2025年10月20日「恐れを乗り越える」

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聖句のアイコン聖書の言葉

38その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。39そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。40彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。41イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。42その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 19章38節~42節

原稿のアイコンメッセージ

今日の話は、イエスが死んでから埋葬される場面です。
もうイエスは死んでしまっているので、ここのところはこんなに詳しく書かなくても良いようなものですが、こんなに詳しく記録されています。
この場面から私たちが学ぶことが多くあるからだということになるでしょう。
すべてが終わってしまった後のことなんですが、ここにも、神の御手の働きがあるんですね。

遺体を埋葬することを願ったのはヨセフという人でした。
ルカによる福音書によると、この人は、国会議員でした。
しかし、そのヨセフのことが、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と紹介されています。
どうして隠していたのかというと、この福音書の9章22節にあるのですが、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」という状況だったからです。
会堂から追放するというのは、共同体から追放するということです。
まともに生きていくこともできなくなります。
地位の高い人であっても、そのことを恐れなくてはならなかったんです。
それは、ヨセフだけではありません。
今日の場面のもう一人の登場人物のニコデモも同じでした。
この人のことが、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのある」人だと紹介されています。
大体この書き方が少し皮肉を言っているようにも聞こえますね。
イエスのところに来たことはあるが、イエスに従わなかった人だ、と言っているようにも聞こえます。
しかも、イエスのところに来たのは夜だったということですね。
このことはこの福音書の3章に描かれているんですが、ニコデモは夜、人に見られないように、イエスのところにやってきたんでした。
ニコデモはその時、イエスに対して、あなたは神のもとから来られた教師だと言いました。
けれども、そのイエスに会いに行くのに、人に見られないように、夜、出かけて行った。
やっぱり、共同体から追放されることを恐れていたんです。
このニコデモも国会議員でした。
地位の高い人でも、自分の立場を失うことを恐れなくてはならなかったんです。

ただこれはこの人たちに限ったことではないでしょう。
恐れによって信仰が隠されてしまうことは誰にでもありうることだと思います。
私たちは、恐れを感じたら、神に心を向けるよりも先に、今の自分にだけ心を向けるということは普通にありうることです。
自分を守ろうとすることは必ずしも悪いことではありませんが、恐れに支配されて、自分を第一にしてしまって、神に思いが向かわないということは、誰にでもありうることだと思います。
つまり、ヨセフもニコデモも、国会議員ですが、私たちと同じ普通の人だったということです。

その彼らが、イエスの遺体を引き取り、埋葬しました。
不思議なことですね。
ずっとイエスに付き従ってきたイエスの弟子たちは逃げ出してしまっているのに、自分の立場を失うことを恐れていたはずの二人が、イエスの遺体を埋葬したんです。
ただこれは、簡単なことではありませんでした。
ヨセフは、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ローマ帝国から派遣されていた総督のピラトに願い出たんですが、死刑囚の遺体を引き取ることは、家族にだけ許されていたことでした。
ヨセフはピラトに、自分とイエスの関係をどのように説明したのでしょうか。
もしかすると、自分は家族だと言ったのかもしれませんね。
ただ、それは、間違いではないと言えるかもしれません。
イエスは十字架の上で、自分の母マリアに、自分の弟子のヨハネのことを、「あなたの子です」と言っておられました。
ヨハネに対しては、ご自分の母マリアについて、「あなたの母です」と言っておられました。
イエスを信じる者たちは、家族なんですね。
ヨセフがピラトに何と言ったかは分かりませんが、とにかく、ピラトはヨセフがイエスの遺体を引き取ることを認めました。
ということは、ヨセフはイエスの家族であると認められたということです。
それを、ヨセフはピラトの前で信仰告白をして、イエスの家族になったと言って良いのだと思います。
ピラトとしては、もしかすると、ヨセフが家族ではないことを認識していて、でも、自分は死刑に反対だったのに、自分を脅して死刑判決を出させたユダヤ人たちに対する仕返しのつもりでヨセフに遺体を引き渡したのかもしれません。
それでも、ここで、ヨセフが信仰告白をしたということは言って良いのだと思います。

ニコデモは、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来たということですね。
没薬と沈香というのはいずれも樹脂で、お香として用いられるものなのですが、それを100リトラ持ってきた。
リトラというのは、「リットル」という言葉の元になった言葉ですが、重さの単位です。
100リトラはおよそ32キロです。
お香の量としては、ものすごい量だと言っていいでしょう。
ただ、この時代の埋葬の仕方というのは、まず、遺体を洗ってから、没薬を体に塗って、亜麻布で包むということなんですが、そこまでのことができたのかどうかまでは分かりません。
香料を添えたと書かれていますが、これは、体に塗ったということではなさそうな感じです。
時間がなくて、そこまではできなかったのかもしれません。
お墓は十字架に付けられた場所から近いところにありました。
わざわざ、園にあるお墓だと書かれていますが、園にある墓というのは、王が葬られる墓のイメージでした。
そして、その墓はまだ誰も葬られたことのない墓だとわざわざ書かれています。
これは、人間がまだ使っていないものだということで、ですので、神にささげるのにふさわしいものということになります。
ニコデモは人一人を埋葬するには非常識なくらいの量のささげ物をしました。
ヨセフも、これはヨセフが意識していたかどうかは分かりませんが、イエスを王として、神として扱った。
そして、自分のために用意していた墓をささげた。
やっぱり、大きなささげ物をしたわけです。

ただ、大事なのは、ささげ物の多い少ないではありません。
大きなささげ物ができたのは、そもそも彼らがそれを持っていたからで、それは、彼らが地位の高い人たちだったからでしょう。
それよりも大事なのは、ヨセフとニコデモが、恐れを乗り越えて、隠すことなく信仰を現したことです。
ただ、それは、彼らが、この時になってようやく、勇気を振り絞って、自分の力で恐れを乗り越えたということではないはずです。
普通に考えて、生きている間に従うことができなかったんですから、死んだ後で弟子になる必要はありません。
ではどうして、この時、ここで、ここまでのことをすることができたのか。
ヨセフとニコデモは、イエスの十字架を見ていたんじゃないでしょうか。
十字架で、イエスは、ご自分自身の命をささげてくださいました。
私たちのために。
罪人である私たちが裁きを受けないために。
自分たちのためにイエスは、ご自分自身をささげてくださった。
そう思ったからこそ、ご自分自身をささげてくださったイエスに、今度は、自分たち自身をささげることができたということでしょう。
これは、ヨセフとニコデモにとって、大変なリスクのあることです。
イエスの遺体の埋葬という、自分自身にとって大きなリスクのあることを、恐れずにやることができたのはどうしてか。
イエスが、自分のために、リスクどころか、命までささげてくださった。
それが分かったからこそ、リスクを恐れずに行動することができるようにされたんです。

私たちも同じようにして、それぞれに自分自身をささげていると言えます。
教会というところはそこに集う人たちの奉仕で成り立っているわけですが、奉仕というのはしなくても構わないわけです。
奉仕しなかったからと言って、文句を言われることはありません。
では私たちはどうして奉仕をするのか。
イエスがこの自分のために、ご自分自身をささげてくださった。
それが分かっているから、私たちも、自分自身をささげるわけです。
それが分からないんだったら、労働というのは、しなくていいなら誰もしたくないわけです。
ヨセフとニコデモは、この時、自分自身にとって大きなリスクのあることを行いました。
私たちには、リスクというほどのことはないかもしれません。
しかし、奉仕しないんだったら、私たちはその時間を、自分のために使うことができます。
ささげないんだったら、そのお金も自分のために使うこともできます。
そうしたところで、誰にも文句は言われません。
ではなぜ私たちは奉仕するのか、ささげるのか。
イエスが私たちにご自分自身をささげてくださったことが分かっているからです。
普段それほど意識しないかもしれませんが、私たちも実は、私たちにご自分をささげてくださったイエスに、自分をささげているんです。

私たちの奉仕は、今日のヨセフとニコデモのしたことのように、人の目に華々しいものではないかもしれません。
しかし、この時、イエスの遺体が確かに埋葬されたということが、後から大きな意味を持ってくることになりました。
この時代のこの地域では、死刑囚の遺体は投げ捨てられるのが普通でした。
そして、もし、イエスの遺体が投げ捨てられていたら、その後、どうなったでしょうか。
イエスはこの後復活しますが、復活したとしても、「いや、復活したのではない。十字架で死んだように見えたけれども、本当は死んではいなかったんだ」と言われかねません。
つまり、ヨセフとニコデモは、復活を証しする備えをしたことになります。
もちろん、そんなことはヨセフもニコデモも今はまだ考えもしないことですが、結果として、そのように用いられていったと言えます。
イエスに奉仕する時、人は、考えもしなかったような仕方で用いられることがあるということです。
たとえその奉仕が、埋葬という、もう死んでしまった後のことで、埋葬されないにせよ、されるにせよ、いずれにしても、もうこれから何かが起こりそうもない状況であったとしても、奉仕が用いられるということはあるんですね。
人には人の考えがありますが、神にも神の御心があります。
神の御心は、その時その時は人には分からないのが普通です。
すべてが終わってしまったような状況でも、本当にすべてが終わったのかどうか、それを決めるのは神なんです。

そして、この時の奉仕は、後から用いられただけではなく、この時点ですでに、大きな喜びを人に与えたと言えます。
十字架の時、十字架の周りには、イエスの母マリアがいましたし、親戚の女性もいました。
その人たちこそ、本当にイエスの家族です。
ただ、この人たちは、イエスの遺体を引き取ることができませんでした。
この人たちはガリラヤ地方の出身です。
この場所から100キロ以上離れた地方の出身です。
遺体を引き取ったとしても、この人たちの家のお墓はこの町にはありません。
そして、他の福音書によりますと、イエスが息を引き取られたのは午後3時です。
あと3時間ほどで、日が沈みます。
日が沈むと、次の日になります。
次の日は安息日です。
安息日には埋葬はできません。
日が沈むまでにこの町の誰かに頼んで、死刑囚の遺体を埋葬させてもらうということができるでしょうか。
できそうにありません。
イエスの家族の女性たちは、どんな思いでいたことでしょうか。
そこに、全く予想もしないことに、二人の国会議員が現れて、遺体を埋葬してくれたのです。
家族としては、本当に驚いたことでしょうし、心の底から神に感謝したことでしょう。

イエスはもう死んでしまいました。
しかし、もう動くことのないイエスの周りで、これだけ豊かに、神の御手が働いていたんです。
そして、ヨセフとニコデモがこのように用いられたことは、私たちに一つのことを教えているように思います。
私たちも、場合によっては、かつてのヨセフとニコデモのように、従うことができないということはあり得ます。
しかし、神はそれをご存じの上で、私たちの弱さを受け入れてくださっています。
だから、神は今日、ヨセフとニコデモを用いられた。
神は、いつかこの日が来ることを知っておられたんです。
それは、私たちもです。
私たちも、いつか、考えもしなかったような仕方で用いられることになるかもしれない。
いや実は、今、私たちはそのように用いられているかもしれない。
私たちのためにご自分をささげてくださったイエスを仰ぎ見ましょう。
そこから、この私たちに、神の業が始まっていくんです。

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