2021年07月11日「約束による恵み」

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約束による恵み

日付
日曜朝の礼拝
説教
小峯明 牧師
聖書
出エジプト記 12章40節~42節

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聖書の言葉

ガラテヤの信徒への手紙3章17節~18節出エジプト記 12章40節~42節

メッセージ

契約と言いますと、堅苦しい印象を抱くかも知れませんが、わたしたちの生活も様々な契約で成り立っています。聖書は、神様とわたしたちとの 関係も契約による関係であると語っています。神様とわたしたちの契約と 言うと対等な関係のように思うかも知れませんが、そうではありません。 ただ神様が遜って、わたしたちを愛して、わたしたちの神となってくださいました。ですから、聖書では契約は神の遜りを現しています。

旧約聖書には三つの契約が語られています。最初は神様がアダムに語られたものです。これを生命の契約、業の契約と呼んでいます。しかし、アダムは契約を守ることができませんでした。違反して罪を犯し、堕落と死 を招きました。次に神様はノアと契約を結ばれます。洪水によって地を滅 ぼすことはないと約束されました。

1. アブラハムとの契約

その次に神様はアブラハムと契約を結ばれました。このところでパウロが繰り返し引用している契約です。アブラハムが神様から呼び出されたのは、年齢が既に75歳の時でした。妻のサラは10歳若かったので65歳 です。彼らには子供がありませんでしたが、神様はこの一組の夫婦に子孫の繁栄と異邦人の祝福と土地の相続を約束しました。その約束をアブラハ ムは信じました。

この契約は神様だけが義務を負うという形で締結されています。引き裂かれた獣の間を本来は両者が通り、契約違反が起これば、獣が裂かれたように裁きを受けるということでした。しかしそこを通られたのは神様だけでした。神様だけがアブラハムを祝福し、子孫と土地を与え、異邦人を祝 福するという契約の義務を負われたわけです。

この契約が、その後、新約聖書にまで続く恵みの契約です。この契約は歴史の中で更新されますので、次の世代の者がこの契約を確認して、神様の約束を信じて歩みました。そしてアブラハムの契約は、息子のイサク、 孫のヤコブと引き継がれます。ヤコブの時代に飢饉があり一族はエジプトに逃れます。その後エジプトで家族が増えて、一つの民族集団のようになりました。

2. シナイ契約

民族集団になったユダヤ人をエジプト人は警戒して奴隷とし、人口が増えないように迫害しました。彼らがエジプトで苦しんでいたときに、神様 はアブラハムとの契約を思い起こして彼らを助け出し、約束の土地へと導 いていかれます。その旅の途中、シナイ山の麓で契約が更新されて、その時に、十戒を代表とする律法が与えられました。それが、アブラハムの時代から430年後の契約の更新です。その時の代表者がモーセでした。

パウロが17節で「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約」 と語っているのは最初のアブラハムとの契約です。「それから430年後にできた律法」と続けて語られていますが、これがモーセの時代にシナイ山の麓で更新された契約で与えられた律法を示しています。

その二つの契約を語りまして、その本質は、神様の恩恵によるということをパウロは言いたいわけです。二度目の契約で律法が付与されたからと 言って、最初の契約に条件として律法遵守が付加されたわけではありませ ん。律法を守ることが契約のための条件となり、最初の契約が無効にされたということではないということです。

3. ユダヤ人キリスト者のこだわり

ユダヤ人キリスト者の伝道者たちもアブラハム契約とシナイ契約はよく知っていました。しかし、彼らは律法にこだわりました。特にここでユダヤ人キリスト者たちがガラテヤの信徒たちに勧めているのは割礼です。そ してそれが救いに入れられる条件のような扱いになっています。

主イエスを信ずるだけでは不十分であり、割礼を実施しないとアブラハムとの契約の中に生きることはできない。すなわち、救われないというの が彼らの主張でした。それでは、主イエスの十字架だけでは救われないということになり、パウロが伝えた真実の福音を歪めることになります。そこでパウロが、ただ信仰によってのみユダヤ人も異邦人も救われるという ことを繰り返し語っているわけです。

ただ、そこで一つの問は、創世記17:11で、神様はアブラハムに契約のしるしとして割礼を命じ、アブラハムはそれに従っていることです。

それがユダヤ人キリスト者たちの強調点であったでしょう。アブラハムが 契約の民として生きたのは信仰と割礼であり、信仰だけではなかったと言いたかったのでしょう。

それでキリスト者となっても、旧約聖書の戒めに従うことを異邦人にも求めたのでしょう。それらの律法は、ユダヤ人を他の民族、異邦人と区別するしるしの役割を果たしていました。ですから、大きなユダヤ人共同体 の中で異邦人キリスト者もそこに紛れて生きることが身の安全と考えたわ けです。

4. 信仰か割礼か

しかし、信仰か割礼かは、ガラテヤ3:6でパウロが創世記15:6を引用していることから明らかなように信仰が先です。ですから、異邦人キリスト者もアブラハムが信仰によって義とされたように、主イエスを信ずる信仰だけで義とされます。アブラハムと子孫に語られた契約は主イエス によって成就しましたので、主イエスを信じた者は主イエスの教えに従えばよいわけです。その際、主イエスは弟子たちに洗礼を命じています(マタイ28:19)。この時に、主イエスが割礼を施しなさいと言われるのであれば、今もそれがキリスト教の入信儀礼になったでしょうが、割礼は 主イエスによって洗礼に変えられました。

ですから、神との契約に入るためには、アブラハムが信じて義とされたように主イエスを信ずるだけで義とされ、信じた者は洗礼を受ければよい わけです。

5. 身の安全

しかしながら、ユダヤ人キリスト者にとりましては、主イエスを信じても身の安全を守ることがもう一つの重要な課題でした。というのは、彼らは異邦人キリスト者と接触するばかりに、異邦人を排斥するユダヤ人たちから迫害される危険があったからです。

またガラテヤの異邦人キリスト者たちも地域で慣れ親しんできた神々を祀る地域共同体との交わりをしなくなります。キリスト者は偶像礼拝とキリスト信仰の二股はしませんから地域共同体との関係が薄れていきます。

地域での孤立を恐れる異邦人キリスト者に、ユダヤ人キリスト者は、ユダヤ人共同体という大きな枠の中に入れば安泰だと誘いました。自分たち もキリスト者だけれども、その大枠はユダヤ人共同体でありユダヤ人キリ スト者であるというわけです。ユダヤ教はローマ帝国でも公認されていた 宗教でした。ですから、帝国公認の宗教に改宗したことにすれば、地域に 対して面目も立つわけです。ユダヤ人たちは偶像礼拝をしないことを人々は理解していたからです。

そのような両者の不安が、信仰と律法へと誘惑する要因の一つであった と語る学者もありました。わたしはそれを読みまして興味深いと思いました。当時のガラテヤ地方も農村であったでしょうから、かつての日本の農村のように因習や様々なしがらみがあったでしょう。その中でキリスト者 になり、伝統的な村の宗教行事に参加しなければ村八分になるわけです。 その孤立をユダヤ人キリスト者はユダヤ教という大きな家を示すことで助 けようとしました。しかし、パウロからすればそれは極めて人間的な動機 に過ぎず、助けたつもりが別の福音を伝えることになり、救いそのものが 危ぶまれることを警告しているわけです。

6. アブラハムに与えられた恵み

続けて「神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになった」とパウロは語ります。アブラハムは何を相続として受け取ったのでしょう か。ヘブライ人への手紙11:8-10「信仰によって、アブラハムは、 自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出される と、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。・・・アブラハム は、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたか らです」とあります。13節には「この人たちは皆、信仰を抱いて死にま した。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜 びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」とあります。「神は、彼らのために都を準備」 しておられます。その約束を信じて従う信仰の歩みに、わたしたちもただ 主イエスを信ずる信仰によって招かれ、入れられています。

キリスト者の少ない社会の中では、わたしたちもまたよそ者であり仮住まいの者です。しかし、そのわたしたちにも恵みを与えるために、神は主イエスを遣わし、わたしたちを招いてくださるのです。祈ります。