聖霊が降る
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 使徒言行録 2章1節~4節
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章1節~4節
今日はペンテコステです。
ペンテコステという言葉は、50番目という意味のギリシャ語なんですが、何から50番目かと言いますと、過越祭というお祭りがありまして、その日から50日目なんですね。
どうしてその50日目をお祝いするのかと言いますと、まず、過越祭というのが一番大事なお祭りですね。
エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々が、モーセに率いられて、奴隷であったところから解放されて、約束の土地に向かって旅を始めた。
その時のことを記念するのが過越祭ですが、旅を初めて50日後に、モーセが山の上で十戒が書かれた石の板を神様からいただいたんですね。
それで、その時のことを記念して、ペンテコステを祝うんですね。
ところで、過越祭の時に、イエスは十字架に付けられました。
そして、今回、ペンテコステの時に、聖霊が降ります。
これは実は、わざわざそのタイミングで出来事を起こしておられるんですね。
エジプトから脱出した時のことを「過越祭」という名前のお祭りでお祝いするわけですが、どうして奴隷解放の祭りではなく、過越祭と言うのか。
神の怒りが過ぎ越したからですね。
神の怒りが、エジプト人の家には入って行って、その家で最初に生まれた子どもを打った。
けれども、イスラエル人の家には神の怒りが入っていかなかった。
神はイスラエル人の家の門柱と鴨居に小羊の血を塗るように命じておられました。
そのようにした家には、神の怒りは入っていかなかったんですね。
キリストの十字架はその出来事になぞらえられる出来事です。
神の小羊キリストの十字架の血によって、十字架を仰ぐ者から、神の怒りが過ぎ越すんですね。
ペンテコステも同じです。
モーセが十戒の石の板を神からいただいた。
これからは、ここに記された神の言葉を生きていきなさいということですね。
でも、人間は、神の言葉に従うことができないんです。
それが繰り返し繰り返し書かれているのが旧約聖書です。
その人間に、聖霊が与えられた。
これからは、神と共に生きていきなさい。
神があなたを守り、助け、導く。
これだったらもう大丈夫だ。
これがペンテコステなんですね。
人間は神の言葉に従う力はありません。
しかし、聖霊は力です。
この使徒言行録の1章8節を見ますと、聖霊を与えられると「力を受ける」ということが言われています。
神の力が与えられるんです。
そして、その1章8節につかわれている「力」という単語は、聖書の原文のギリシャ語では、「デュナミス」という言葉がつかわれています。
この、「デュナミス」という言葉が「ダイナマイト」という言葉になっていくんですね。
ダイナマイトは発明したノーベルは、これはもう人知を超えた力だ、ということで、自分の発明品にダイナマイトと名付けたんです。
そして、聖霊が与えられるということは、この時何も前触れなく起こったことではありませんでして、イエス様が前もって約束してくださっていたことでした。
1章4、5節を見ていただくと、イエス様が予告しておられるのが分かりますね。
「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。
これは、今日の2章の最初のところで起こったことを言っているんですね。
聖霊による洗礼を授けられる。
それが今日の場面の出来事なんです。
この「洗礼」という言葉ですが、原文では「どっぷりつかる」というような意味の普通の言葉です。
ヨハネという人は水で洗礼を授けたんですね。
川なんかに行って、水にどっぷりつかって、そこから上がってくる。
それが洗礼でした。
水にどっぷりつかるというのはどういうことかと言いますと、聖書では水というのは死のイメージなんですね。
ノアの箱舟の大洪水のイメージです。
死のイメージ。
洗礼というのは一度死ぬことなんです。
ただ、水の中にいったん漬けられても、そこから上がってきますね。
それまでの自分が死んで、新しく生き始めるんです。
罪に死んで、神に生きる。
それが洗礼なんですね。
それを、水でではなくて、聖霊で授けると言われています。
聖霊というのは神の霊ですね。
神そのものと言っても良いわけです。
ですから、これで洗礼を受けるとなると、「力を受ける」ということになるんですね。
神の力です。
ダイナマイトの力です。
具体的にこの弟子たちの場合、どうなるのかと言いますと、1章8節後半です。
世界中にキリストのことを伝えていくことになるんですね。
なんだそれだけのことか、とお思いになるかもしれませんが、これは弟子たちにとっては大変なことです。
何しろ、この弟子たち、イエス様の弟子だとは言っても、どんな人たちでしたかね。
立派な弟子たちだったでしょうか。
そうではありませんね。
イエス様が逮捕された時には弟子たちはみんな、自分も逮捕されるんじゃないかと思って逃げ出してしまうんですね。
この弟子たちというのは、自分の先生を見捨てた弟子たちなんです。
弟子の一人のペトロだけは後からイエス様の裁判が行われている場所にこそこそ入っていくんですが、その場所で、あなたはイエスの弟子ではないかと言われて、いや違う、あんな奴のことは知らないと三度も否定してしまうんですね。
もうまるっきり、自分が弟子であることを自分から否定してしまったんです。
その弟子たちが、世界中にキリストのことを伝えていくというのですから、これは本当に大変なことです。
この弟子たちにとって一番できそうにないことをやっていくことになるわけです。
弟子たちの力ではどうしたってできっこない、でもその働きを、神の力がなさせてくださるんです。
それが聖霊の力なんですね。
人間の力ではどうしたってできないことをなしとげさせる力。
それが聖霊の力です。
ですので、今日の場面で、聖霊がくだると、弟子たちは何をしますか。
2章14節から、ペトロは説教をし始めるんですね。
イエス様の弟子であることを自分から否定した人が、堂々と人々の前で説教をし始めるんです。
その説教が36節までずっと続いていきますね。
そして、その説教を聞いていた人たち3,000人が洗礼を受けるということになっていくんです。
これがダイナマイトの力ですね。
人知を超えた力です。
もうここで、ペトロはまるっきり変えられているんですね。
聖霊が与えられるということはそれくらい決定的なことです。
それは、聖書の全体からもそう言うことができます。
聖書の中で、これまでにも一時的に聖霊がくだるということはありました。
けれども、そういうことがあったとしても、それはその時だけなんですね。
今回の場合はずっとなんです。
今回は、聖霊が与えられるんです。
弟子たちはこれからずっと、聖霊と共に生きていくんですね。
ペンテコステはそういう、歴史を区切るような出来事です。
では、そのような決定的な出来事が起こった時、どのようなことが起きてきたか。
今日の場面を見てみたいんですが、まず2章1節ですね。
激しい風の音が聞こえてきたわけです。
ギリシャ語では、この「風」という言葉と「霊」という言葉は同じ言葉です。
それも、その音は天から聞こえてきたんですね。
最初に聖霊が与えられるにあたっては、このようなしるしがあったんですね。
今から聖霊がくだるぞ、という感じですね。
弟子たちも、そうだこれは神様が今から聖霊を与えてくださるというしるしなんだと分かったので、そのことをここに書き記したんですね。
そして次に、「炎のような舌」が現れます。
炎なんです。
燃えているんです。
激しい熱を発しているんですね。
聖書では、神様が来られる時、火のイメージがつかわれることがしばしばありますが、炎のようにくだってきたんですね。
ここで、炎のような「舌」であると言われているのが不思議な感じがしますが、原文を見ますとその意味が分かります。
炎のような舌がくだると、弟子たちは「他の国々の言葉で話し出した」ということですけれども、この「舌」という言葉は、「ほかの国々の言葉」という時の「言葉」という単語と同じなんですね。
これから弟子たちはイエス・キリストのことを世界中に伝えていくわけですが、だからこそ、いろいろな国の言葉で話し出す、ということが起こってきたんでしょうね。
そして、これも聖書的に見ますなら、とても大きな出来事なんです。
世界中では、いろいろな言葉が話されていますが、どうして世界中の人たちはいろいろな言葉で話すのかと言いますと、聖書では、バベルの塔の物語がありまして、要は、人間がいろいろな言葉で話すのは神が罰としてそのようにしたんだ、ということなんですね。
バベルの塔の物語において、人間は、「天まで届く高い塔を建てて、有名になろう」と言い出しまして、そのような塔を作ろうとしました。
これは言ってみれば神に対する挑戦ですね。
神はそれに対して罰を下します。
しかしその罰というのは、塔を崩すということではありませんでした。
塔を作っていた人たちの命を奪うということでもありませんでした。
言葉をばらばらにするということを神はなさったんですね。
言葉がばらばらになれば、多くの人が意思を通わせ合って大きなことをするということができなくなりますから、もうこんな大それたことをしないようにということで、人々の言葉がばらばらにされてしまったんです。
これは考えられる限り、一番緩やかな罰であると言えるかもしれませんが、とにかく、言葉が通じない、人と人が心を通わせられないというのは聖書的には神からの罰なんですね。
人が神に対して挑戦しようとした。
神と人との関係が悪いものとなった。
その結果、人間同士も分かり合えないようになった。
聖書はそう言うんですね。
けれども、それが、今日のところではいろいろな言葉が通じているわけです。
聖霊が与えられると、罰がなくなったということですね。
神の霊、神そのものが与えられて、神と人との関係が正常化すると、人間同士も心を通わせ合うことができるようにされるんですね。
神と人との関係が良くなると、人間同士も通じ合うようになる。
これが聖書のメッセージです。
今日の出来事は、聖書的に言って、そういう大きな意味があることなんです。
だから、弟子たちも知らないはずの外国語で話したのはこの時だけです。
この後、弟子たちは世界中に伝道しに行きましたけれども、その時にはもう知らないはずの外国語で話したりはしないんですね。
この時だけです。
この時だけ、最初だけは、これはこういう意味なんだよと示すために、こういう出来事が起こってきたわけです。
そして、その同じことが、洗礼を受けた私たちにも起こっているはずなんですね。
洗礼を受けて聖霊を与えられた私たちは、神の力にあふれているんです。
考えもしないようなこともできるほどの力が与えられているんですね。
私たちにもです。
もし私たちが、そのように感じられないとしたら、そこには一つ考えるべきことがあると思います。
今日の場面で、弟子たちは、「聖霊に満たされた」と書かれていますよね。
満たされたということは、もともとは空っぽだったということです。
ですから、もし、いらないものが私たちの中にいろいろ詰まっていたら、満たされるということにならないことになります。
いらないものを手放していきたいですね。
私たちには皆、罪があります。
神に背く思いがあります。
自分を第一に考えてしまう面があります。
ですから、自分を貧しくして、空っぽになって、聖霊の働きを求めたいんですね。
よく見てみますと、この時、弟子たちは祈っていたんですよね。
弟子たちと同じように、空っぽになって、祈ってみてほしいんです。
私たちにも、ペトロに起こったようなことが起こります。
ダイナマイトの力はペトロだけではありません。
クリスチャンはずっとずっとそうやって神の偉大な力を生きてきたんです。
2章8節で「地の果てに至るまで」弟子たちはイエス様のことを伝えていくと言われていますけれども、この時代に「地の果て」と言ったら今で言うスペインのことです。
日本は入っていないんです。
ですけれども、今、こんな地球の裏側にも教会が建っているんですね。
聖霊を与えられた人たちが、ペトロの後をついで、そのまた後をついで、ダイナマイトの力でずっとやってきたんですね。
その結果がこの教会なんです。
聖霊の働きは、確かに、ここにも及んでいるんですね。
ですから、「あなたがたは力を受ける」というこの言葉は、私たちに対しても言われている言葉です。
その力に立ち上がらされて、生きていきましょう。
考えもしなかったような素晴らしい出来事がこれから起こります。
ある人がこのように書いています。
「聖霊は、信じる者の心に、ご自分の福音書を書き記します。
信じる者のすべての行い、すべての瞬間が、聖霊の福音書を作り上げるのです。
信じる者の清らかな魂は、その福音書の紙であり、信じる者の苦しみと行いはそのインクです。
聖霊はご自身の働きをペンとして、命の通う福音書を書き記されるのです」。
私たちも、そうありたいと願います。
私たち自身が、聖霊と共に、新しい神の御業の記者となること。
それが使徒たちのしたことであり、私たちがしていくことです。