ってくださる、そのような救い主だ。
そして、このような場所だからこそ、誰でも救い主に近づくことができます。
もしこれが、普通の家だったり、宿屋だったり、もしかしてお城のような場所だったりすれば、どうでしょうか。
誰も近づくことはできません。
まして、羊飼いというのは、当時の社会の最も下に位置付けられていた人たちです。
彼らには戸籍がありませんでした。
だから、ローマの皇帝が住民登録を命じたのに、彼らは先祖の町に行こうともしないんですね。
いつも通り仕事をしているんです。
イエス様が馬小屋以外の場所でお生まれになられたとしたら、そんな人たちが、イエス様に近づくことができるでしょうか。
馬小屋だからこそ、誰でも近づくことができるのです。
イエス様の救いからは、誰も漏れることはないんですね。
救い主は徹底して私たちの側に立ってくださるんです。
私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださり、どんな人でもご自分のそばに招いてくださるんです。
救い主が、神の子が、私たちと同じ人間として生まれてきてくださるということ、それだけでももう十分に私たちの側に立っていてくださることなんですけれども、ここまで身を低くして、私たちの側に回ってくださったんです。
羊飼いたちは、その御心が分かったんじゃないですか。
だから、どうしてこんなところに、とは言わずに、素直に大喜びしたんじゃないですか。
そして、その時、神の言葉が実現する時、神の言葉が実現して、私たちが喜びに満たされる時、私たちは変えられるんですね。
17節で、羊飼いたちは天使が話してくれたことを人々に知らせていますよね。
証人だったということです。
けれども、それで終わりではないんですね。
羊飼いたちは最後、神をあがめ、賛美しながら帰っていくんです。
賛美する者に変えられる。
神に感謝し、神をほめたたえるようにされる。
神様は、私たちが最終的に、喜びにあふれて賛美するようになることを望んでおられるんですね。
それが神様の望みなんです。
神様は、人には前もって何も知らせずに、人を救うご計画を進めることもできます。
それでも、何の問題もありません。
けれども神様は、人と心を一つにすることを望んでおられるんですね。
神様は、人が喜びに満たされて賛美するようになることを望んでおられる。
そのようにして、人と心を一つにすることを望んでおられる。
だから、御言葉を与えてくださるんですね。
マリアに対しても、ザカリアに対しても。
神さまはご自分のなさることを御言葉で知らせてくださるんですね。
それは、人が喜びに満たされて賛美するようになるためにです。
マリアもザカリアも神さまを賛美しました。
神の言葉が実現する時、人は賛美する者に変えられるんですね。
今回は、羊飼いたちが賛美することになりました。
それは、私たちもです。
神さまの言葉が実現していくことで、人が救われていく。
そして、心から喜んで神さまをほめたたえるようになっていく。
私たちが礼拝の中でしている賛美も、そういうものですね。
だから私たちも、もう、ただの証人ではないんです。
それを通り越して、賛美する者なんです。
私たちはみんな、この羊飼いであり、マリアであり、ザカリアなんです。
賛美した後、羊飼いたちは帰っていきました。
現実に帰っていくんですね。
しかし、仕事場から勝手に離れた羊飼いですよ。
雇い主はこの羊飼いたちをクビにするかもしれませんね。
たとえもう一度誰かに雇ってもらえたとしても、休みなしの厳しい労働が待っています。
世間の人たちの視線も冷たいものだったことでしょう。
けれども、羊飼いたちは、それまでと同じ場所に置かれて、同じものを見ても、受け取り方、感じ方はもうまったく変わってしまったと思うんですね。
厳しい現実の中にあっても、賛美にあふれて生きていったんだと思うんですね。
その日から、新しい生活をスタートさせていったんだと思います。
救いに入れられているからです。
そして、神と心を一つにしているからです。
私たちもそのようであっていいんです。
救いは、この私たちにおいて実現している。
私たちのための救い主が、私たちのところに来てくださった。
だから、私たちはこの礼拝に自分からやってきたんだし、礼拝の中で賛美をしている。
私たちも、神と心を一つにしている。
羊飼いたちと私たちには、何の違いもありません。
賛美しながら、それぞれの現実に帰っていきましょう。
そこでも、神を賛美しましょう。
神はいつも、私たちの側におられるからです。
私たちがどんな悲しみ苦しみにあっても、神様は必ず、私たちを抱きしめてくださるからです。
賛美しましょう。
そして、羊飼いたちがそうしたように、このクリスマスから、新しい生活をスタートさせていきましょう。
