イースター墓前礼拝説教

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イースター墓前礼拝説教

2023年4月9日(日)午後2時30分から イースター墓前礼拝  讃美歌 361番(主にありてぞ)1節  祈 祷   聖 書 ルカによる福音書23章56節後半から24章12節(新共同訳)  説 教 「復活の朝」  祈 祷   讃美歌 488番(はるかにあおぎみる)1節  祝 祷 

56婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


今日は、今お読みした場面から、特にペトロの心の動きについて共に考えたいと思います。

婦人たちから話を聞いて、ペトロが走り出しました。
走ってお墓に向かいました。
お墓の中をのぞくと、イエス様の遺体を包んでいた布がありました。
イエス様はおられなかったのです。
ペトロは驚きました。
しかし、驚いたということはどういうことでしょうか。
信じていたと言えるのか、言えないのか。
そもそも、ペトロが墓に向かって走っていったというのはどういうことでしょうか。
ペトロは婦人たちから話を聞いています。
婦人たちは最初から最後まで全部、話をしました。
ということは、天使たちがした話も、全部、婦人たちが伝えてくれたはずです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない」。
この天使の言葉をペトロは聞いていたはずです。
それなのにどうしてペトロはお墓に行こうとするんでしょうか。
イエス様を探すというのなら、どこか他の場所に探しに行くべきです。
それなのにお墓に行こうとするのは、ペトロとしては、婦人たちの話が本当かどうか確かめたかったからです。
ということは、イエス様が復活したということを心から信じていたというわけでもなかったのです。
だから驚いているのです。
もしペトロが婦人たちの話を信じていたのなら、驚きません。
驚くよりも喜ぶはずです。
と言いますか、婦人たちの話を信じていたのなら、そもそも、お墓には行きません。
どこか別の場所にイエス様を探すでしょう。

ペトロは婦人たちの話を信じていたわけではありません。
けれども、ペトロは、どうしてもイエス様に会いたい理由がありました。
三日前、イエス様が逮捕された時、ペトロは、引かれていくイエス様の後を遠く離れてついて行きました。
そして、裁判が行われる場所にもぐりこみます。
しかし、その場所でペトロは、周りにいた人たちから、あなたはイエスの弟子ではないかと言われて、それを否定してしまうんですね。
三度も、自分はイエスの弟子ではないと言ってしまうんです。
その時、イエス様は振り返ってペトロを見つめました。
ペトロが三度、イエス様の弟子であることを否定してしまうことを、イエス様は前もって予告しておられました。
イエス様に見つめられた時、その時になってペトロはイエス様から前もって予告されていたことを思い出しました。
そして、外に出て、激しく泣きました。
そのことがあった後、今日の場面まで、ペトロの様子は聖書に書かれていません。
ペトロはイエス様に対して、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と宣言していたのです。
それなのに、イエス様の弟子であることを三度も否定することになってしまったんです。
絶望して、死にたいくらいの気持ちだったのではないでしょうか。

普通に考えれば、ペトロはもう、イエス様に会う資格はありません。
それなのにペトロは走り出しました。
ペトロがイエス様の弟子であることを三度否定した時、イエス様は振り向いてペトロを見つめました。
そのイエス様のまなざしですね。
イエス様は怒ってペトロをにらみつけたんでしょうか。
そうではないでしょうね。
イエス様はそうなることを前もって知っておられました。
その上で、ペトロをそばに置いていてくださったんです。
イエス様はそういう人間であるペトロを、前々から受け入れておられたんです。
イエス様のまなざしに、ペトロも、そのことが分かったんじゃないですか。
そうは言っても、ペトロは、取り返しのつかないことをしてしまいました。
その時には、ペトロは外に出て激しく泣きました。絶望して、家の中に閉じこもりました。
けれども、ペトロの頭の中には、イエス様のあのまなざしがあったんだと思うんです。
自分のことをすべて知った上で受け入れてくれていた、あのまなざしが頭の中にあったんです。
だから、ペトロは、とにかく墓に向かって走り出しました。
婦人たちの話を信じていたわけではありません。
けれども、とにかくイエス様に会いたかった。
お墓でペトロは、婦人たちの話が本当だったと知ります。
そのことに驚きます。
喜びはしません。
イエス様を見捨てたペトロは、たとえイエス様が復活したとしても、大喜びというわけにはいきません。
ペトロは家に帰ります。
イエス様を探そうとまではしません。
これがイースターの朝でした。

しかし、この後、イエス様の方から、弟子たちを訪ねてくださるのです。
そして、途方に暮れている弟子たちを再び立ち上がらせてくださる、復活させてくださるのです。
大事なのは、私たちの心の内に何があるとしても、イエス様がいない所に走るようなことがあったとしても、いやもう、イエス様を探すこともなかったとしても、イエス様が私たちのところに来てくださるということです。
そのことが決定的に大事なことです。
だからこそ、私たちにとっては、イエス様が来てくださるのを待つこと、待ち続けることが、いつでも、最も大切な姿勢であるのです。
今、私たちの信仰の先輩たちのお体は、この墓の下で眠っておられるわけですが、私たちの先輩たちは、その最も良い模範を示してくださっています。
このところで、ただ、待っておられる。
復活の主を待って、静まっておられる。
その時がいつなのかは分かりません。
ただ、私たちも、信頼して、主を待ちたいのです。
イエス様の方から弟子たちを訪ねてくださり、弟子たちを再び立ち上がらせてくださったようなことが、私たちにも、信仰の先輩たちにも、いつの日にか、起こります。
私たち一人一人も、様々な思いを抱えて生きています。
ペトロだけでなく、私たちは皆、簡単に割り切れるような存在ではありません。
私たちも、様々な思いを抱えつつ、イエス様がいない場所に走っていくようなこともありますし、イエス様を探すこともしないこともあります。
そして、そのような時というのは往々にして、そうするより他ない時でもあります。
私たちの生きる現実に、そのような現実というのはある。
しかし、私たちの救い主は、私たちのところにいらしてくださる方です。
私たちを探して、見つけ出してくださる方です。
私たちが探すのではありません。
主が私たちを探してくださるのです。
いやすでに、私たちを探してくださり、見つけ出してくださったからこそ、私たちは今、ここにいるのです。
その私たちだから、主を信頼して待つという姿勢を大切にしたい。
信頼しているから、待つことができます。
心の中の様々な思いを横において、ただ、待ちたい。
待つことは信仰なのです。

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