婦人たちは安息日の土曜日には休み、日曜日に、香料を持って墓に行きます。
イエス様の墓です。
死んだ人の体に香料をぬるというのが、この時代のお葬式の仕方でした。
イエス様は金曜日に十字架から降ろされてお墓に入れられていたんですが、遺体に香料をぬる時間がなかったんですね。
イエス様が十字架で命を落としたのは午後3時のことです。
この場面はちょうど今の季節のことですから、午後6時くらいになると日が沈みます。
そして、この地方では日が沈んだら一日が終わって、新しい一日が始まります。
日が沈んだら新しい日になって、土曜日、安息日になってしまうんです。
安息日には仕事はしてはいけませんから、6時までに、とにかくイエス様の体をお墓の中に入れなければならなかったんです。
体に香料をぬる時間はなかったのでしょう。
体に香料をぬってあげたとしても、イエス様が死んだことに変わりはありません。
それでも、婦人たちは朝早くにお墓に向かいます。
しかし、お墓にはイエス様の体が見当たりません。
その時の婦人たちの気持ちはどんなだったでしょうか。
もうこれだけしかできることがない。
でも、できることをしてさしあげたい。
そんな思いでお墓にやってきたのに、イエス様の体がなくなっているのです。
婦人たちは「途方に暮れてい」たと書かれていますが、もう本当に何もできることがなくなって、ただただ下を向いて立っていたのでしょう。
これがイースターの朝でした。
イースターの朝は、喜びにあふれる朝ではありません。
下を向いてしまうしかない朝だったのです。
しかしそこに、輝く衣を着た人が現れました。
これは天使ということでしょうね。
天使は語りかけました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。
復活なさったのだ」。
復活の知らせです。
ここで婦人たちは大喜びしても良かったはずですが、婦人たちはそういう反応をしなかったようです。
ですので、天使は話しつづけます。
「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
イエス様はご自分が十字架にかけられることと、その後に復活することを前々から予告しておられました。
それを聞いて、婦人たちはイエス様の言葉を思い出したと書かれています。
しかし、これは不思議です。
イエス様でなくても、誰かがそんな話をしたとしたら、そんな話、簡単に忘れられるはずはありません。
けれども、婦人たちは、今まで忘れていたのです。
どうして忘れてしまうんでしょうか。
イエス様は前々から、ご自分が十字架にかかること、それから、復活することを予告しておられましたが、その場面を読みますと、弟子たちは理解できないようにされたということがそこに書かれているんですね。
つまり、イエス様は予告はしました。
予告はしましたが、弟子たちはそのことを理解できないようにされていたんです。
イエス様が弟子たちにそのことを理解できないようにされたのは、弟子たちがそのことを理解してしまうと、弟子たちが何とかしてイエス様を守ろうとするからでしょうね。
けれども、イエス様は、人間に対する神様の怒りをご自分一人で引き受ける覚悟です。
人間が罪を犯している、つまり、神に背いている。
その人間に対する裁きをイエス様はご自分一人で引き受けます。
そこでもし弟子がイエス様を守ろうとするなら、それはイエス様のじゃまをすることになります。
それだったら最初から何も言わなければ良かったのかもしれませんが、前もって言っていなかったら、弟子たちは、イエス様が復活したとしても、あの時十字架にかけられたのは実はイエス様ではなかったのではないか、他の人が十字架にかけられたのではないかと考えるでしょう。
前もって復活するということを言われていたからこそ、後になって弟子たちは、復活ということを信じたのです。
イエス様は弟子たちのためにそこまでのことを前もって考えてくださるんですね。
婦人たちは天使の話を聞いて思い出したわけですが、思い出したのなら大喜びしてもよさそうなものです。
ですが、喜んでいません。
どうしてそれが分かるのかと言いますと、「墓から帰って、十一人の弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせた」と書かれていますけれども、これは喜んではいなかったということです。
「一部始終を知らせた」と書かれていますが、それは、最初から最後まで、全部説明したということです。
お墓に行ったら、お墓をふさいでいた石が転がしてあって、天使が現れて、こういう話をした、と、一から十まで全部を説明したのです。
もし喜んでいたら、そんな話し方はしません。
神の言葉を聞いても、受け入れることができない。
弟子たちも同じでした。
弟子たちにはこの婦人たちの話が「たわ言のように思われた」んですね。
まったくばかばかしい話だとしか思えなかったんです。
婦人たちから話を聞いた時、弟子たちも、イエス様から言われていたことを思い出していたはずです。
けれども、まったく信じることができないんです。
面白いことに、ここのところで弟子たちのことが「使徒たち」と書かれていますね。
使徒というのは原文では「遣わされた者」という言葉です。
イエス様によって、いろいろなところに遣わされて、神の言葉を伝えていく者。
けれども、この時には、弟子たちは、こうだったんです。
けれどもここで、ペトロが走り出しました。
走ってお墓に向かいました。
そして、お墓の中をのぞくと、イエス様の遺体を包んでいた布がありました。
イエス様はおられなかったのです。
ペトロは驚きました。
しかし、驚いたということはどういうことでしょうか。
信じていたと言えるのか、言えないのか。
そもそも、ペトロが墓に向かって走っていったというのはどういうことでしょうか。
ペトロは婦人たちから話を聞いています。
婦人たちは最初から最後まで全部、話をしました。
ということは、天使たちがした話も、全部、婦人たちが伝えてくれたはずです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない」。
この天使の言葉をペトロは聞いていたはずです。
それなのにどうしてペトロはお墓に行こうとするんでしょうか。
イエス様を探すというのなら、どこか他の場所に探しに行くべきです。
それなのにお墓に行こうとするのは、ペトロとしては、婦人たちの話が本当かどうか確かめたかったからです。
ということは、イエス様が復活したということを心から信じていたというわけでもなかったのです。
だから驚いているのです。
もしペトロが婦人たちの話を信じていたのなら、驚きません。
驚くよりも喜ぶはずです。
と言いますか、婦人たちの話を信じていたのなら、そもそも、お墓には行きません。
どこか別の場所にイエス様を探すでしょう。
ペトロは婦人たちの話を信じていたわけではありません。
けれども、ペトロは、どうしてもイエス様に会いたかったんです。
三日前、イエス様が逮捕された時、ペトロは、引かれていくイエス様の後を遠く離れてついて行きました。
そして、裁判が行われる場所にもぐりこみます。
しかし、その場所でペトロは、周りにいた人たちから、あなたはイエスの弟子ではないかと言われて、それを否定してしまうんですね。
三度も、自分はイエスの弟子ではないと言ってしまうんです。
その時、イエス様は振り返ってペトロを見つめました。
ペトロが三度、イエス様の弟子であることを否定してしまうことを、イエス様は前もって予告しておられました。
その通りになったんですね。
イエス様に見つめられた時、その時になってペトロはイエス様から前もって予告されていたことを思い出しました。
そして、外に出て、激しく泣きました。
そのことがあった後、今日の場面まで、ペトロの様子は聖書に書かれていません。
ペトロはイエス様に対して、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と宣言していたのです。
それなのに、イエス様の弟子であることを三度も否定することになってしまったんです。
絶望して、死にたいくらいの気持ちで、引き篭もっていたのではないでしょうか。
普通に考えれば、ペトロはもう、イエス様に会う資格はありません。
それなのにペトロは走り出しました。
ペトロがイエス様の弟子であることを三度否定した時、イエス様は振り向いてペトロを見つめました。
そのイエス様のまなざしですね。
イエス様は怒ってペトロをにらみつけたんでしょうか。
そうではないでしょうね。
イエス様はそうなることを前もって知っておられました。
その上で、ペトロをそばに置いていてくださったんです。
イエス様はそういう人間であるペトロを、前々から受け入れておられたんです。
イエス様のまなざしに、ペトロも、そのことが分かったんじゃないですか。
そうは言っても、ペトロは、取り返しのつかないことをしてしまいました。
その時には、ペトロは外に出て激しく泣きました。
絶望して、家の中に閉じこもりました。
けれども、ペトロの頭の中には、イエス様のあのまなざしがあったんだと思うんです。
自分のことをすべて知った上で受け入れてくれていた、あのまなざしが頭の中にあったんです。
だから、ペトロは、とにかく墓に向かって走り出しました。
婦人たちの話を信じていたわけではありません。
けれども、とにかくイエス様に会いたかった。
お墓でペトロは、婦人たちの話が本当だったと知ります。
そのことに驚きます。
喜びはしません。
イエス様を見捨てたペトロは、たとえイエス様が復活したとしても、大喜びというわけにはいきません。
ペトロは家に帰ります。
イエス様を探そうとまではしません。
これがイースターの朝の出来事でした。
イースターの朝は、喜びの朝ではありません。
婦人たちにとっては、途方に暮れてしまって、自分には何もできることがないと思わせられる朝でした。
使徒たちにとっては、神の言葉よりも、自分の常識を大事にしてしまって、喜ぶことができなかった朝でした。
ペトロにとっては、確かめに行ったものの、喜ぶわけにもいかない朝でした。
イースターは、自分の力のなさを思い知らされる日なのです。
神の言葉を受け入れることができない日です。
自分の弱さから抜け出せない日です。
しかし、イエス様は、人間がそのような者であることを前もって分かっておられます。
その上で、行動してくださいます。
この後、イエス様の方から、弟子たちを訪ねてくださるのです。
そして、途方に暮れている弟子たちを再び立ち上がらせてくださる、復活させてくださるのです。
大事なのは、イエス様が私たちのところに来てくださるということです。
そのことが決定的に大事なことです。
だから、教会では、毎週日曜日に礼拝をするのです。
イエス様に出会うためです。
復活して、弟子たちのところにイエス様が来てくださった、この日曜日に、礼拝をするんです。
途方に暮れることがある私たちです。
神の言葉よりも自分の常識を大事にしてしまう私たちです。
弱さから抜け出せない私たちです。
けれども、イエス様は、私たちのことを良く知っておられて、前もって考えてくださっています。
そして、一番良い時に私たちに出会ってくださいます。
それはいつになるでしょうか。
今、弟子たちにそのことが分からないように、私たちもそれがいつなのかは分かりません。
ただ、イエス様は、一番ふさわしい時に私たちに出会ってくださって、ご自身が復活するだけでなく、私たちを再び立ち上がらせてくださるのです。
そのイエス様に信頼して、イエス様が来てくださるのを待ちましょう。