苦しめられた時には
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- 説教
- 尾崎純 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章10節~12節
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章10節~12節
今日の御言葉ですが、いかがでしょうか。
ここまではっきりと大変なことが書かれてしまうと、ちょっと困ってしまいますね。
それも、ここでの言われ方を聞いてみると、当然、そういうことはある、ないはずがない、という感じですね。
しかも、こんなことが言われています。
「義のために迫害される人々は幸いである」。
幸いだと言うんですね。
迫害されたら幸いだ、と言うんです。
最後のところに書かれていますけれども、昔の預言者たちは皆そうだったじゃないか、迫害されたら、預言者と同じだ、幸いだ、と言うんです。
預言者というのは神の言葉を伝える人ですね。
確かに預言者は迫害されてきました。
神の言葉を伝える、と聞きますと、何か立派なことを言うのか、と思いそうになりますが、神の言葉は、いつも、神に逆らう人に伝えられてきました。
というより、人は神の言葉を聞いても素直には従わないんですね。
ですので、神の言葉を語る人を、人はいつも攻撃します。
実際のところ、キリスト教の歴史は迫害の歴史であるとも言えます。
キリスト教会が誕生したその最初の頃には、まず、教会はユダヤ教から攻撃されました。
ユダヤ教から分かれるようにしてキリスト教ができたような形になりましたから、ユダヤ教としては、キリスト教というのは異端と言うか、分派と言うか、そういうふうにしか見えませんので、攻撃するんですね。
次に、ローマ帝国から攻撃されました。
ローマ帝国はその地域その地域の宗教を認めてはいたんですが、キリスト教は言わば迷信だ、ということになりまして、迫害を受けることになりました。
例えばですけれども、キリスト教会では、お互いのことを兄弟姉妹であると呼び合いますね。
これは、キリストにあってみんな弟たち、妹たちである、ということなんですが、そのことが誤解されまして、「教会というところでは近親相姦をしている」として迫害されたんですね。
あるいは、教会では聖餐式を行います。
聖餐式は、最後の晩餐に思いをいたしながら、パンとぶどう酒をいただくわけですが、キリストは最後の晩餐の席で、弟子たちに対して、ご自分の命を与えるおつもりで、パンについては、「これはわたしの体である」、ぶどう酒については「これはわたしの血である」とおっしゃいまして、パンとぶどう酒を弟子たちに与えたので、そのことで、「キリスト教会では人間の肉を食べて、人間の血を飲んでいる」と誤解されたんですね。
時に大変な迫害が起こりまして、生きたまま火をつけられて、街灯の代わりにされたり、生きたままライオンに食べられたこともあったと言います。
313年にローマ帝国に公認されますけれども、迫害はそこで終わりではありませんでした。
ローマの国教になって、教会は地位を得ました。
権力も得ました。
そうすると、教会は、聖書を人々に読ませなくなったんです。
正しい解釈は教会が決める。
人々が勝手な解釈をしては困る。
教会だけが正しい。
そういうことになりまして、教会の神学と違う人たちを迫害し、教会から追い出すということも起こってきました。
その果てに宗教改革が起こるのですが、新しい教会を建て上げた人々の間でも、迫害はありました。
キリスト教の歴史は迫害の歴史なんですね。
もっと言うと、迫害を乗り越えてきた歴史です。
そして、その中で、今日の御言葉が、正しい信仰に立つ人たちを励ましてきたのは事実です。
しかし、迫害されること自体はやはり幸いとは思えないわけです。
そういうことを乗り越えて、信仰が受け継がれていって、今ここに教会が建っているんだ、と言われても、難しいところです。
今日の、この8つ目の幸いについては、一つの節だけではありません。
今までの幸いについては一つ一つが一つの節だけで、短かったんですが、今日のこの8つ目の幸いについては、三つの節で書かれていますね。
11節と12節で、10節をくわしく説明している感じです。
10節の「義のために迫害される」というのは、11節では、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」というふうに言い換えられていますね。
10節で「義」という言葉が出てきていまして、それは、「神の正しさ」ということなんですが、それが11節では「わたし」、つまりイエス様ということになっています。
イエス様を信じているために迫害されるということですね。
そして、10節の迫害というのは、11節では、ののしられ、悪口を言われるということです。
迫害というと、大変な暴力をイメージしますが、大変な暴力だけではありません。
イエス様を信じているということで、悪く言われるということもあるということですね。
それも迫害に含まれるということです。
人の正しさではなく、神の正しさの側に自分はいるんだ、イエス様と一緒にいるんだ、ということになると、どうしたって世の人からは良いように思われないということになります。
昔々からの迫害においてそういうことが起こったように、誤解されることもあれば、理解してもらえないこともあるわけです。
それは避けられません。
最初から立ち位置が違うわけですから。
私たちは何も、自分が神のように正しいということではないわけで、実際のところ、罪もあれば弱さもあるわけですが、世の人とは立場がまったく違いますので、誤解や無理解は避けられないんですね。
例えて言いますなら、リベラル派が保守派に、保守派がリベラル派に、その人がどれだけ良い人だったとしても、すべての面で受け入れてもらうのは無理です。
「あの人は人柄は良いんだけれども、考え方が……」という話になります。
それと同じように、私たちが世の人にすべての面で受け容れてもらうことはできません。
信仰を生きるというのはそういうことだということですね。
どうしたって人から良いようには扱われないんです。
しかし、そこでイエス様は、「あなたがたは幸いである」と言うんですね。
12節では、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言います。
イエス様としては、これには理由があるんですね。
12節の真ん中で、「天には大きな報いがある」と言われています。
神様が報いてくださるんです。
だから、幸いなんだ、とイエス様は言うんです。
神様が報いてくださるんだから、ということですね。
人から褒められても、神様から憎まれたら、幸いとは言えません。
人から憎まれても、神様から報いられるなら、幸いだと言えるでしょう。
迫害される、ののしられる、悪口を言われるというのは、神様に従っているから、神様の側についているからこそ、起こることです。
そして、もし私たちが、本当に神様の側についているのなら、人からどう言われようと、大きな問題ではありません。
一番大きな問題は、神様が私をどう見てくださっているのかということですね。
だからこそ、私たちとしては気を付けたいですね。
もし、私たちが、世の人から理解されなかったり、誤解されたり、悪口を言われたりして、その時に落ち込んでしまったとしたら、それは、私たちが十分には神の側に立てていないということなんです。
もし十分に神の側に立つことができているのなら、落ち込むことはありません。
何を言われても当然だということが分かっているし、神様の報いがあるんですから。
だから、私たちとしては、神の側に立ってこの御言葉を思い出すことが大事なんだと思います。
そうなりますと、励まされますね。
この言葉は本当に私たちを励ましてくれる言葉になります。
そして、もっと喜んでいいことが書かれていますね。
10節に、「天の国はその人たちのものである」とありました。
聖書で「天」と言ったら「神」というのと同じことです。
そして、原文では、「国」という言葉は「支配」というふうにも訳すことができる言葉です。
要するに、天の国というのは神様の支配のことですね。
神の支配は、神に従う人のものなんだ、とここで言われているんです。
神に従う人を、神はご自分のもとに置いてくださるということです。
そして、この言葉、「天の国はその人たちのものである」という言葉は、まったく同じことが3節でも言われていました。
3節は8つの幸いの一番最初ですね。
最初と最後で、同じことが言われているんです。
もう、これが一番幸いなことなんだ、という感じですよね。
「支配」という言葉は、「王」という言葉が元になってできた言葉です。
神様を王にすること。
それが神の支配に入ることですね。
神様が私の王になってくださるんです。
もう、全部の幸いがそこに含まれている感じですね。
そして、迫害を受ける時、私たちは一人ではありません。
「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられた」のはイエス様ご自身ですね。
そして、イエス様が、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」ても、何も言わずにその罪を引き受けてくださったからこそ、私たちは神の元に取り戻されたわけです。
神様に王になっていただいたわけです。
ですから、「天の国はその人たちのものである」というのは、今のこの私たちのことです。
だとしたらもう、私たちが人からどう扱われるのかは問題ではありません。
ただ、私たちは、いつも気を付けておくべきでしょうね。
今日最初にこの御言葉を読んだ時、もしかしたら、それはしんどいな、という思いもあったのではないかと思います。
それは要注意なんですね。
神の側にしっかりと立てていないということになります。
そして、理解されなかったり、誤解されたり、悪口を言われたりして落ち込んでしまったとしたら、それは自分が神の側に立てていないということなんです。
神の側に立っていれば、人から何を言われても気にならないはずですから。
神の側に立っていれば、人に理解されないのは当たり前なんだと分かるはずですから。
何しろ、こちらから世の人の方を見て、自分と違うな、ということが分かりますから、もう、理解されなくても当たり前なんです。
違いがあったらいつも、数が少ない人たちは迫害されるものです。
それが人間の歴史で、キリスト教の歴史です。
言葉の違いでも肌の色の違いでも顔つきの違いでも、違いがあったら数の少ない人たちは迫害されるものなんです。
そして、歴史を見ると分かる通り、本当の信仰を持っている人はいつの時代も少数派です。
ですから私たちも、嫌なことが必ずあります。
今ここで考え方を変えてください。
どうして理解してくれないんだ、それは誤解だ、と言っても無駄です。
本当の信仰のある人は信仰のない人や信仰の薄い人には理解されないものなんです。
最初から立っている場所が違うんですから。
考え方を変えましょう。
迫害されたら喜びましょう。
イエス様のためにののしられるということは、自分がその人とは違うということです。
違うようになれているということなんです。
そしてそれは、神様が私の王になってくださっているということなんです。
そして、迫害されるのは、イエス様が私の罪を引き受けてくださった時のことと同じことなんです。
だとしたら、それこそ私たちとしては、迫害されたら、イエス様に従っていることになります。
迫害された時が大事です。
その時、私たちが本当に神の側に立っているのかどうかが分かります。
その時、私たちが、出来事の本質に気づいて、喜ぶことができるかどうか。
落ち込まないで、どうぞ喜んでください。
その時、十字架のイエス様が一緒にいてくださいます。
そのことが分かっていたからこそ、キリスト教の歴史は迫害の歴史だけれども、信仰が絶えることなく受け継がれてきたんです。
むしろその度に、信仰が高められ、整えられてきたんですね。
私たちが同じようにできるなら、私たちの後の時代にも信仰は受け継がれていくことでしょう。
そして、もっと多くの人が救われていくことになるのです。