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2023年03月19日「わたしはいつも共にいる」

わたしはいつも共にいる

日付
説教
熊田真介長老による代読
聖書
マタイによる福音書 28章16節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエス様が指示しておかれた山に登った。17そして、イエス様に会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエス様は、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章16節~20節

原稿のアイコンメッセージ

おはようございます。
今週は牧師が休暇のために不在ですので、牧師が書いた説教原稿を長老として代読させていただきます。
珍しい試みのように思われるかもしれませんが、1世紀の教会では、書き写されたパウロの手紙を朗読することをもって説教としていたことがありました。
また、私たちの教会の教会規定でも、長老は御言葉を語る務めでもあるとされておりますし、他の改革派教会でもなされることのある方法ですので、小会で決議して、このようにさせていただきました。

さて、今日の場面ですが、いつも礼拝の最後に読まれる御言葉ですね。
今日はここを味わいたいと思います。
まず、弟子たちはガリラヤに行きました。
ガリラヤは弟子たちがもともと住んでいた地方です。
その場所に戻って、山に登りました。
山に登って、イエス様が弟子たちに話をする、と聞きますと、イエス様が一番最初に長い説教をしたのも山の上だったことを思い出します。
ここからリスタート、ということでしょうか。

この弟子たちは、イエス様が逮捕された時に逃げ出していた弟子たちです。
その弟子たちにイエス様が出会ってくださるのです。
イエス様は弟子たちを怒ったりしません。
弟子たちも、イエス様に謝っていません。
謝らないで何をしたかと言うと、「ひれ伏した」。
この言葉は、礼拝する、という意味になる言葉です。
弟子たちがイエス様を礼拝するのは、これが初めてです。
逃げ出していた弟子たちが、イエス様を礼拝していいのでしょうか。
良いのです。
イエス様が弟子たちをここに呼んだのです。
そして、弟子たちはそれに応えてこの場所に来たのです。
だから、これで良いのです。

私たちも同じです。
私たちにも罪があります。
神様の御心を悲しませてしまうことがあります。
しかし、イエス様はその私たちを呼んでくださるのです。
だから、私たちはこのようにして今、礼拝しているのです。
私たちと弟子たちの間に違いはありません。
私たちも、イエス様より自分を大事にすることがあります。
それは、弟子たちが逃げ出したのと同じです。
それでも、礼拝に呼ばれているのです。
それでも、礼拝に呼んでくださるのです。

ただ、弟子たちとしては、逃げ出してしまったことがあるから、イエス様に会うとどうしていいか分からないということがあったらしいですね。
このすぐ前の場面でも、女性たちがイエス様にひれ伏した、礼拝した、ということがありました。
その時、女性たちは、イエス様の足を抱いて、礼拝しました。
しかし、今日、弟子たちは、イエス様から少し離れてイエス様を礼拝したらしいのです。
18節に、イエス様が弟子たちに近寄ったと書かれています。
近寄ったということは、離れていたということになります。
弟子たちは、自分からイエス様に近づくことができなかったのです。
だから、イエス様に気づいた時、その場でひれ伏したのです。
しかし、その弟子たちに、イエス様の方から近づいてきてくださるのです。

ただ、弟子たちの中には、疑う者もいました。
しかし、こういうことが書かれているのはとても大事なことです。
イエス様は、疑う者を帰らせる、ということはないということなのです。
疑う者も、弟子なのです。
そして、この十一人の弟子たちは皆、この後、殉教を恐れずに伝道していったのです。
疑ってもいいのです。
イエス様は私たちを、信じられるようにしてくださるということなのです。
それがイエス様との出会いであり、礼拝です。

弟子たちの側に立ったイエス様は、弟子たちに話しかけます。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。
すべての権能という大変なことが言われていますが、復活というのはそういうことですね。
この世にはいろんな権能があります。
どの人も、いろんな権能の元に置かれていると言えます。
会社の中でも、学校の中でも、社会全体でも、世界全体でも、いろんな権能が働いています。
世界を見ると、この人は自分一人でこんなことを決めて、国を動かすこともできるのかと驚くような権能もあるわけです。
しかし、そんな人も、死から逃れることはできません。
死には、この世で最高の権能があると言えます。
しかし、イエス様は死に勝利しました。
つまり、復活の命というのは、最高の権能を授かったということになるのです。

だから、その次のところで、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われています。
イエス様には最高の権能があります。
この世の人たちにも、大きな権能を持っている人はいますが、最高の権能がイエス様にあります。
だから、すべての人は当然、イエス様の元に置かれるのが正しいのです。
そして、イエス様は、すべての民を足の下に置いてやる、と言ったのではありません。
すべての民を弟子にしなさいと言ったのです。
イエス様は、自分の権能をふりかざして、自分の奴隷を作りたいのではありません。
信者を作りたいと言ったのでもありません。
弟子を作りたいのです。

続けて、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われています。
原文では、「洗礼を授ける」という言葉も、「教える」という言葉も、弟子たちに対して「あなたがたは行って」というときの「行く」という言葉も、全部、弟子にしなさいという言葉につながっています。
弟子たちが出かけていくのも、洗礼を授けるのも教えるのも、弟子を作るためなのです。

弟子というのはどういう人でしょうか。
洗礼を受けて、イエス様の言葉を守る人ですね。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように」と言われていますが、イエス様は普通、弟子たちに命令することはありませんでした。
イエス様が命令したとはっきり言えるのは、「互いに愛し合いなさい」ということくらいです。
その他のイエス様の言葉は、基本的に命令ではありません。
ただ、イエス様はいつも、この世の聖書の先生たちとは違う言葉を語りました。
この世の聖書の先生たちは、聖書の言葉を理解して、説明するわけです。
それに対してイエス様は、神の子として、神の御心を伝えました。
イエス様の言葉には権威があります。
それは、無理やり人に何かをさせるようなことではなく、イエス様の言葉には真実があるのです。
だから、その言葉を守るのが正しいということになります。
その言葉を守ることが、自分を守ることにもなるのです。

しかし、この弟子たちが人にそんなことを教えることができるでしょうか。
この弟子たちは、イエス様の言葉を守れなかったどころか、逃げ出した弟子たちです。
この弟子たちが、人に教えていいのでしょうか。
良いのです。
今日の最後の言葉があります。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
イエス様が共にいてくださるのです。
最高の権能を持っておられる方が、共にいてくださるのです。
そうなるともう、その人がどんな人なのかは問題ではありません。

イエス様はこの後、天に昇って行かれます。
しかし、入れ替わりに、この後、弟子たちに聖霊が降ってきます。
それが描かれているのが使徒言行録です。
私たちも、洗礼を受けた時に聖霊をいただきました。
洗礼を受けるとはそういうことですね。
今はイエス様は、聖霊という形で、私たちと共にいてくださっています。
そして、「父と子と聖霊の名によって」と言われていますが、父と子と聖霊はお一人の神様です。
だから、「父と子と聖霊の名によって」の「名」という言葉は、原文では単数形、それが一つであることを現す言い方になっています。
そして、世の終わりには、イエス様は天から私たちのところにいらしてくださいます。
今、私たちの内に聖霊がおられて、世の終わりにはイエス様が再び来てくださるのです。
つまり、イエス様の弟子は、イエス様と離れることがないのです。
どんな時も、すべての権能を持つ方が私たちと一緒にいてくださるのです。
イエスさまと離れることがないのが私たちです。

そして、この話の順番に気を付けたいですね。
わたしはいつも共にいる、と言ってから、だから、伝道に行きなさいと言われたのではありません。
行きなさいと言われて、最後に、わたしはいつも共にいる、と言われたのです。
イエス様が共にいてくださることを私たちが本当に感じることができるのは、私たちが出ていったところで、なのです。
私たちが、その人その人のところに遣わされて、その人を弟子にするために働く中で、私たちは、イエス様が共にいてくださることを知ることになるのです。
イエス様の権能がそこに現れるということなのです。
天と地の一切の権能が、そこに現れます。
だからこそ、教会は世界中に広がったのです。
自分の先生を見捨てて逃げ出した弟子たちが始めたことが、世界中に広がった。
これこそ奇跡、神の力の現れです。
そしてそれが、イエス様の権能が天と地の一切の権能であるという証拠です。
その力が、ここに教会を建てました。
私たちは、イエス様の権能の現れたこの教会で、今、礼拝しています。
そして、弟子たちは、イエス様を礼拝してから、伝道に出ていくのです。
私たちも同じです。
この礼拝から伝道に出ていきます。
そこに、イエス様の権能が現れるのです。

私たちは、それを信じることができます。
この数年間というもの、私たちの教会には大きな苦難がありました。
いつになったら過ぎ去るのかという苦しみが何年にもわたって続きました。
しかし、67年前にこの教会を建てたのは、神様の御力です。
神の力は私たちを離れることはありません。
私たち人間は弱くされる時があります。
試練の時もあります。
しかし、そのような時も神様は共にいてくださっているのです。
試練は避けられません。
新約聖書に収められた、パウロが書いた手紙を読むと、手紙の宛先の教会のほとんどは、試練にあっていた教会であることが分かります。
また、手紙を書いたパウロ自身の生涯が、助けてくれる者よりも敵の方がはるかに多い、苦難の連続でした。
けれども、イエス様の権能は人間の悪い思いによって消されてしまうことはありませんでした。
パウロが建てた教会は世界中に広がり、私たちの教会も建てられたのです。
今ここに、天と地の一切の権能が現れているのです。

自分を一番にしてしまうことがある私たちです。
疑うこともある私たちです。
でも、安心していいのです。
片時も離れることなく、イエス様が共におられます。
それが、イエス様の約束です。
ここから、最初の一歩を踏み出しましょう。

祈ります。

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