今日の場面では不思議なことが起こっていますね。
最後の12節ですが、ヘロデとピラトは仲が良くなったんですね。
それまでは互いに敵対していた人たちが、仲が良くなったんです。
ヘロデもピラトもイエス様のことを神の子だとは思っていなくて、イエス様のことをきちんと扱わないんですが、でもそのイエス様を扱う中で交わりが生まれて、仲良くなったんですね。
まあ、本人たちにとっては良いことだったでしょうね。
こういうことは私たちも時々経験することではないかと思います。
何かを相手にする時に、同じ立場に立つことで、もともとは仲が悪かった人と仲良くなってしまう。
今日のこの、ヘロデとピラトの場合は、一緒になってイエス様を邪魔者扱いしたんですね。
一緒にイエス様を敵にして、仲が良くなったんですね。
これは、イエス様からしたらどうお考えになりますかね。
もともと仲が良くないのに、愛するという話を、イエス様もしたことがありました。
善きサマリア人のたとえという、イエス様のなさったたとえ話がありますけれども、サマリア人というのはユダヤ人の敵なんです。
ユダヤ人とサマリア人は信仰が違っていて、お互いに、自分が正しい、あいつらは間違っているって言い争いをしていたんです。
けれどもイエス様は、サマリア人がユダヤ人に、できる限りのことをしてあげて、助けてあげたというたとえ話をしたんですね。
ユダヤ人が死にそうになっていて、それをサマリア人が助けたんです。
そんなことしてあげないといけない何も理由なんてないのに、命を助けたという話なんですね。
イエス様が教えたのはそういうことです。
考えてみますと、立場が同じだから愛するっていうことは、逆に言ったら、立場が違ったら愛さないんですよね。
それだと、愛するとは言っても、自分を愛しているのと同じことですね。
そうじゃないんだと。
立場は違っても、助けるべき時には助ける。
愛する時に、この立場の人だったら愛するっていうような線引きをしない。
むしろ、出会う人出会う人を愛していく。
それがイエス様なんです。
でも、ヘロデとピラトはどうですか。
一緒の敵ができたから、仲が良くなった。
なんか悲しいですね。
それまではこの二人は敵対していたと書かれていますけれども、敵対していた理由も悲しい理由です。
ピラトはローマ帝国からイスラエルに派遣されてきた人です。
当時はローマ帝国がイスラエルを支配していましたから、ローマ帝国の役人が送られてきていたんです。
つまりピラトは地元の人ではありません。
ですから、地元の人の気持ちを理解しませんでして、イスラエルの首都エルサレムにありました神殿に、ローマ帝国の盾を飾ろうとしたんですね。
それに対してヘロデは地元の人ですから、それを大変嫌がりまして、こんなことはやめさせてくれとローマ帝国に訴えてやめさせたんですね。
それで仲が悪くなったと当時の歴史の本に書いてあります。
ピラトはもっと地元の人の気持ちを理解しても良かったんじゃないかと思いますし、ヘロデはローマ帝国に訴えるとかじゃなくて、もっと他の方法がなかったかなあと思いますね。
しかし、それでも、共通の敵がいるというのは大きいことですね。
イエス様を邪魔者扱いして、仲良くなった。
ピラトがイエス様を尋問した時、イエス様に何の罪も見いだせなかったんですが、途中の5節からのところでピラトはイエス様がガリラヤという地方の出身であることを知ったんですね。
そうすると、ガリラヤはヘロデの土地です。
今、ヘロデは、エルサレムに出てきているわけなんですが、もともとの領地はガリラヤです。
そこでピラトはヘロデに任せることにするんですね。
これは要するに、ピラトはヘロデを立てているんですね。
あなたこそ責任者です、私が勝手に裁いたりはしません、あなたにお任せします、ということなんですね。
ヘロデもイエス様を尋問しましたが、イエス様は何もお答えになりません。
そうしますとヘロデは11節でイエス様をピラトに送り返します。
これは、ヘロデもピラトを立てているということです。
いやいやもうあなたにお願いします、ご自由になさってください、ということなんですね。
お互いがお互いを立てたんですね。
それで仲良くなってしまった。
でもこれはどうなんですかね。
ピラトにとってもヘロデにとっても、大事なのはイエス様が神の子であり、メシア、つまり救い主であるかどうかを判断することじゃないんですか。
それなのに、まともに取り扱おうとしない。
ピラトなんてひどいですよ。
3節で、イエス様に対して、「お前がユダヤ人の王なのか」と聞いておいて、イエス様が「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。
このイエス様の言葉は、「その通りです」という意味にもなる表現なんです。
だったら大変なことですよ。
メシアだ、救い主だと言ったということになります。
それなのにピラトは、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言うだけ。
要するに、ピラトには、イエス様がまともな人だとは思えなかったんでしょうね。
変な人が変なことを言っているとしか思わなかったんでしょう。
メシアかどうか、救い主かどうかってことを最初から考えていないから、こんな簡単なやり取りだけしかしない。
イエス様にまともに向き合おうとしない。
ヘロデもそうですよね。
この人はイエス様に会いたかったと書かれていますが、要するにしるしを見たかったということですよね。
しるしというのは奇跡のことです。
奇跡が見たいだけ。
要するに見世物を楽しみにしていたんです。
それも、イエス様にきちんと向き合っていることにならないですよね。
だから結局はイエス様をバカにして送り返してしまう。
ピラトにとってもヘロデにとっても、何が真実なのかなんていうことはどうでも良かったんです。
この人たちは最初から、イエス様にきちんと向き合うような人たちではないんですね。
最初からこの二人はよく似ていたんです。
だから一緒になってイエス様を邪魔者にして、それで仲良くなってしまう。
二人とも、真実に向き合おうとする人ではなかったから。
そして、仲良くなったのはヘロデとピラトだけではないんですね。
1節で、イエス様をまずピラトのところに連れて行ったのは全会衆だと、そこにいた全員だと言われていますけれども、これはどういう人だったかと言えば、この直前の箇所に書かれていますけれども、要するにイスラエルの国会議員たちですね。
でも今日の箇所では、違う書き方がされていて、10節に、祭司長たちと律法学者たちだと書かれていますよね。
これなんです。
祭司長たちと律法学者たちはみんなで一緒になってイエス様を訴えるんですけれども、この、祭司長たちと律法学者たちはもともとは仲が悪かったんです。
祭司長たちと律法学者たちはどちらもユダヤ人でユダヤ教徒です。
けれども、読んでいる聖書が違ったんですね。
ユダヤ教の聖書は旧約聖書だけですけれども、祭司長たちは、旧約聖書の最初の5つの書物しか読まないんです。
旧約聖書には全部で36巻の書物が収められているんですが、全部は読まない。
最初の5つだけ。
それに対して、律法学者は全部読みます。
そして、聖書を全部読むだけでなく、先祖たちが代々書き残した言い伝えも聖書と同じくらい大事にするんですね。
ですからもう本当にいっぱい読むんですね。
律法学者というのは書物の研究者なんです。
それに対して祭司長たちというのは、神殿で儀式をやったりなんかするのが主な仕事なんですね。
そうなるともうだいぶん違ってきますよね。
信仰だって当然違います。
だから仲が悪かったんです。
けれども、この時は仲直りしているんですね。
一緒になってイエス様を訴えているんです。
でも、この人たちの言っていることは事実ですかね。
2節でこんなことを言っていますよね。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」。
全部嘘ですね。
むしろイエス様は人々に対して、自分がメシアだと言わないようにと言ったんですし、お金っていうのは皇帝が作ったものなんだから、それは皇帝に返しなさい、つまり、皇帝に税を納めなさいと言ったんです。
この人たちも、真実に向き合おうとしないんです。
それどころか、嘘をついてでもイエス様を訴えるんですね。
それも、この人たちの言い方はどうですかね。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」。
これだと何かまるで、私たちはローマ帝国に従っています、みたいな感じじゃないですか。
でも、それも嘘なんです。
祭司長たちや律法学者たちはローマ帝国に支配されている側ですよね。
当然、本当のところはローマ帝国のことを良く思ってはいません。
それなのにこんな言い方をするんですね。
こんな言い方をして、私はローマ帝国と仲良しです、みたいな態度をとるんです。
もう、何が真実かなんてこの人たちにはどうでもいいんです。
けれども、この人たちは真実に従おうとはしませんけれども、従っているものがありますね。
人間同士の力関係です。
ピラトとヘロデはお互いを立てました。
祭司長たちと律法学者たちもそうですね。
ピラトに訴える時には、自分たちが心からローマ帝国に従っているようなふりをします。
そして、2節では、イエス様のことを「王たるメシア」だと言っていますよね。
「王たるメシア」なんていう言い方は普通にはしないんですが、「王」という言葉をここで使うんです。
要するに、ピラトはローマ帝国から派遣されてきた支配者ですから、どこの誰かもわからない人に「王」だと言われたら無視できないんですね。
そういうふうに言って、ピラトがイエス様に対する死刑判決を出すように仕向けるんです。
ではどうしてこの人たちは自分の手でイエス様を殺そうとしないんですか。
民衆を恐れているんですね。
イエス様は民衆に人気がありましたから、自分たちの手でイエス様を殺してしまうと自分たちの人気が下がります。
それが恐ろしくて、ピラトにイエス様を殺させようとするんですね。
自分ではやらない。
全部人間同士の力関係なんです。
今日の場面は、人間同士の力関係だけを考えている人たちばっかりなんです。
そして、人間同士の力関係だけを考えると、もうそこに真実はなくなってしまうんですね。
私たちも気を付けたいところです。
ピラトもヘロデも、イエス様に罪を見出すことはできませんでした。
ただ、それでもイエス様は解放されることはありません。
人間同士の力関係を重んじると、真実は消えてなくなってしまうんですね。
今日聖書はそのことを私たちに伝えているんです。
けれども、イエス様はその中で、神の側に立ちつづけます。
たった一人、真っすぐに立ちつづけます。
逃げようと思えば逃げられたはずでした。
けれども、黙って立ちつづけます。
神の側に立ちつづけます。
イエス様は今、真実をないがしろにする人の罪を引き受けておられるんです。
そして、十字架に人の罪を持っていくんですね。
十字架で人の罪を裁くんです。
人が裁かれないようにするためにです。
人ではなく、罪を裁くんです。
人がゆるされるためにです。
これが救い主の仕事なんですね。
どんな人でも愛する、敵でも愛する、それが救い主です。
しかし、人の世の現実はどうでしょうか。
立場が同じ人は仲良くなります。
そして、立場の違う人を嫌います。
人間同士の力関係で物事が決まります。
真実は置き去りにされます。
イエス様は逮捕される直前に、自分を逮捕しに来た人たちにこう言いました。
「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。
イエス様はこの世は闇だと言うんですね。
それはイエス様が逮捕された時だけではないですね。
今もです。
今も世は闇です。
私たちはこの世の闇の中で苦しめられることがあります。
そして、私たち自身の中にも闇があります。
私たちは時としてそこから逃げ出したくなります。
しかし、イエス様は逃げないんですね。
闇を引き受けてくださっているんです。
ですから私たちはこの場面に光を見ます。
闇がうごめいている場面です。
でもその中で、イエス様だけがまっすぐに立っている。
少しもゆるがされないでいる。
沈黙の中で、愛とまことを貫いている。
その愛は、私たちにも及んでいます。
キリストの愛とまことは今ここ、私たちにあります。
私たちも沈黙して、神に向かいましょう。
イエス様がなさったように。
その時、イエス様の栄光の御光は、私たちを照らし、私たちもゆるがされないものとされます。
沈黙して神に向かう時、私たちに真実があるのです。