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2023年04月02日「イエスの死の時」

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聖句のアイコン聖書の言葉

45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。57夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。58この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。59ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。61マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。62明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、63こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。64ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」65ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」66そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章45節~66節

原稿のアイコンメッセージ

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
日本では160年ほど前に、キリスト教の伝道が自由にできるようになった。
その時、仏教のお坊さんたちは、キリストのこの言葉を取り上げて、キリスト教は信じてはいけない、と教えた。
キリストは神から見捨てられた。
神から見捨てられた人を信じても、良いことはない。

しかし、キリストは自分から十字架に向かって進んできた。
逃げることもできたのに、逃げずに捕まった。
裁判でも、何も言わなかった。
十字架にかけられてからは、そこにいた人々に、救い主なんだったら十字架から降りて来いと言われたが、そうしなかった。
降りようと思えば、降りることができる。
キリストは嵐を静めた方。
湖の上を歩いた方。
人々に、がけから突き落とされそうになっても、人々の間をすり抜けて立ち去ったこともあった。
でも、十字架からは降りない。

人の罪がキリストを十字架につけた。
キリストは、人の罪を背負って、十字架にかかってくださった。
そして、この時の、神から見捨てられるということ。
これは、人に罪があって、その結果、神から見捨てられるということまで、背負ってくださっているということ。
神から見捨てられた人の絶望も、背負ってくださっている。

ただ、ここでイエスがこの言葉を叫んだことには、深い意味がある。
「わが神」という呼びかけは、福音書の中で、ここにしか出てこない。
キリストが神に呼びかけた言葉で一番多いのは「父」。
「父」という呼びかけは福音書の中に170回出てくる。
「わが父」は21回。
「わが神」という呼びかけはここだけ。
キリストは、自分の言葉で話していない。
この言葉は、旧約聖書の言葉。
詩篇22編の言葉。
そして、詩篇22編には、十字架の場面と重なる言葉がいくつも出てくる。
人々にバカにされる。
主に頼んで救ってもらえと言われる。
人々が自分の服を取って、分け合う。
しかし、神に見捨てられたと思っても、人々からもそう見られても、それでも、神を信頼しつづける、ということがテーマ。

そして、今日の場面には、そのような人たちが出てきていると言える。
55節の婦人たち。
男性の弟子たちは皆逃げ出してしまったのに、イエスと男性の弟子たちのお世話をして、一緒に旅をしてきた女性たちは、ここにいた。
そして、その女性たちは、61節で、イエスの体が墓に入れられると、墓の方を向いて座っていた。
立ち去ることができなくて、ずっと、墓の方を、イエスの方を向いていた。
57節のアリマタヤのヨセフもそう。
この人は自分からピラトのところに行って、ピラトにお願いして、イエスの体を引き取った。
そんなことをしたら、自分が危ない目にあうかもしれない。
けれども、そうした。
そして、自分のために用意していた墓にイエスの体を納めた。
この人たちが何を考えてそうしたのかは書かれていない。
しかし、この人たちは、イエスは神に見捨てられたと考えるのが普通の場面で、それでもイエスから離れなかった。
私たちは、どうだろうか。
私たちは、十二人の弟子たちのように逃げ出してしまうのか。
それとも、今日の人たちのように、イエスから離れないでいられるのか。
私たちは、どちらだろうか。

しかし、今日の聖書の言葉は、婦人たちやアリマタヤのヨセフのようになりなさい、という話ではないだろう。
結局、イエスは十字架につけられてしまった。
婦人たちやアリマタヤのヨセフは、イエスから離れなかった。
でも、彼らに何ができたのか。
何もできなかった。
せいぜいイエスの体を墓に納めることしかできなかった。
私たちが、イエスから絶対に離れない強い信仰を持っていたとしても、それで何ができるかと言うと、大したことはできない。
今日の場面が見せているのは、人間の力ではなくて、神の力が実現して行く、ということ。

不思議なことがたくさん起こっている。
45節を見ると、全地は暗くなったと書かれている。
これは日食ではない。
イエスが十字架につけられたのは過越し祭というお祭りの頃。
このお祭りは、満月の何日か後に行われる。
満月の時に日食は起きない。
それなのに、暗くなった。
イエスというまことの光が失われようとしている。

イエスが死ぬと、51節で、神殿の垂れ幕が上から下まで裂けた。
神殿の垂れ幕というのは、高さが18メートル、厚さが10センチ。
それが、上から下まで真っ二つに裂けた。
こんなことは人間にはできない。
そして、この出来事には意味がある。
神殿の垂れ幕というのは、神殿の中の、一番奥の小さい部屋があって、その部屋と神殿のホールを分けていた垂れ幕。
そして、一番奥の小さい部屋に神が来られると考えられていた。
それなのに、その部屋とホールを垂れ幕で仕切るのは、人間には罪があるから、人間が簡単に神の前に出てはいけないと考えられていたから。
しかし、イエスはその人間の罪を背負って、十字架にかかってくださった。
だから、人は誰でも、神の前に進み出ることができる。

地震が起こって、岩が裂けるということも起こった。
岩が砕けたのではない。
岩が裂けた。

そして、これは少し後のことだが、53節を見ると、イエスが復活した後、死んでいた人たちが墓の中から生き返った。
神の力が現れる時には、常識では考えられないようなことが起こる。
神の力は、そのところで、そのことについてだけ起こるのではなくて、他のところにもいろいろな形で力を現していく。
それくらい、神の力は大きい。
その中で、54節で、百人隊長や見張りをしていた人たち、つまり、イエスを十字架につけた人たちが、信仰を告白するようになっていく。
罪の赦しと救いが誰にでも広がっていく。

人間の力は小さい。
しかし、神の力は大きい。
その大きさがどれくらいか分からないくらい大きい。

それでも、神の力を認めないで、人間の力で神の力にブレーキをかけようとする人もいる。
62節からのところで、イエスの敵であった人たちは、ピラトに願い出た。
イエスの遺体を弟子たちが盗み出すかもしれない。
そして、「イエスは死者の中から復活した」と言いふらすかもしれない。
そうならないようにしてほしい。
結局、墓の石に封印し、番兵を置くことになった。

しかし、人間の力では、神の力を封印することはできない。
イエスは復活した。
そして、弟子たちは、イエスの復活を世界中に伝えていった。
その時には、今は逃げ出して隠れている弟子たちが用いられた。
人間の力ではない。
すべて神の力だ、という証。

そして、その時に、婦人たちやアリマタヤのヨセフも大きな働きをしたことになる。
アリマタヤのヨセフがイエスを墓に納めた。
婦人たちは十字架の場面から、お墓まで、イエスをずっと見ていた。
だから、イエスは確かに一度死んだ、それから、復活した、と言える。
「イエスは死者の中から復活した」というのは、婦人たちとアリマタヤのヨセフの働きがあったから、そう言える。
この人たちがいなかったら、イエスの敵だった人たちは、「十字架で死んだのはイエスではなかった」とか、「実は死んでいなくて、墓の中で息を吹き返したんだ」と言うだろう。
しかし、それは言えない。
イエスから離れなかった人たちがいたから、弟子たちはイエスの復活を伝えることができる。

もっと言うと、墓の石に封印して、番兵を置いたことも、イエスが復活した証になる。
お墓に誰もいなかったら、それこそ、弟子たちがイエスの死体を盗み出したことにされてしまうだろう。

神の力は人間の善い行いも悪い行いもすべて用いて、人間の考えを超えて、大きく働いていく。
私たちはその、神の力を信じたい。
私たちも、弟子たちのように、弱くされることがあるだろう。
しかし、神の力は力のないものに働く。
私たちも、婦人たちやアリマタヤのヨセフのように、イエスの元に留まりつづけることもあるだろう。
その時、もう自分にはこれだけのことしかできないと、心の中では思っているかもしれない。
しかし、それは、その時には考えもしなかったようなことに大きく用いられていく。

聖書というのは結局そういうことを言っていると思う。
旧約聖書のアブラハムはたった一人で旅に出たが、その自分のことが、後に聖書に記されると思っていただろうか。
そのアブラハムが、信仰の父と呼ばれることになった。
パウロは誰も助けてくれない中で、それでも、各地の教会を励ますために手紙を書きつづけたが、その自分の手紙が聖書に収められると思っていただろうか。
そのパウロが書いた手紙が、新約聖書の半分以上を占めている。
そして、パウロの建てた教会は世界中に広がった。
それは、わたしたちも同じ。
わたしたちも、その時その時、本当に精いっぱいなんだけれども、本当に小さなことしかできない。
しかし、神はその私たちの働きを大きく用いてくださる。

「ペイ・フォワード」というクリスチャンが作った映画がある。
20年以上前の当時、子役として非常に人気があったハーレイ・ジョエル・オスメントくんが主演。
この映画は12歳の少年が主人公。
まだ子ども。
大きいことなんてできるはずがない。
その子どもに社会科の授業で大きな課題が出された。
「世界を変える方法を考えて、それを行動に移そう」。
そこで、彼が考えたのが、「ペイ・フォワード」。
自分が受けた善意を相手に返すのではなく、他の3人に渡すことで、善意を拡散させていく運動。
主人公の彼自身は、周囲の人に手を差し伸べようとするものの、結果はうまくいかず、自分の計画は失敗に終わったと落胆していた。
しかもその子は、同級生から暴行を受けているアダムという名前の友人を助けようとして、命を落としてしまう。
しかし、実は彼の知らない所で、ペイ・フォワード運動は広がっていた。
自分の目には、自分の運動は失敗したようにしか見えなかった。
そして、残念なことにあっけなく死んでしまった。
しかし、彼の残したものは大きかった。

私たちも、神に絶望することがあるかもしれない。
しかし、私たちは信じていい。
神の力はそこからでも働いていく。
そして、その神の力に導かれて、私たちは今日、礼拝している。
今日、私たちは婦人たちとアリマタヤのヨセフのように用いられるかもしれない。
弟子たちのように用いられるかもしれない。
大丈夫。
人間の力ではない。
神の力。
人間のどんな力も、神の力を押しとどめることはできない。
どんな力をも用いて、神の働きは大きな実を結ぶ。

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