2025年11月02日「なぜ泣いているのか」

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聖句のアイコン聖書の言葉

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章11節~18節

原稿のアイコンメッセージ

今日の場面は、「あらゆる文学の中で最も美しいめぐり合いの場面」とも言われているそうです。
確かにそうですね。
美しい場面です。
ただ、文学ではなく福音書ですから、文学と言われてしまうと困るんですが、小説になるくらいの美しい場面であるということは間違いないと思います。

最初は、一人の女性が泣いているところから始まります。
このすぐ前の場面で、ペトロとヨハネは家に帰って行きましたが、マリアはお墓に残ったんですね。
マリアはこの朝、最初にイエスの墓に来たんでした。
イエスのそばにいたかった。
その思いで、墓に行った。
そうすると、墓に蓋をしてある丸い石が転がしてあって、墓の中に遺体はなかった。
ペトロとヨハネを呼びに行って、お墓に戻ってきて、ペトロとヨハネは家に帰ってしまったんですが、マリアはお墓で泣いている。
マリアは、イエスの遺体がそこにあったとしても泣いただろうと思います。
墓には丸い石を転がして蓋をしますから、その石がそのままだと、遺体は見れないわけですが、マリアは、墓がいつも通りの様子だったとしても、やっぱりこの場所で泣いたと思います。
そして、その場合には、泣くことで慰められるということもあったことでしょう。
しかし、今は違います。
泣くことで自分を慰めることもできない。
遺体すら、なくなってしまったから。
この涙は絶望の涙です。

マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ました。
遺体がないことは何度も確認したことだけれども、もう一度覗き込まずにはいられなかったのでしょう。
すると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。
天使たちは、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と話しかけました。
「なぜ泣いているのか」、それは、もう泣かなくてもいい、イエスは復活した、ということですね。
けれども、マリアの悲しみはあまりにも深いものでした。
マリアは、突然現れた天使に、驚くこともしません。
天使と言いましても、外見は普通の人と同じだったかもしれないんですが、それにしても、誰かが自分の見ていない内に、墓の中に入ったなんてことはないはずなのに、驚かないんですね。
天使だろうが何だろうが、どうでもいい、という状態です。
マリアは答えました。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
マリアは、「わたし」、「わたし」と繰り返しています。
自分のものを奪われた、という気持ちが強かったんでしょう。
こう言いながら、マリアは後ろを振り向きました。
自分の言った言葉で、「イエスの遺体はどこなのか」という気持ちになって、あたりを見回そうとした、ということなのかもしれませんし、後ろに人の気配を感じたのかもしれません。
視線の先には、イエスが立っておられました。

けれども、不思議なことに、マリアにはそれがイエスだとは分かりませんでした。
そのマリアに、イエスの方から話しかけてくださいます。
「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
イエスも、天使と同じことを言いますね。
「婦人よ、なぜ泣いているのか」。
泣く必要はないということです。
そして、もう一言、「だれを捜しているのか」。
イエスに決まっています。
ただ、マリアは、イエスの遺体を捜しているんです。
しかし、イエスは今、目の前に立っておられます。
マリアは捜すべきものを間違えているということです。

私たちも、同じ間違いをすることがあります。
私たちも、イエスを捜すのではなく、イエスの遺体を捜してしまうことがあります。
墓に納められた遺体は、もう動くことはありません。
何も言いません。
墓に行くのは、その人との懐かしい思い出に浸るためです。
そう考えますと、もし私たちが、イエスを自分の頭の中に納めてしまって、自分の頭の中にある聖書の言葉、イエスの言葉やイエスの行いを思い起こすことしかしないんだったら、記憶と記録の中にしかイエスを探さないんだったら、生きておられるイエスを求めないんだったら、それは、イエスの遺体を墓の中に探そうとすることと同じです。
イエスは、復活して、生きておられるんです。
そして、私たちの前におられます。
しかしもし、私たちが、イエスの遺体を探しているのなら、私たちも、マグダラのマリアと同じことになるでしょう。
つまり、目の前にイエスがいても、それが誰だか分からない。

ただ、それでも、イエスは付き合ってくださるんですね。
私たちも、イエスが私たちに付き合ってくださることを期待していいということでしょう。
マリアは、イエスに話しかけました。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアは遺体を探しています。
しかも、ここに出てくる「引き取る」という言葉は、13節で「私の主が取り去られました」と言った時の、「取り去る」というのと原文では同じ言葉です。
つまり、マリアは、イエスの遺体を取り去った誰かの手から、イエスの遺体を取り返そうとしているんです。
イエスをモノ扱いしているんですね。
イエスに話しかけられても気づかない理由がわかる気がします。

しかし、そんなマリアにイエスは、呼びかけます。
「マリア」と名前を呼んだんですね。
「婦人よ」ではなく「マリア」です。
気づかせてくださるんですね。
復活のイエスとの出会いは、私たちが努力すれば実現するのではありません。
イエスが私たちを、名前で呼んでくださって、一対一で出会ってくださるんです。

ところで、マリアは、イエスに名前を呼ばれると振り向いた、と書かれています。
14節でも振り向いたのに、ここでまた振り向くのはおかしなことです。
マリアは、14節で振り向いたところ、そこにいたイエスに話しかけられたんですが、その後マリアは、泣いている顔を見られたくなくて、また墓の方に向き直ったのかもしれません。
ただ、それにしても、こうも何度も振り向いた、と書いておく必要があるでしょうか。
これは一つには、マリアは心の向きを変えた、ということを強調したいのかもしれません。
また、もしかすると、もっと深い意味があるのかもしれません。
復活したイエスはいつも、マリアの後ろにいます。
そして、ユダヤ人という人たちは、過去とは目の前にあって、未来とは後ろにあると考えるのだそうです。
未来が前で、過去が後ろではないんです。
過去が前で、未来は後ろ。
これは日本語でも同じですね。
日本語では、「前のこと」と言った場合、それは過去のことですね。
過去が前なんです。
日本語で「後のこと」と言った場合、それは未来のことですね。
未来が後ろなんです。
ところが時間は過去から現在を通って未来に向かいますから、それでは、過去を見つめながら、未来に向かって、後ろ向きに歩いていくようなものですね。
後ろ向きに歩くなんて恐ろしいことですが、だからこそ、神の導きを求めるんです。
そして、今日の場面で、マリアは、基本的に墓の方を向いていました。
イエスが死んだ、過去の方を向いていたわけです。
イエスは、そのマリアの後ろに現れて、声を掛けます。
後ろからです。
未来からです。
そして、マリアは振り向くんですね。
過去に囚われていたところから、未来に向きを変えたんです。
そこに、もう泣かなくて良い未来があるんですね。
マリアは過去の中にイエスを探しましたが、イエスは未来から声をかけるんです。
私たちにもそうでしょう。
私たちも、多かれ少なかれ、過去に囚われている者です。
そして、過去を思い起こして悲しむことがあります。
しかし、イエスは、後ろから、未来から、声をかけてくださいます。
振り向きなさいと。
あなたが見つめるべきはそこではないと。
振り向いたところで、未来に目を向けたところで、私たちは復活して私たちに会いに来てくださったイエスに出会うんですね。
イエスはいつも、私たちの未来に立っておられるんです。
私たちは、過去に囚われることがしばしばありますが、私たちの未来に、死に打ち勝った、復活のイエスがおられるんです。

振り向いたマリアはイエスに、「ラボニ」と言いました。
この言葉を正確に訳すと、「わたしの先生」という意味になります。
13節ではマリアは、イエスのことを「わたしの主」と呼んでいました。
「主」というのは奴隷に対する「主人」ということですね。
別にマリアは奴隷ではなかったでしょうが、イエスの前にへりくだって、そう言った。
ただ、この言葉は、大人の男性を指して広く使われる一般的な言葉でした。
そして、何と言おうと、マリアが捜しているのはイエスの遺体のことです。
生きておられると分かった今、マリアは、「わたしの先生」と呼びます。
「わたしの主」とは呼ばないんですね。
主人は奴隷をどう扱うかはわかりません。
しかし、先生とは、弟子を教え導いてくださる方です。
生きておられるイエスだからこその呼びかけです。

ここで、マリアは、イエスにしがみついたようです。
イエスは言います。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。
イエスが父なる神のもとに上ってしまったら、それこそ、すがりつくことはできなくなります。
ただ、イエスは天に昇ってから、弟子たちに聖霊を降してくださいますね。
そうなれば、もう、すがりつくどころか、いつも弟子たちと共にイエスがいてくださるということになるわけです。

そして、最後にイエスは、マリアに伝言しました。
「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
今はもうここにいない弟子たち、一足先に帰ってしまった弟子たちにも、未だに家の中に隠れて出てこない弟子たちにも、伝言してくださるんですね。
それも、イエスは、弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼んで、言うんです。
わたしの父なる神は、あなた方の父でもあり、あなた方の神でもある。
なんと、弟子たちは神の子だと認められたんですね。

マリアは、弟子たちのところへ行って、伝えました。
弟子たちは後に、使徒としての働きをしていくことになります。
使徒というのはイエスがそう名付けたんですが、直訳すると、「遣わされた者」という言葉です。
イエスから遣わされて、何をするのかというと、復活をのべ伝えていくわけです。
使徒言行録を読むと、使徒たちが伝えた話というのは、ほとんどすべて、復活の話です。
しかし、このところでは、その使徒たちに、マリアが復活を伝えているんです。
マグダラのマリアのことが、「使徒の使徒」と言われることがあるのはそのためです。

過去を見つめて泣くしかなかったマリアでした。
イエスは、そのマリアの目を未来に向けさせて、使徒の使徒として用いてくださったんですね。
それは、未来の私たちの姿かもしれません。
私たちにもそれぞれに悲しみがあります。
もうどうにもしようがないようなことを抱えています。
そして、そこから目を離すことができなくなることがあります。
しかし、その私たちの後ろから未来から、声がかかります。
誰の声なのかは、最初は、私たちにも分からないかもしれません。
それでも、振り向いた先に、復活のイエスが立っておられるんです。
私たちの未来には、死の力にも打ち勝った、復活のイエスが立っておられるんです。
後ろを振り返りましょう。
未来を見つめましょう。
イエスは私たちがそのようになることを、願っておられます。
そして、私たちが未来に希望を抱いて生きていくことができるようにしてくださるんです。

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