2025年04月07日「最後の祈り」

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聖句のアイコン聖書の言葉

31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。32しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」33するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。34イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」35ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 26章31節~46節

原稿のアイコンメッセージ

最後の晩餐が終わって、最後の祈りに入っていく。
今日の最後でいよいよ、裏切り者がやってくる。
裏切り者はいつの間にかイエスから離れて、イエスの敵のところに行って、たくさんの人を連れてくる。
それまで、イエスは祈っていた。
イエスはゲッセマネというところに行って、祈った。
ゲッセマネはエルサレムの町の、谷を挟んで隣。
裏切り者はイエスの祈りの場所を知っていたので、そこにたくさんの人を連れて来た。
イエスはそうなることを知っていた。
今日の最後の言葉。
「見よ、わたしを裏切る者が来た」。
むしろ、来るのを待っていたような感じ。
そう、イエスは分かっていた。

ただ、大事なのは、ここから実現して行くのは裏切り者の計画ではない。
神のご計画が実現して行く。
イエスは今日の最初の場面でそのことを言っている。
31節で、イエスは言った。
「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」。
この言葉は、カッコの中に入っている。
こういうふうにカッコの中に入っている言葉は、旧約聖書の言葉。
旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉。
けれども、今日の言葉と、ゼカリヤ書13章7節の言葉は少し違う。
ゼカリヤ書13章7節には、こう書かれている。
「羊飼いを打て、羊の群れは散らされるがよい」。
神が言う。
羊飼いを打て。
羊の群れは散らされていい。
これだと、神が裏切り者のユダに対して、羊飼いイエスを打てと言っている感じ。
しかし、イエスはここで、「わたしは羊飼いを打つ」と言った。
まだイエスがいなかった時代の、旧約聖書からの引用なので、「わたし」というのは神のことになる。
神が羊飼いを打つ。
もちろん、ゼカリヤ書にもともと書かれている、「羊飼いを打て、羊の群れは散らされるがよい」という言葉でも、神のご意志だということになるのだが、イエスは、裏切り者の計画が実現するのではないということを強調した。
実行する人が誰であろうと、すべて、神のご計画の通りなんだということ。

この時、35節で、ペトロを始め、弟子たち全員が、自分がイエスを見捨てて逃げることはないと言った。
死んでも逃げ出さないと言った。
しかし、結局どうなったかを私たちは知っている。
全員逃げ出した。
この時、弟子たちは別に、言葉だけ良いことを言ったということはないだろう。
この時は本当に強い気持ちでそう思っていたはず。
でも、そんな人間の気持ちは実現しなかった。
神のご計画が実現した。
人間の悪い思いも良い思いも実現しなかった。
神の御心が実現した。

ただ、神の御心が実現して行く時、イエスはいつも心が静かだったわけではない。
ゲッセマネで祈る時、37節で、イエスは「悲しみもだえ始められた」。
そして、38節で言った。
「わたしは死ぬばかりに悲しい」。
死ぬほど悲しい。
何が悲しいのか。
これから十字架にかかることをイエスは死っている。
今までに三度もご自分が十字架にかかることを予告してきた。
それも、そのことを普通に話していた。
自分が死ぬのが悲しいのではない。
でも、死ぬよりも悲しいことがある。
イエスはこれから、人間の罪を背負って罰を受ける。
罪人の代わりに、神の罰を受ける。
それは、神から見捨てられるということ。
それが悲しい。
十字架の上で、イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言った。
罪人の代わりに罰を受けるということは、神から見捨てられることを味わうこと。
神の子が、神に見捨てられる思いを味わう。
それが、耐えられないくらいに悲しい。
どれほどの悲しみだっただろうか。
私たちが神に見捨てられるということの何倍くらいの悲しみだろうか。

イエスは祈った。
弟子たちと一緒にいつも祈っていた場所で、今日は、一人で先に進んでいって、うつ伏せになって祈った。
神の御心にゆだねて、うつ伏せになった。
けれども、それはイエスにとっても簡単なことではない。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。
杯というのは苦しみのシンボル。
それを、過ぎ去らせてください。
「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。
二度目に祈った時には、言葉が違ってきた。
「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。
一度目の祈りよりも、受け入れる祈りになってきている。
それでも、まだ十分ではなかった。
44節、「三度目も、同じ言葉で祈られた」。
イエスにとっても、これだけ祈ってやっと受け入れられる、それくらいの悲しみ、苦しみがあった。
祈りの戦い。
祈る中で、自分の思いを捨てて、少しずつ神の御心を受け入れられるようになっていく。
イエスにとってもそうであったのなら、私たちはどれくらい祈る必要があるだろうか。
私たちにも悲しむことはある。
その中で、私たちも、「過ぎ去らせてください」と祈ることから始める。
その祈りが聞かれればそれはそれで良いこと。
しかし、イエスの祈りにあったように、「わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らない」ということもある。
その時、私たちも、「あなたの御心が行われますように」と祈るように導かれることはある。
それはもう耐えられないようなことかもしれない。
いや、耐えられないようなこと。
悲しみにもだえるようなこと。
けれども、私たちは信じて良い。
その時、そこから、神の御心が実現して行く。
私が飲まない限り過ぎ去らない杯。
それは、神が私たちを苦しめることが御心ではない。
それは私たちが十字架の業に加わっていくということ。
神のご計画に加わっていくということ。

そして、私たちは、いつも、今日のイエスの祈りと同じ祈りを祈っている。
主の祈り。
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。
私たちはいつも、自分の思いではなく、御心を求める祈りをしてきた。
その祈りは、イエスが私たちに教えてくださった祈り。
だから私たちは信じて良い。
私たちが御心にゆだねて祈る時、イエスは一緒に祈ってくださっているだろう。
そして、私たちが、この祈りの戦いに勝利するように導いてくださるだろう。
信じて祈りたい。

弟子たちはこの時、祈ることができなかった。
41節でイエスは言っていた。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。
大変なことが言われている。
私たちは、誘惑に陥るか、目を覚まして祈っているか、どちらかしかない。
そしてこの、「誘惑」という言葉は、原文では、「テストする」というような言葉。
要は、合格か不合格かに分かれてしまうということ。
「誘惑に陥らぬよう」にというのは、ダメになってしまわないように、ということ。
つまり、祈っているか、ダメになるか、どちらかしかない場面というのが、今。
続けてイエスは言う。
「心は燃えても、肉体は弱い」。
これは、人の心は燃えていても、人の体は弱い、ということではない。
人間の心と人間の体を比べているわけではない。
「心」という言葉は「霊」という言葉。
霊は燃えても、肉体は弱い。
神が与えてくださる霊は燃えていても、もともと人間が持っている体は弱い。
神が与えてくださるものには力があっても、もともと人間が持っているものは弱い。
私たちが祈る時も、私たちは、自分の心の中にある信仰に頼って祈るのではない。
それは人間のもので、弱いもの。
私たちは、聖霊の力の中で祈る。
そうすると、肉体の弱さに負けてしまうということはない。
聖霊は、人間の弱さを補って、乗り越えさせてくださる。

これは、先月のラジオ番組「東北あさのことば」でお話したことだが、人間は弱い者でも、聖霊はそれを知った上で働いてくださる。
一流のトランペット奏者が、ライブハウスで演奏していた。
その曲は無伴奏で、トランペットだけの演奏。
「聖霊なしでは何もできない」という、1930年代に作られた曲。
クライマックスに差し掛かり、トランペット奏者は、最後のフレーズにゆっくりと取り掛かろうとした。
その時、誰かの携帯が鳴った。
一転して、ライブハウスは不協和音で満たされた。
「この曲は台無しになった」と誰もが思った。
しかしその時、トランペット奏者は、何とその携帯のメロディを吹き始めた。
即興でその曲に色を付け、キーを変えながら何度も吹いた。
そして最後に、ラストの2つのフレーズ、「with you(聖霊と共にでなければ)」の部分を奏でた。
聴衆は、スタンディング・オベーションを贈った。
聖霊なる神は、そのように働いてくださる。
人には弱さがあり、欠けがあるが、聖霊がそれをカバーして、乗り越えさせてくださる。

ところがこの時、弟子たちは、祈りの戦いに負けてしまった。
眠ったまま、祈ることができなかった。
聖霊に求めず、自分の力や自分の信仰に頼っていたということなのだろう。
そしてこの後、弟子たちは実際に、負けてしまう。
祈りで負けたので、現実でも負ける。
弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出してしまう。
私たちも、祈ることができないことがある。
そして、祈りで負けて、現実でも負けることがある。

けれども、大事なことは、そんな私たちであったとしても、イエスは私たちを見捨てないということ。
32節でイエスは言っていた。
「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。
私たちが負けたとしても、イエスは先回りして私たちを迎えてくださる。

そのイエスの恵みに支えられて、私たちも、今ここにある。
目を覚ましていられなくて、祈ることができないこともある私たち。
いや、私たち全員に、先週、祈らなければいけないことがあったのに、祈ることができなかったということがあるだろう。
けれども、私たちは今ここにいる。
神の家にいる。
イエスは喜んで私たちを迎えてくださっている。
この神の恵みによって、私たちは、祈りの戦いに勝利する。
結局、聖霊もイエスも、同じ働きをしてくださっていると言える。
私たちの弱さを知っておられ、それ受け入れてくださっており、カバーしてくださる。
カバーどころではない。
リカバリーと言ったらいいのか、私たちの弱さが問題にならないようにしてくださる。
問題にならないどころか、むしろ、私たちに弱さがあったからこそ、もっと喜んで感謝することができるようにしてくださる。
今週も、私たちに、祈らなければいけないことがあるだろう。
復活を待ち望むこの季節、主の恵みによって、勝利させていただこう。

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