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2023年03月26日「だから、わたしも働く」

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聖句のアイコン聖書の言葉

10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章10節~18節

原稿のアイコンメッセージ

今日の場面には、16節に、イエスに対する迫害が始まったことが記されている。
この福音書で初めて、迫害について記されているのが、今日の場面。
その理由は、安息日にイエスが人をいやしたから。
イエスが病気をいやした人がいて、その人に対して、イエスが、もうここから出て行って、好きなところに行っていいということで、今までその人はずっと床の上に横になっていたが、「床を担いで歩きなさい」とイエスは言った。
その人は言われた通りにした。
しかし、その人に対して、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」という人が現れた。

安息日というのは週に一日だけ、仕事をせずに休む日。
ただ、休むことが目的ではなくて、仕事をせずに、その代わり、神に心を向ける日。
ただ、聖書に記されている、安息日にしてはいけない仕事というのは、ほんのいくつかのことだけ。
収穫や脱穀をすること。
重い荷物を運ぶこと。
火を燃やすこと。
料理をすること。
物を売ること。
薪を拾い集めること。
これだけでも大変なような気がするが、収穫や脱穀、重い荷物を運ぶこと、薪を拾い集めることは一日くらい遅れても問題にならないし、火を燃やしてはいけないと言っても、日付が変わる前にろうそくに火をつけておいて、そのろうそくの火を次の日に使うというのは認められている。
料理も、前日に下ごしらえしておいたものに火を通して食べる。
その時にはろうそくの火をオーブンに移す。
物を売ることはダメでも、物を渡しておいて、お金を受け取るのを次の日にすることもできる。
思い出すこと。
私は13年前、神学生だった時、夏の間2か月間を東北で過ごした。
礼拝が終わった後、魚本マーレ―先生と一緒に車に乗っていて、飲み物を買いたいのでコンビニに寄ってもらって良いかとお願いした。
そうすると、自動販売機ならいいよ、と言われた。
コンビニは人が働いているけれども、自動販売機なら日曜に集金しないだろうから構わないということだった。
そういうことなので、禁止されていることはあるけれども、抜け道もあって、実はそんなに厳しくもない。
無理だというほどではない。
ただ、聖書にほんのいくつかの決まりしかないのなら、「これは仕事ではない」と言い訳をして、好きなようにする人は必ず出てくる。
人間は罪人。
そのため、ユダヤ教ではこれも仕事になる、あれも仕事になるということふうに、安息日にしてはいけないことが細かく定められていった。
今日の場合だと、床を運ぶのは重い荷物を運ぶ仕事になるので、してはいけない。
けれども、床と聞くと私たちはベッドを想像するが、実際にはこれは、イエスが「床を担いで歩きなさい」と言った通り、簡単にたたんで持ち運べるマットのようなもの。
けれども、聖書ではなく、人間が決めた決まりの方で、床を持ち歩くのは禁止されている。
カバンを持つのも禁止。
カバンの中にあまり物が入っていなくても、持ち歩いてはいけない。
重いか軽いかという話になると人によって違うので、取りあえず禁止、という感じ。
私に洗礼を授けてくださった牧師は、イスラエルに留学していた時、安息日にカバンを持って歩いていると、子どもに石を投げられた。
しかも、その横に母親がいたが、母親も子どもを止めない。
そこは厳しい。
安息日に雨が降っても、傘を持って歩くのは禁止。
そうなると外に出ない方が良いような気がしてくる。
そもそも、安息日には、片道900メートルくらいしか歩いてはいけない。
それ以上歩くと、仕事になる。
しかし、私たちの教会から900メートル以内のところに住んでいる人がどれくらいいるだろうか。
安息日にはお金についての話をするのも禁止。
お金についての話は何かのかたちで仕事につながっているから。
話をするだけでもダメ。
現代ではさらに細かい議論がされていて、電気製品を使うのもダメ。
これは、「火を燃やしてはいけない」ということと関係するのかもしれない。
でも、冷蔵庫のドアを開けるのは大丈夫。
冷蔵庫は安息日の前からずっと電気が通りつづけているから。
自動販売機も前の日からずっと電気が通りつづけているが、イスラエルでは自動販売機もダメ。
ボタンを押すという仕事をするから。
とにかく、安息日についてのルールは聖書には簡単にしか書かれていないけれども、言い訳をして好き勝手出来ないように、人間が細かいルールを作って行った。

しかし、そもそも、旧約聖書に書かれている色々なルール(10節の「律法」)は、それを守ったら救われる、守らなかったら救われないというものではない。
その昔、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々が、そこから救い出された後に与えられてきたのが律法。
律法は、それを守らないと救われないというものではない。
救われた人たちに、これから新しく生きていくに当たって与えられたのが律法。
律法は救われるための手段ではない。
救いにふさわしく生きるためのガイドライン。
救いの神に心を向けて、幸せに生きるためのガイドライン。
大事なのは信仰だということ。
それなのに、今日の場面では、救いの御業が現れているのに、それを喜ぶこともなく、律法に違反していることにしか心が向かわない。
律法を守ること自体が目的になってしまっている。
人間は神に背く者。
神から離れようとする者。
だから、細かいルールを決めなくてはならない。
それはそう。
しかし、そうすると、それ自体が目的になってしまって、今度はそこで本質から離れていってしまう。
人間はそういう現実の中にいる。
同じような現実は、私たちの周りにもたくさんあると思う。
人間は罪人。

私たちの場合は、エジプトで奴隷にされていたわけではなく、聖書的に言うと、罪の奴隷だった。
人間は皆そう。
罪とは神から離れることだが、私たちは、いつもいつも神に心を向けつづけていることはできない。
神の言葉が与えられていても、それに従っているつもりで神から離れてしまうのが人間。
その私たちを、イエスは救ってくださった。
十字架で私たちの代わりに罰を受けてくださり、復活して弟子たちを励ましてくださり、その後には聖霊を降してくださった。
神が私たちといつも共にいるようにしてくださった。
だから、新約聖書は形が大事なのではなく、信仰が大事だと強調する。
ただ、信仰が大事だから形はどうでもいいということにはならない。
目に見える形が、人の心を整えるということはある。
形が崩れると心もダメになるということもある。
前にいた教会で、礼拝に出席する際の服装について質問した人がいた。
礼拝に出席するのに、どのような服装がふさわしいか。
私がその質問に答えるより先に、一緒にいた人が、「信仰が大事なんだから、服装は関係ないんです。裸でもいいんです」と言った。
もちろん、その人は裸で教会に来たことはない。
その人自身も分かっている。
裸でもいいということはない。
いや、服を着ていればどんな服でも同じということでもない。
スーツを着ている時と、普段着を着ている時と、ジャージを着ている時と、パジャマを着ている時で気分が違うのが人間。
ただ、その「気分」は人によって違うので、律法的に、皆スーツを着てきましょうということにはならない。
信仰に照らして、それぞれが自分で判断すること。
大事なのは、心を神に向けるために必要な限りで形も整えること、と言えるだろうか。

しかし、それはそれで簡単なことではない。
今日の場面では、いやされた人は、床を担いで歩いていることを批判されて、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
これは、この人が、私は私をいやしてくださった方の言葉に従います、と言っているのではない。
この人はすぐ後の14節でイエスに出会って、それがイエスだと知ると、そのことをユダヤ人たちに告げ口した。
ということは、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」という言葉は、言い訳して、イエスのせいにしている。
この人にイエスに対する信仰が全くなかったわけでもないだろう。
イエスに対する信仰が全くないのなら、そもそも、「床を担いで歩きなさい」と言われても、そんなことはしないだろう。
けれども、イエスはそうするように言った。
この人に現れたのは神の業なので、この人が心を神に向けることが第一だから、床を担いで歩いたとしても、神に心を向けているなら、手に何を持っているのかは問題ではない。
この人自身にどこまでの考えがあったのかは分からないが、イエスの言葉を聞いて、これで良いと思うからそうした。
また、この人がイエスにもう一度出会ったのは神殿の境内。
自分から神殿に行った。
神に感謝する気持ちがある。
けれども、批判されると言い訳して、自分を救ってくれた人でも、売り渡してしまう。
神よりも自分を大事にしてしまう。
アダムとエバ以来の罪。
イエスは先回りして、この人に、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言っていたが、この人はその後、イエスのことをユダヤ人に告げ口した。
この人はこれからどうなっていっただろうか。

しかし、私たちも、このイエスの言葉を良く聞かなければならない。
このイエスの言葉は、病気は罪の結果起こるということを言っているのではない。
この時代には病気は罪の結果だという考えがあったが、イエスは必ずしもそう考えていない。
この福音書の9章で、生まれつき目が見えない人がいて、弟子たちが、この人が目が見えないのはこの人の罪のためですか、両親の罪のためですか、と聞いた時、イエスは、罪のためではなく、神の業がこの人に現れるためである、と答えた。
ただ、今日のイエスの言葉では、確かに、良くなったということと罪が結びついている。
ではこの人にどんな罪があったか。
この人はベトザタの池にいた。
その池には、水が動く時に一番にそこに入ると体が治るという言い伝えがあった。
迷信。
迷信を信じて、神から離れている。
その人をいやして、イエスは言った。
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」。
あなたは神の元に取り戻されたのだから、もう、神から離れるようなことをしてはいけない。
「さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。
38年も病気で体が不自由だったことよりも悪いことになるかもしれない。
神との関係を永遠に失ってしまうかもしれない。
私たちはどうだろうか。
私たちにも、それぞれのベトザタの池があるかもしれない。
神を信じるよりも、これについては、これが一番確かだと信じるようなこと。
考えてみると、この世は、そのようなものであふれている。
この世には数えきれないくらいのベトザタの池がある。
私たちはその中で、神に留まり続けることができるだろうか。

ここで、イエスの最後の言葉に目を留めたい。
これは、イエスが批判に対して答えた言葉。
安息日に治療をしたことを、仕事をしている、律法違反だと言われたのに対する言葉。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」。
安息日は1週間に1日、仕事を休んで神に心を向ける日。
神が天地を創造なさった時、6日間かけてすべてのものを造られた。
そして、7日目に休息なさった。
それが安息日の根拠。
安息日は神の天地創造の御業に心を向ける日。
ただ、神が7日目に休息なさったと言っても、安息日だから休業しているということではない。
もし、安息日が神が休業しておられる日なら、その日に私たちが礼拝しても意味がないということになる。
そうではない。
神がすべてのものをお造りになられた時、造られた人間や生き物を祝福されたということがある。
また、神は造ったら後はほったらかしではなく、お造りになられたものを保っていてくださる方。
神は安息日でも、造られたものを保っておられるし、祝福してくださっている。
安息日にはそれが途切れるということはない。
それが、「わたしの父は今もなお働いておられる」ということ。
7日目に休息なさったと言うのは、創造の御業を一段落なさったということ。
私たちは今も、神の働きの内に在り、祝福されている。
それが途切れることはないとイエスは言っている。

ただ、この言葉のために、イエスは命を狙われるようになっていく。
しかし、それでイエスがわが身可愛さに言い訳をしたかというと、そんなことはない。
イエスはご自分自身のために生きているのではない。
人を救うことが目的。
だから、今日も、イエスは、ご自分が癒した人に、もう一度出会ってくださった。
いやした時には群衆がいた。
それではじっくり話もできないから、一対一で話ができるように、別の場所で出会ってくださった。
人が救われることが何よりも大事だから、その人を見つけ出して、もう一度出会ってくださり、励ましてくださる。
これは私たちに対する御心でもある。
何とかして救いたい。
そして、私たちは信じて良い。
イエスは今も働いてくださっている。
そして、私たちは今も、神の御手の内に在り、祝福されている。
少なくとも、今、現に、私たちはこの教会にいて、そのような神の取り扱いを受けている。
そのことに心を向けたい。
それが神に心を向けるということ。
神の働き、イエスの働きの中に私たちが置かれていることに感謝して、喜んでいたい。

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