2025年09月15日「メシアとは何者か」

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メシアとは何者か

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ルカによる福音書 20章41節~44節

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聖句のアイコン聖書の言葉

41イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。42ダビデ自身が詩編の中で言っている。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい。
43わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで」と。』
44このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 20章41節~44節

原稿のアイコンメッセージ

みなさんには、「これはこうだろう」と思っていることって、ないでしょうか。
「これはこうだろう」と考えていること。
確実にそうだと思っているわけではないけれども、「これはこうだろう」という感じで、自分の中では確かなことになっていること。
例えばですが、この人はこういう人だろう、と思っているというか、認識しているということ。
でもそれは、いつも正しいとは限りません。
夫婦の間でも、この人はこういう人だろう、とこちらで考えていたことが、実は違っていたというのはしばしばあることだと思いますね。
それなのに、私たちは何かにつけて、「これはこうだろう」と思い込んでいる。
そんな私たちに、今日、イエス様は、イエス様については「これはこうだろう」ということは考えてはいけないよ、と言うんですね。
イエス様については、私たちは、勝手に決めつけることができないということ。
それが今日の話です。

この個所はルカによる福音書の、もう最後の方ですが、この辺りになってくると、イエス様に論争をふっかける人が増えてきました。
この時代の人々は、皆、救い主を待ち望んでいました。
旧約聖書には、いつか必ず救い主がやってきて、自分たちを解放してくれると書かれているんですね。
神様が、神様を信じる人たちを救い出してくださるということです。
そして、この時代のイスラエルはローマ帝国に支配されていましたから、皆、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる強い指導者を求めていたんですね。
そこで、イエス様のことをそのような救い主だと期待した人たちがいました。
けれども、権力者たちは、民衆に人気があったイエス様のことを良く思っていませんでして、救い主と認めないだけでなく、とにかくイエス様を警戒して、やっつけてやろうとしていたんですね。
そこで、イエス様に論争をふっかけて、やり込めてやろうという試みが何度もなされましたが、いろんな人たちが一生懸命考えて意地の悪い質問をしても、イエス様は見事にお答えになられて、そうすると彼らはもう何も言い返すことができなくなってしまうんですね。

そして今日は、いよいよ、今まで質問されてきたイエス様の方から質問をなさるんですね。
今度はイエス様の方から、意地の悪い人たちに対して質問していくんです。
それがこの質問ですね。
「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。
こういう質問をしておいてから、その次にイエス様は、旧約聖書の詩篇の言葉を語りまして、最後に、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言うんですね。
これは少し言葉の説明をしておきたいんですが、まず、メシアというのは旧約聖書に出てくる言葉ですが、直訳すると、「油注がれた者」という言葉です。
旧約聖書の時代には、神様の大切な務めにつく人は頭に油を注がれたんですね。
例えば王様は王様になる時に頭に油を注がれて、そこから、神様の大切な務めを果たしていくということになっていました。
それが油注がれた者、メシアということなんですね。
そして、メシアという言葉は旧約聖書の言葉であるヘブライ語なんですが、それを新約聖書の言葉であるギリシャ語に翻訳すると、クリストスという言葉になります。
このクリストスという言葉がキリストという言葉になっていくんですね。
とにかくメシアという言葉はもともとは神様の働きをする人を指す言葉だったんですが、時代が下りますと、このメシアという言葉は、旧約聖書に預言されている、いつの日にか現れる救い主を指す言葉になっていきました。
そして、人々はイエス様のことをメシアではないかと思って、期待していたんですね。

ただここでイエス様は、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言っています。
このダビデというのはイスラエルの国が一番強かった時代の王様です。
ですからダビデはイスラエルの人たちにとってはヒーローなんですね。
ダビデはその時代に、周りの小さな国をいくつも従えていて、イスラエルの国は周りの国よりも強かったんですね。
旧約聖書には、いつの日にかやってくるメシアは、ダビデの子だ、ダビデの子孫だ、と書かれています。
ですから人々は、そこから、ダビデのような強い王様が自分たちを救ってくれるんだと期待したんですね。
けれどもイエス様はここで言うんですね。
「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。
これは一体どういうことなのかと思いますね。
イエス様は事実、ダビデの子孫です。
この福音書ですと3章の最後にイエス様の家の系図が書かれていますけれども、その系図の中にダビデの名前が出てきます。
イエス様は事実、ダビデの子孫なんです。
ただ、これは少し翻訳に問題があるところでして、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言ってしまいますと、なんだか「メシアはダビデの子ではない」と言っているように聞こえますけれども、原文を見ますと少し違っていまして、ここのところは、「どのような意味で、人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と書かれているんですね。
つまり、「メシアはダビデの子だ」と人々は言うけれども、それはどういう意味でなのか、人々が言っているような意味で、メシアはダビデの子だ、と言うのは本当に正しいのか、ということなんですね。
つまり、人々は「メシアはこういうものだ」と決めつけているけれども、それは正しいのか、ということです。
人々は、メシアはダビデの子だ、と書かれていることに目をつけまして、そこから、メシアというのはダビデのような強い王様で、強い国をつくりあげてくれるんだと考えていました。
しかし、そうなりますと、その人がメシアであるかどうかを、人間が判断できるということになりますね。
この人はメシアだ、とか、メシアではない、ということを人間が判断できることになっていきます。
ダビデという王様を思い起こして、その子孫にふさわしいから、その人はメシアだ、とか、いや、メシアではない、ということが言えるということになっていきます。
そして、実際に、今まで、イエス様に論争をふっかけてきた人たちは、イエス様はメシアではない、と判断していたんでしたし、イエス様のことをメシアだと思って付いてきている人たちも、自分の頭で考えて、イエス様はメシアだ、と判断していたんでした。
ダビデという王様についての知識とかイメージとかで、それに合うとか合わないとかいうふうに考えて、イエス様を判断していたんですね。
つまり、人々は、イエス様に従う人々も逆らう人々も、どちらにしても、その人が救い主であるかどうかは自分が決めるんだ、というつもりだったんですね。

それに対してイエス様は、ダビデが歌ったとされる詩編110篇を引用します。
「ダビデ自身が詩編の中で言っている。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい。
わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで」と。』
このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
「主は、わたしの主にお告げになった」というのが少し分かりにくいですが、最初の「主」というのは、神様のことです。
そして、二つ目の「主」というのは、メシアのことです。
つまり、「神様はメシアにお告げになった」ということです。
何と告げたのかというと、「わたしの右の座に着きなさい」ということですね。
「右の座に着く」というのは、神様と同じ権威を持つということです。
それほどの権威をメシアは与えられているんですね。
もうこれは、強い王様とか、そういうレベルの話ではないわけです。
ダビデどころの話ではありません。
それなのになぜ、そのメシアを、ダビデ程度の、人間に過ぎない者にふさわしいかふさわしくないかで判断しようとするのか。
だいたいダビデは、メシアのことを主である、私の主人であると呼んでいるじゃないか。
ダビデよりもメシアは、はるかに上におられる方ではないのか。
イエスはそう言うんですね。
メシアは、強い国をつくるだとか、その程度の方ではないんですね。
その程度のことなら人間にもできるわけです。
メシアは、救い主は、人間の理解を超えているんですね。
だからダビデのような強い王様でも、メシアは私の主であると呼ぶんですね。
メシアというのは、神に等しい方であって、人間の頭の中に収まるような方ではないんです。

考えてみれば、そもそも、イエス様は、馬小屋でお生まれになられたんですね。
王様のお城で生まれたんじゃないんです。
馬小屋です。
そして、イエス様は、19章でイスラエルの都エルサレムに入る時、馬ではなくて、ロバに乗ってお入りになられたんでした。
ロバは戦いには使えません。
庶民の乗り物です。
それに乗ってお入りになられたんです。
イエス様は、最初から、人間の頭の中に収まるような方ではないんですね。
ですので、ここで大事なことは、メシアは主である、ということに心を向けることではないかと思います。
私たちがメシアであるとかメシアでないとか言っていたんでは、まるで私たちが主人で、メシアは私たちに従ってしか働けないような感じになります。
でも、そうではないんです。
メシアが主なんです。
私たちはメシアに従うんです。
私たちと救い主との関係は、そういう関係なんですね。
救い主というのは、私たちの主人なんです。
私たちが主人になってしまって、私たちが判断できるような相手ではないんですね。
私たちがメシアを主と呼んでメシアに従う時、救い主は救い主の働きをなしとげてくださるんですね。

本当に救い主に出会う時には、私たちは、「これはこうだろう」という考えから自由にされることでしょう。
自分の考えとか感覚から自由になって、自分を主人にするのをやめて、新しい心で、神様の救いを待ち望むようになっていくんですね。
それが希望に生きるということですね。
自分をしばりつけているものから自由になって、神様に希望を置く。
それが本当の希望ですね。
救い主に出会うことによって、私たちは、そういうふうに変えられていくんだと思います。
私自身のことになりますが、私はそれを神学校にいたときに体験しました。
神学校というのは牧師になるための学校ですが、神学校では、かなり専門的な、学問的な授業もなされるんですね。
今となっては何もああいうやり方でなくてもいいじゃないかと思いますが、とにかく、専門的に勉強する学校でした。
そうしてたくさんの知識をいただいて、イエス様がどのような方なのかということを考えていくんですけれども、考えて考えて、分かった気になった分だけ、分からないことがまた出てくるんですね。
「これはこうだろう」という思いは強まっていくんですけれども、「これはこうだろう」と思った分だけ、また分からないことが出てきます。
それはもう、いつまでたっても終わらないんですね。
でもある時、気づきました。
ある本を読んでいて、その本を書いた先生は立派な大学を出て、立派な大学に留学した方なんですけれども、ある時、「この先生、どうしてこの大学を出て、この大学に留学していて、こんな簡単なことが分からないんだろう」と思ったんですね。
その時、私には、その先生が、自分の頭の中に全部が収まるんだと考えて書いているように感じたんです。
その時私は、そういうふうに考えていては分かるものも分からなくなると気づかされました。
そして、「これはこうだろう」と考えるのをやめて、イエス様が主であるということに思いを向けるように変えられたんですね。
そうすると、それまで辛かった勉強が、本当に楽しくなりました。
分からないことはやっぱりあるんですけれども、全て恵みなんですね。
イエス様というのは、私にとって、全て恵みなんです。
それが分かったんです。
それが、私にとって、本当の意味での救い主との出会いだったんでしょうね。
イエス様のことで分からないということはたくさんあります。
でも、私たちを超えた方なんですから、神様の右の座に着いておられる方、神様と等しい方なんですから、分からなくて当然です。
ただ、大事なことは、そのような方が、私たちに、救いの恵みをくださるんだということですね。

さて、この時、この、イエス様の方から出された質問に、誰も答えることができませんでした。
けれども、この時には誰も答えることのできなかったことを、後になって、弟子たちは自分から語りだしたんですね。
それが使徒言行録の2章です。
これはぜひここのところを開いていただきたいんですけれども、使徒言行録の2章、新約聖書の215ページですが、そこで、弟子のペトロが長い説教をしますね。
この説教は、キリスト教会の最初の説教です。
その説教は217ページまで続いていきます。
その中で、216ページですが、ペトロは今日イエス様が引用した詩篇110編を引用して、イエス様のことを語るんですね。
使徒言行録の2章32節から36節をお読みいたします。
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで。」』
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。
このあたりは、人間の考えを超えたことをペトロは語っているんですね。
「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。
こんなことがあるんでしょうか。
あるんです。
神様がそうなさるんですから。
人間は、自分の考えに合わなかったキリストを殺しました。
しかし、そのキリストを、神は私たちの主とし、救い主となさったんですね。
それが神様の御心だったからです。
人間が「これはこうだろう」と思って行動したとしても、実現するのは神様の御心なんですね。
ではイエス様がメシアであると、どうして言えるでしょうか。
32節にありました。
「神はこのイエスを復活させられた」んですね。
まさにこれは、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とする」ということですよね。
死が、イエス様の足台にされているんです。
死の前では、人間はどんな希望も持つことはできません。
その死が、キリストの足台にされている。
人間の考えからすれば、誰も、死を足台にするなんてことを考えません。
考えもつかないことです。
しかし、この救い主は、人間をはるかに超えているんですね。
死から復活なさる方。
誰もがその前では何もできないでいる、死というものに打ち勝つ方。
まさにメシアです。
神の右に座っておられる方です。
そして、ご自身が死に打ち勝ったというだけでなく、私たちも、死から救い出してくださるんですね。
そのために、先ほど読んだ箇所に書かれていましたが、私たちには、聖霊、神の霊そのものが与えられているんです。
考えもしなかったようなこと、期待もしていなかったようなことを、本当の救いを、救い主はなしとげてくださるんですね。
ですので、救い主というのは、最初から最後まで、人間の考えなんかには収まらない方なんです。
そして、だからこそ、感謝なんですね。
だからこそ本当の恵みなんです。
その主人に、私たちは従っていくんですね。
その主人に従って、後をついて行って、主人と同じように、一度は死んでもその向こうで、永遠の命を生きていくんですね。
これが救い主がしてくださることです。
私たちの誰も、考えもしなかったような方。
まことの救い主です。
人間が考えることが出来るのは、せいぜい、外国を打ち倒して強い国を作ってくれる王様とか、そのくらいのものです。
そのくらいが人間の考えの限界です。
そんなものではない。
ほんとうに、神の右に座っておられる方なんです。
私たちを、本当に生かしてくださる救い主です。
そして、一番驚くのは、その愛です。
人間はその方を十字架につけて殺したんです。
それなのに、その方は、私たちを変わらず愛してくださっている。
死を経験させられても、変わらず人を愛してくださっている。
人間の考えを超えた愛です。
その、人間を超えた神の奇跡が、私たちを包んでいます。
こんな恵みがあるでしょうか。
こんな恵みがどこにあるでしょうか。
私たちの内にある恵みは、そのようなものなのです。

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