2025年09月22日「罪状書き」

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聖句のアイコン聖書の言葉

16こうして、彼らはイエスを引き取った。17イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。18そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。20イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。21ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。22しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。23兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。24そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、
「彼らはわたしの服を分け合い、
わたしの衣服のことでくじを引いた」
という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 19章16節~24節

原稿のアイコンメッセージ

いよいよイエスが十字架に付けられる場面です。
この度、少し調べてみますと、十字架刑というのはローマ帝国の時代よりも前からあったそうです。
もともとはペルシャの刑罰で、どうしてペルシャでこのような刑罰が行われたのかというと、ペルシャ人にとって地面というものが神聖なもので、だから、地面の上では死刑を行わないということで、十字架というのが考え出されたのだそうです。
それにしても、残酷な刑罰だと思いますね。
十字架にかけられるときには、死刑囚は、まず、両腕を肩が外れるまで引っ張られて、その上で十字架に付けられます。
両腕が限界まで引っ張られていますから、胸を膨らませて息をすることができません。
じゃあどのようにして息をするのかというと、十字架に付けられるときには、膝を少し曲げて踵を釘付けにされますから、膝の曲げ伸ばしで横隔膜を上下させて、それで呼吸するんですね。
でも、釘づけにされた手首と踵からは血が出つづけますし、段々体力がなくなってきます。
それで、最後には、膝を曲げ伸ばしできなくなって、息ができなくなって死んでしまうんですね。
十字架というのは、時間をかけて、窒息させて人を殺す方法なんですね。
こんなことを考え付いた人は普段、どんな意識で生きていたんだろうと思ってしまうような刑罰なんですね。
そのような刑罰をローマ帝国は受け継ぎまして、そして、今、イエスがその刑罰を受けようとしているんです。

ただここで最初に、「こうして、彼らはイエスを引き取った」と書かれています。
この「彼ら」というのは、すぐ前の15節の「祭司長たち」ということでしょう。
けれども、十字架というのは、ローマの死刑の方法です。
ユダヤでは、死刑というのは石打ちの刑です。
イエスに死刑の判決を下したのはローマから派遣されていた総督のピラトですし、実行したのもローマの兵士です。
それなのに、祭司長たちが、つまり、ユダヤ人が死刑にしたような書かれ方になっているんですね。
確かに、証拠もないのに無茶な訴えを起こして、ピラトを脅して、民衆を動員して大声で圧力をかけて、死刑判決を出させたのはユダヤ人ですが、イエスを引き取ったのは祭司長たちではなく、ローマの兵士だと言うべきでしょう。
では、ここのところは、一体何を言いたいんでしょうか。
イエスは、神と関係なく生きている悪者に殺されたのではないんです。
神の民として、神に従って生きている者たちが、イエスを殺したんですね。
そしてそれは、私たちのことでもあります。
私たちも、自分は神と関係なく生きている悪者だとは思いません。
神に従って生きようと思っている。
その私たちが、イエスを十字架に付けたんです。
イエスを十字架に付けたのは、どこかの悪者ではないんです。
私たちだということなんです。
自分はそんなことはしないと思う方もおられるかもしれません。
でも、確信をもってそう思っていたイエスの弟子たちはどうなりましたか。
全員、イエスを見捨てて逃げたんですね。
イエスを守ろう、イエスを逃がそうとは、誰もしなかった。
弟子のペトロはイエスのことを「知らない」とまで言ったんです。
そして、弟子たちも皆、ユダヤ人です。
イエスは、信仰のない者が十字架に付けたのではありません。
信仰がある者たちが、みんなしてイエスを十字架に追いやっていったんですね。

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれました。
この場所がゴルゴダ、頭骸骨と呼ばれるのは、この場所が死刑場であるということと、この場所が丸い形の丘になっていたということがあるのでしょう。
その場所でイエスは十字架に付けられます。
他の二人がイエスの両側に十字架に付けられます。
そして、罪状書きが十字架の上に掲げられました。
一般に「十字架」と言われますが、十字架の形というのは、漢字の十の形だけではなくて、Iの字の形だったり、Tの字の形だったり、Xの字の形だったりもしたそうです。
そもそも、十字架という言葉を原文で見ますと、「杭」や「棒」を意味する言葉で、形は分からないんですね。
ただ、この時、頭の上に罪状書きが掲げられましたから、十字架の形はTとかXではないですね。
TとかXでは、十字架の上に罪状書きを掲げることはできません。
そうなると十かIかということになりますが、Iの形の十字架はこの地方ではあまり使われなかったようですので、やはり、私たちがイメージしている十字架の形で良いということになりそうです。

罪状書きには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてありました。
そしてそれが、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語と、ローマの言葉であるラテン語と、当時の世界共通語であったギリシャ語で書かれました。
ピラトがこの罪状書きをかけたのは、ユダヤ人たちへの仕返しというつもりだったのでしょう。
ユダヤ人たちは、イエスは、「ユダヤ人の王」だと自称したということで訴えました。
この男は、ユダヤ人の王を名乗って、ローマ帝国の支配を否定しているぞ、ということです。
ピラトはイエスを取り調べて、そのような事実を見出すことはできなかったんですが、ユダヤ人たちは民衆を動員して、「十字架に付けろ」と叫んでピラトに圧力をかけました。
ピラトは、暴動が起こらないようにするため、また、自分がローマ本国に訴えられないように、死刑判決を出すしかなかったんですね。
けれども、納得していたわけではありませんから、罪状書きに「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いた。
しかしこれは、罪状書きだと言えるでしょうか。
罪状書きに、その人の出身地と名前を書くのは普通のことでした。
しかし、「ユダヤ人の王」というのは罪状とは言えないですね。
その上、三本並んだ十字架の真ん中がイエスの十字架なんですね。
王だから真ん中だということでしょう。
ピラトとしては、お前たちの王が十字架に付けられているぞ、悔しいだろう、という気持ちなんでしょう。
ユダヤ人たちは文句を言いますが、ピラトは取り合いませんでした。

この罪状書きによって、イエスが何者であるのかが皮肉な形で明らかにされています。
イエスは「ユダヤ人の王」です。
神の民の王です。
このような形ではありますが、御心が明らかにされている。
だからイエスはこれについて何も言いません。
そして、これはこれで正しいのではないかとも思えるんですね。
罪びとの救いは、神の子が代わりに十字架にかかることでしか、実現しないからです。
この罪状書きは、救いの実現を示しているとも言えるのです。

イエスを十字架に付けた人々は、私たちでもあります。
しかし、十字架に付けたからこそ、私たちは救われるんです。
もし、イエスの十字架が、私たちと何の関わりもない、どこかの悪者の仕業だったとしたら、救いも、私たちと何の関係もないことになります。
この私たちがイエスを十字架に付けた、だからこそ、この私たちが救われるんです。

そして、救いは、私たちだけのものではありません。
ピラトは、世界中の誰にでも読めるように、三つの言葉で罪状書きを書きました。
イエスがユダヤ人の王であること、つまり、神の民の王であることは、世界中にのべ伝えられるべきことです。
この福音書の12章32節で、イエスは、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言っておられました。
十字架に付けられ、地上から上げられたイエスが、すべての人をご自分のもとに引き寄せるんです。
そうして、私たちは、今ここで、このように集められて、十字架のイエスを礼拝しているんですね。
本来、イエスとは無関係なところにいたはずの私たちが、集められて、十字架の救いの関係者とされているんですね。
ピラト自身には、そのような思いはありません。
しかし、そのピラトが、考えてもいなかった形で、救いを証しているんですね。
ユダヤ人たちもピラトも、救いの業に組み込まれているんです。

この場には、ユダヤ人ともピラトとも違って、まったく無関心な人たちもいました。
兵士たちですね。
この人たちは、イエスの着ていた服を分け合いました。
それは、兵士たちに、役得として与えられていた権利でした。
服を四つに分けたとありますが、服を四つに切り分けてしまったら価値がなくなりますので、これは、イエスが身に着けていた、コートと、それだけでなく、頭を覆う布と、帯とサンダルなどの四つを分け合ったということでしょう。
下着も取ってみたとありますが、「上着」というのがコートのことで、「下着」というのはコートの下に着る、普通の服のことです。
それが一枚織りだった。
切り分けると服としての価値がなくなってしまうので、くじを引いて誰のものにするか決めることにした。
それは、自分たちが十字架に付けた死刑囚に対して全く無関心で、あっけにとられてしまうような場面です。
しかし、この出来事も、聖書の言葉の実現であった、と書かれています。
これは詩編22編19節の言葉ですが、詩編22編には十字架のイエスと重なる言葉が多く記されています。
例えば、22編の2節には、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と記されていますが、これは、十字架の上でイエスが言った言葉です。
十字架は罪人の罪を肩代わりして罰を受けることですが、罪人が神に見捨てられることまで、イエスは肩代わりしてくださったわけです。
また、22編の8節9節には、人々が嘲笑って、「主に頼んで救ってもらうがよい」と言ったとありますが、これも、十字架のイエスが、その場にいた人々に言われたことです。
そして、19節で、くじ引きで服が取られる。
イエスを十字架に付けた人たちがくじ引きをして服を取ったのは偶然と言えば偶然ですが、それも、この詩編22編の実現だったというんですね。
そして、この詩編22編は、最後、「わたしの魂は必ず命を得る」というところに行きつくんですね。
この詩は、その昔、ユダヤ人の王であったダビデという王様の詩ですが、イエスは、この詩をなぞるようにして十字架に付けられたと言えます。
ダビデの詩はダビデのことであって、イエスのことではないわけですが、聖書の言葉は神の言葉で、神の言葉は生きて働く言葉であるというのが聖書の信仰です。
そして、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語では、言葉という単語は、言葉という意味にもなれば、出来事という意味にもなるんですね。
これは日本語に少し似ています。
日本語で言葉という単語がありますが、それは、出来事の端っこ、ということで、「言葉」なんですね。
ヘブライ語の場合は、神の言葉はそのまま、現実の出来事なんです。
生きて働く言葉なんです。
ですから、人も、時代も、場所も違っていたとしても、神の言葉は何度でも実現するんですね。
それがこれだと言っているんです。
つまり、すべて神の言葉の通りになったということです。

もう一つ申し上げますと、この兵士たちはイエスに無関心でしたが、やはり、救いの御業に加わっていますね。
十字架にかける前にイエスに茨の冠をかぶせたのは、兵士たちでした。
イエスは王だと。
もちろん、彼らはそんなことを認めません。
ユダヤ人たちもピラトも認めません。
兵士たちは言われたとおりに仕事をして、役得にありつきたい、それだけです。
ですが、彼らは、イエスに王冠をかぶせた。
人間の罪と悲惨の現実だけが展開されているような場面です。
しかし、その場から、そのような場だからこそ、神は救いの御業をそこから実現していってくださるのです。
人間の罪しか見えないような場にあっても、その現実を本当に支配しておられるのは神なんだということです。

わたしたちの周りにも、ピラトのような人たちがいます。
ユダヤ人たちのような人たちがいます。
兵士たちのような人たちがいます。
いえ、私たち自身がそうです。
しかし、神はそこに、救いの十字架を立ててくださるんです。
そこで、王となってくださるんです。
神の民を救ってくださるんです。
その王を、仰ぎ見ようと思います。
救いが、私たちにあります。

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