2025年09月01日「平和を実現する人々は幸い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章9節

原稿のアイコンメッセージ

ここのところでは、幸いな人々について、全部で8通り、言われているんですが、この5章9節には特徴がありますね。
ここまでは、どういうような人が幸いであると言われていたんですが、ここのところで初めて、何かをする人が幸いであると言われています。
ところで、「平和を実現する人々」と聞きますと、皆さんはどういう人をイメージしますか。
何だかはっきりとはイメージしにくい感じがします。
この「平和を実現する人々」という言葉は、他の翻訳では「平和を作り出す人々」となっています。
自分の手で平和を作り出していくこと。
何だかすごい感じですね。
これは気を付けたいですが、「平和を求める人々」ではないんですね。
「平和を求める人々」だったら私たちは皆当てはまります。
けれども、ここではそういうことが言われているわけではないんです。
「平和を実現する」というのは、自分の手で平和を作り出すことです。
そして、平和を作り出さなければならないということは、そもそもそこに平和がないということになりますね。
争いの中にあるわけなんです。
けれどもそこで、問題を解決して、良い関係を作り出す人。
悪い関係を良い関係に変える人。
それが「平和を実現する人」なんですね。

「平和を求める人」と言っても、それはそれで良いことですよね。
でも、平和を求めるだけで、平和が実現するかどうかは分かりません。
それに対して、今日は、「平和を実現する人」について言われているんです。
これは、「平和を守る人」のことでもありません。
もちろん、平和を守るために動くのは結構なことです。
けれども、平和を守る、と言ったら、とりあえず平和がそこにあるんですよね。
それが続くように守る。
それは、今日の話とは違います。
今日の話は、「平和を実現する」ということです。
今はそこに平和がないんです。
その中で、平和を作り出す。
それが今日の話です。

争いの中に置かれて、平和を作り出すということ。
これは大変に難しいことです。
争いというのは、お互いが自分の正しさを主張するところから起こってきます。
どちらも自分が正しいと思っているんですね。
「自分が正しい。相手が間違っている。だから、相手が自分の言っていることを受け入れればいい。そうすれば平和が実現する」とお互いに思っているんです。
それで、争いになるんです。
国と国でも、人と人でもそうですね。
お互いがお互いに自分が正しい、相手が間違っている。
その相手をやっつけてやろう。
そうすれば平和になる。
そう思っていると、争いが起こります。
自分が正しいと思っていればいるほど、争いは激しくなります。
最後にはどちらかが相手を打ちのめして決着がつくわけです。
ここで争いは終わります。
しかし、それは平和と言えるでしょうか。
平和を作り出したと言えるでしょうか。
自分が勝ったら勝ったで、最初から自分が正しいと思っているわけですから、なんでこんなことで争わなければならなかったんだろうと思いますね。
自分が負けたら負けたで、でもやっぱり自分が正しいと思っていますから、考えが変わるわけではありませんから、納得できないですよね。
決着がついたら争いは止むんです。
ですけれども、争いが止んだら平和かというとそういうわけではないですよね。
心の中は全然平和ではありません。
それでは、いつまた争いが起こるか分かりません。

それなら、最初から争わないというのはどうでしょうか。
しかし、そうなりますと、大変な我慢をすることになりますね。
何しろ、相手は自分が正しいと思っているんです。
どんどん要求してきますよ。
それに、自分だって自分が正しいと思っているんです。
相手が間違っていると思っているんです。
それを我慢するのは大変なことです。
全然平和じゃないですね。

では、私たちは一体どうすればいいのでしょうか。
争って、決着をつけるのはダメですね。
争いは止んでも、それだけでは平和とは言えないわけです。
争わずに我慢するというのもダメですね。
最初からどこにも平和がないわけです。

では、自分も相手もお互いに納得できるところで折り合いをつけるというのはどうでしょうか。
しかしこれも難しいですね。
争いがあるということは、お互いに自分が正しくて相手が間違っていると思っているということですから、どちらも納得できるところというのはないんですね。
例えば、自分と相手の真ん中あたりで折り合うということにしますと、それは、自分も相手もどちらも、我慢したくないところで我慢しなければならないということですね。
それは平和とは言わないんです。
そこで争いが止んだとしても、緊張は同じように続いているんですから。

一体どうすれば平和を作り出せるんでしょうか。
イエス様は言っています。
平和を実現する人々は神の子と呼ばれる。
神の子なんですね。
ただの人ではないんです。
ただの人では無理だとイエス様が言っているんです。
そうなるともう、あきらめそうになるし、あきらめてもいいんじゃないかとも思えてきます。
しかし、イエス様は私たちをあきらめさせるためにこんなことを言ったのではないはずですね。
何しろイエス様は「幸いである」と言っているじゃないですか。
イエス様は私たちが幸いであってほしいんですね。
あきらめて絶望してほしいのではないんです。
イエス様は私たちの幸いを願ってくださっているんです。

これは、ただの人には無理なことです。
でも、イエス様ならどうでしょうか。
イエス様こそ、神の子ですね。
そして、イエス様は平和を実現した方じゃないですか。
イエス様は、私たちと神様との間に平和を実現してくださったんです。
イエス様が来てくださる前、私たちはどうだったでしょうか。
神に逆らう者だったんですね。
聖書には、生まれながらの人は神に従うことができないと書かれています。
それが聖書で言う罪と言うことですが、そんなこと聖書に書かれていなくたって分かります。
人間は神に逆らうものです。
私たちは神の敵なんですね。
そこでイエス様は何をしてくださったか。
十字架にかかってくださったんです。
神の敵である私たちに代わって罰を受けてくださったんです。
十字架の周りにいた人たちは、イエス様に罪はないと知っていました。
それなのに、十字架につけろと叫んだんですね。
ある人は、自分の立場を守るために。
ある人は、勝手に期待していた期待を裏切られたと感じたために。
皆、同じことを叫んだんです。
自分は正しい。
イエスは間違っている。
その罪をイエス様は引き受けてくださったんです。
そして、十字架の上でも罪の赦しを祈ってくださったんですね。
私たちのために祈ってくださったんです。
自分は正しい。
相手が間違っている。
十字架につけろ。
これは全部、争いの中にある時の私たちの言葉です。
でもその罪を、神の子が引き受けてくださったんですね。
そして、それによって、神と人との間に平和が実現します。
神の子が代わりに罰を受けてくださったんですから、私たちにはもう、罰が下されることはない。
私たちはもともとは神の敵だった。
裁きを受けるはずなのは本当はイエス様ではなく私たちです。
けれども、神の子の十字架によって、人が罪をゆるされて神と共に生きていく道が開かれたんです。
これが神の子のやり方だったんですね。
神の子が平和を実現する仕方は、人の罪を引き受けるという仕方だったんです。

これは私たちの方法とは違いますね。
争って決着をつけるのではありません。
争わないで我慢するのでもありません。
話し合って折り合いをつけるのでもありません。
自分から人の罪を引き受けて、その中で赦しを祈って、そして、その後に復活した。
罪を引き受けて、それを赦し、最後には乗り越えたんです。
神の子はそのようにして、神様と私たちの間に平和を実現してくださっています。
そして、イエス様は、私たちのことを、家族であると、つまり、私たちも神の子なのだと呼んでくださる方ですね。
聖書にそういう言葉があります。
それだけでなく、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださる方ですね。
私たちは神の子とされているんです。
そして、すべてを乗り越えた神の子が共にいてくださっているんです。

マーティン・ルーサー・キングという牧師がいます。
黒人の牧師です。
1950年代、60年代のアメリカで、黒人の権利のために戦った人ですね。
ご存知の方も多いでしょう。
そのキング牧師は説教の中で、こう言っています。
「われわれは苦難を負わせるあなた方の力に対し、苦難に耐えるわれわれの力を対抗させよう。あなたがたのしたいことをわれわれにするがいい。そうすればわれわれはあなたがたを愛し続けるだろう。われわれはきわめて良き良心のゆえに、あなたがたの不正な法律に従うことはできない。なぜなら、悪と協力しないということは、善と協力するということと同じように道徳的義務だからである。われわれを刑務所に放り込むがいい。それでもわれわれはあなたがたを愛するだろう。われわれの家庭に爆弾を投げ、われわれの子供らを脅すがいい。それでもわれわれはあなたがたを愛するだろう。覆面をした暴徒どもを真夜中にわれわれの社会に送り込み、われわれを打って半殺しにするがよい、それでもわれわれはなおあなたがたを愛するだろう。しかし、我々は耐え忍ぶ力によってあなたがたを滅ぼすことをはっきり覚えておくがいい。いつの日かわれわれは自由を勝ち取るだろう。しかし、それはわれわれ自身のためだけではない。われわれはその過程であなたがたの心と良心に強く訴えて、あなたがたを勝ち取るだろう。そうすればわれわれの勝利は二重の勝利となろう」。
キング牧師は、最初から乗り越えるつもりなんですね。
最初から乗り越えるつもりだから、こういうふうに言うことができるんです。
キング牧師がこのことを語った時、そんなことはできないと思った人もいたでしょう。
白人はこれを聞いて笑ったでしょう。
しかし、キング牧師はこれをやり通しました。
神の子だったからです。
神の子だけが、そうしようとすることができます。
神の子だけが、自分の敵に対して、「わたしはあなたを打ち倒す」ではなく、「わたしはあなたを勝ち取る」と言うことができるんです。
あなたを友として勝ち取る、と言うことができるんです。
自分自身が、十字架によって、神の子として勝ち取られたことを知っているから、神の子だけが、そうするんです。
そうでなかったらこんなことは考えもしない。
自分の罪も相手の罪も乗り越えて、平和を目指すことができるのは、神の子にだけ与えられた特別の権利です。
もちろんそれは楽なことではありません。
キング牧師のことで言うと、今も、黒人に対する差別がなくなったとは言えません。
しかし、一人の神の子が立ち上がったことによって、どうなりましたか。
70年前と今とでは、同じではないんですね。
いえ、まったく違うでしょう。
70年前、誰が、いつの日か黒人が大統領になると考えましたか。
世界のすべてではないかもしれませんが、彼は確かに世界を勝ち取ったんです。
神の子にはそれくらいの力があるんです。
力が与えられているんです。
神の子イエス様が一緒にいるんですから。
キング牧師にはできて、私たちにできないことがありますか。
条件は同じです。
神の子なんです。
そして、私たちの身の回りに起こる困難は、70年前のアメリカの黒人たちに比べれば、物の数ではありません。
キング牧師はこういう言葉をのこしています。
「疑わずに最初の一段を登りなさい。階段のすべてが見えなくてもいい。とにかく最初の一歩を踏み出すのだ」。
いつも、始まりは最初の一歩です。
最初の一歩からしか、何も始まりません。
けれども、その一歩を踏み出す時、主が、乗り越えて勝ち取る力を与えてくださるのです。

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