聖書の言葉 ルカによる福音書 19章45節~48節 メッセージ 教会の暦で申しますと、今日は聖霊降臨を記念する主日です。今年はルカ福音書を続けて聞きました。ここで主イエスは神殿が祈りの家であると語っています。祈りは聖霊の業ですので、この箇所を聖霊降臨日に聞くことは相応しいと考えたからです。主イエスがこの箇所で語る祈りの家はエルサレム神殿ですが、聖霊が降って以降、礼拝する所が祈りの家になりました。今朝わたしたちが共に礼拝をしているこの教会堂も主イエスが預言者イザヤの書を引用して語られたように「祈りの家」です。しかも、旧約聖書では、この祈りの家が将来、異邦人をも神への礼拝に招く祈りの家となることが預言されていました。イザヤ書56:6-7には「また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と記されています。この約束は主イエスによって実現した約束です。続けて8「追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と」と語られます。礼拝する者を主がさらに加えて集めてくださいます。 主イエスによる神殿清め 既に、この神殿が破壊されることを預言されて嘆かれた主イエスは、なお神殿に行かれ悔い改めを求められます。ユダヤ人の指導者たちは主イエスを拒絶するから後に神の裁きを受ける、気の毒だが仕方がないと傍観者として通り過ぎたのではありません。そのような破壊と殺戮で終わらないようにと悔い改めを求め、主イエスは神殿に行かれました。そこに敵をも愛し、敵対するユダヤ人をも愛する主イエスの愛があります。わたしたちは信じない人は仕方がないので後は神様にお委ねしてと諦めて傍観者になってしまうかも知れません。 しかし、主イエスは決して傍観者にはなりません。ですから、嘆かれ涙を流されました。ですから、主イエスは神殿に行き、そこで商売をしていた人々を追い出し始めました。そんなことをしたら警察沙汰にならないかと心配しますけれども、滅びるよりはましなはずだとの主の確信に基づく行動であったわけです。 当時の神殿の境内は、城壁に囲まれた大きな庭がありました。そこは改宗した異邦人が入ることのできる場所です。そこでユダヤ人たちは犠牲の動物や、神殿に捧げる油や、供物を売っていました。ユダヤ人として登録された者は、各自命の代償として神殿に献金することが決められていました(出エジプト30:11-16)。その献金は古いヘブライ貨幣かティルス貨幣ですることになっていたために神殿にはローマやギリシャの貨幣をそれらの貨幣に両替する者たちがいました。 これらの言わば銀行と売店は巡礼者のために必要でしたが、これを取り仕切っている祭司たちの利権でもありました。両替の割合にしても犠牲の供物の値段にしても、自分たちで決めることができましたのでこの商売を独占している祭司たちには莫大な収益があったようです。こうして神礼拝の施設が、貪欲に支配されてしまいました。 主イエスが神殿で商売している人々を追い出し始めたのはこのためでした。神殿が祈りの家ではなく「それを強盗の巣にした」と語られている通りです。それでも、神殿の警備隊やエルサレムに駐屯しているローマの警備隊が出動しなかったので、それほどの規模の大立ち回りではなかったようです。もしも異邦人の庭全体に広がる大騒動を引き起こしたとすれば、神殿の警備隊に逮捕されていたでしょう。ですから、神の守りの中で主イエスは神殿に警告をしてご自身を示されたわけです。 神殿は「わたしの家」である 主イエスが少年時代に神殿に行かれた時には神殿を「わたしの父の家」と呼ばれました。ここでは旧約聖書イザヤ書を引用して「わたしの家」と呼ばれます。旧約聖書でわたしと言われたのは父なる神ですが、ここで主イエスはそれを「わたしの家」とそのまま引用されました。ここには旧約聖書を引用されただけでなく、主イエスが神殿の所有者であられることが暗示されています。主イエスの家であり、その家の持ち主が、本来の神殿を回復しておられます。 「強盗の巣」との言葉は旧約聖書エレミヤ7:11にあります。エレミヤの預言は旧約聖書で言えば、列王記下21章の後半から25章のエルサレム陥落の時代に与えられました。この時代、人々はエルサレム神殿での礼拝だけでなく偶像礼拝に誘惑され、自分中心の生活を送っていました。その姿を11「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり、わたしにもそう見える、と主は言われる」とエレミヤは主の言葉を語りました。 その時代と主イエスの時代は、重なります。主イエスの時代には異教の神々への礼拝はありませんでしたが金銭が神々として神殿の指導者たちを支配していました。これもまた偶像礼拝です。エルサレム神殿の崩壊とエルサレムの滅亡が繰り返されるのは、生ける神を捨て、また神の救い主であられる主イエスを捨てるからにほかなりません。主イエスは滅亡を見据えながら、ご自身の使命を最後まで全うされます。ご自身の民を愛されたからです。この主イエスの愛の御業によって、異邦人であったわたしたちも生ける神に罪と死の中から救い出されました。そして主の日毎に祈りの家に集い、礼拝を重ねています。ここに一人でも多くの者たちが招かれるように、そして主の恵みと愛を知り、主に仕え主を愛する者が起こされるようにと願ってです。 毎日教える主イエス この神殿清めの後も、主イエスは毎日神殿で教え続けました。その教えの具体的な内容は20:1以下に語られていきます。「民衆が皆夢中になってイエスの話に聞き入っていた」と記されています。人々は夢中になって聞きました。ここで「夢中になる」と訳されている言葉は、もともとの言葉では「ぶら下がる」という意味の言葉です。 子供が小さい時に、父の腕にぶら下がって遊ぶでしょう。人々は何か信頼できるものにぶら下がり、安心できるところに集まります。それは主イエスの教えに権威があったからです。これまでにも主イエスの教えを聞いて驚いた人々の声が聖書に記されています(マタイ7:28-29)。主イエスが権威ある者として教えられました。この主イエスの言葉が民衆の心に響きました。 敵対者の陰謀 しかし、この時、祭司長、律法学者、民の指導者たちは「イエスを殺そう」と謀っていました。この言葉はもともとの言葉では「彼を滅ぼすことを求め続けていた」と語られています。滅ぼすとは随分乱暴な表現です。それは、何とか合法的に殺す方法はないかとその方法を探し続けていたという意味合いです。主イエスに対するこのような敵意は、既にルカ11:53でも語られており、それがずっと彼らの心の中にありました。 しかし、この時点では多くの民衆が主イエスの周囲に集まっています。主イエスの教えを夢中になって聞いています。ですから、うかつに手を出すことはできませんでした。なぜ、あなたたち祭司長や律法学者たちは主イエスに聞かないのかと逆に問い詰められてしまうでしょう。しかも主イエスは神殿は祈りの家であり、商売で犠牲の動物を高額で売りつけ、献金の両替で高額な利ざやを稼いで礼拝で商売をすることは強盗だと指摘されました。このことは、人々が内心思っていても、神殿の権威に対して、声を上げることのできなかったことでした。それを主イエスは指摘し、排除しました。民衆はこの方こそ礼拝を回復してくださると思ったでしょう。 これらの民衆も後に主イエスの十字架のおりに弟子たちと共に躓きますが、やがて弟子たちのように回心へと導かれて新約聖書の教会に集う者たちとされていきます。それが聖霊降臨によって実現していきます。 今朝も聖書を通して教会で主イエスの教えが語られます。毎週、主イエスが聖霊と共にここでわたしたちを迎えてくださいます。わたしたちもかつては自分の権威に従って生きて来ました。祭司長や律法学者や、民の指導者たちの罪は自分たちにこそ権威があると思っていることです。彼らの権威は、神に仕えていなければ、虚しいものです。自分の権威に頼る者はやがては滅びます。 祈りの家は、神に犠牲をささげて礼拝する神殿です。それが旧約聖書の時代の神殿の役割でした。その神共にいます神殿は、主イエスによって全世界の教会として祈りの家の役割を果しています。今オンラインでもこの祈りの家の礼拝はそれぞれの家庭に配信されています。祈りの家は礼拝の家です。その礼拝と祈りに生きるようにと主イエスが、腕を延ばしてわたしたちを捕らえてくださいました。わたしたちは主イエスに腕を掴まれて主イエスの腕にぶら下がっているのです。祈ります。
教会の暦で申しますと、今日は聖霊降臨を記念する主日です。今年はルカ福音書を続けて聞きました。ここで主イエスは神殿が祈りの家であると語っています。祈りは聖霊の業ですので、この箇所を聖霊降臨日に聞くことは相応しいと考えたからです。主イエスがこの箇所で語る祈りの家はエルサレム神殿ですが、聖霊が降って以降、礼拝する所が祈りの家になりました。今朝わたしたちが共に礼拝をしているこの教会堂も主イエスが預言者イザヤの書を引用して語られたように「祈りの家」です。しかも、旧約聖書では、この祈りの家が将来、異邦人をも神への礼拝に招く祈りの家となることが預言されていました。イザヤ書56:6-7には「また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と記されています。この約束は主イエスによって実現した約束です。続けて8「追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と」と語られます。礼拝する者を主がさらに加えて集めてくださいます。
主イエスによる神殿清め
既に、この神殿が破壊されることを預言されて嘆かれた主イエスは、なお神殿に行かれ悔い改めを求められます。ユダヤ人の指導者たちは主イエスを拒絶するから後に神の裁きを受ける、気の毒だが仕方がないと傍観者として通り過ぎたのではありません。そのような破壊と殺戮で終わらないようにと悔い改めを求め、主イエスは神殿に行かれました。そこに敵をも愛し、敵対するユダヤ人をも愛する主イエスの愛があります。わたしたちは信じない人は仕方がないので後は神様にお委ねしてと諦めて傍観者になってしまうかも知れません。
しかし、主イエスは決して傍観者にはなりません。ですから、嘆かれ涙を流されました。ですから、主イエスは神殿に行き、そこで商売をしていた人々を追い出し始めました。そんなことをしたら警察沙汰にならないかと心配しますけれども、滅びるよりはましなはずだとの主の確信に基づく行動であったわけです。
当時の神殿の境内は、城壁に囲まれた大きな庭がありました。そこは改宗した異邦人が入ることのできる場所です。そこでユダヤ人たちは犠牲の動物や、神殿に捧げる油や、供物を売っていました。ユダヤ人として登録された者は、各自命の代償として神殿に献金することが決められていました(出エジプト30:11-16)。その献金は古いヘブライ貨幣かティルス貨幣ですることになっていたために神殿にはローマやギリシャの貨幣をそれらの貨幣に両替する者たちがいました。
これらの言わば銀行と売店は巡礼者のために必要でしたが、これを取り仕切っている祭司たちの利権でもありました。両替の割合にしても犠牲の供物の値段にしても、自分たちで決めることができましたのでこの商売を独占している祭司たちには莫大な収益があったようです。こうして神礼拝の施設が、貪欲に支配されてしまいました。
主イエスが神殿で商売している人々を追い出し始めたのはこのためでした。神殿が祈りの家ではなく「それを強盗の巣にした」と語られている通りです。それでも、神殿の警備隊やエルサレムに駐屯しているローマの警備隊が出動しなかったので、それほどの規模の大立ち回りではなかったようです。もしも異邦人の庭全体に広がる大騒動を引き起こしたとすれば、神殿の警備隊に逮捕されていたでしょう。ですから、神の守りの中で主イエスは神殿に警告をしてご自身を示されたわけです。
神殿は「わたしの家」である
主イエスが少年時代に神殿に行かれた時には神殿を「わたしの父の家」と呼ばれました。ここでは旧約聖書イザヤ書を引用して「わたしの家」と呼ばれます。旧約聖書でわたしと言われたのは父なる神ですが、ここで主イエスはそれを「わたしの家」とそのまま引用されました。ここには旧約聖書を引用されただけでなく、主イエスが神殿の所有者であられることが暗示されています。主イエスの家であり、その家の持ち主が、本来の神殿を回復しておられます。
「強盗の巣」との言葉は旧約聖書エレミヤ7:11にあります。エレミヤの預言は旧約聖書で言えば、列王記下21章の後半から25章のエルサレム陥落の時代に与えられました。この時代、人々はエルサレム神殿での礼拝だけでなく偶像礼拝に誘惑され、自分中心の生活を送っていました。その姿を11「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり、わたしにもそう見える、と主は言われる」とエレミヤは主の言葉を語りました。
その時代と主イエスの時代は、重なります。主イエスの時代には異教の神々への礼拝はありませんでしたが金銭が神々として神殿の指導者たちを支配していました。これもまた偶像礼拝です。エルサレム神殿の崩壊とエルサレムの滅亡が繰り返されるのは、生ける神を捨て、また神の救い主であられる主イエスを捨てるからにほかなりません。主イエスは滅亡を見据えながら、ご自身の使命を最後まで全うされます。ご自身の民を愛されたからです。この主イエスの愛の御業によって、異邦人であったわたしたちも生ける神に罪と死の中から救い出されました。そして主の日毎に祈りの家に集い、礼拝を重ねています。ここに一人でも多くの者たちが招かれるように、そして主の恵みと愛を知り、主に仕え主を愛する者が起こされるようにと願ってです。
毎日教える主イエス
この神殿清めの後も、主イエスは毎日神殿で教え続けました。その教えの具体的な内容は20:1以下に語られていきます。「民衆が皆夢中になってイエスの話に聞き入っていた」と記されています。人々は夢中になって聞きました。ここで「夢中になる」と訳されている言葉は、もともとの言葉では「ぶら下がる」という意味の言葉です。
子供が小さい時に、父の腕にぶら下がって遊ぶでしょう。人々は何か信頼できるものにぶら下がり、安心できるところに集まります。それは主イエスの教えに権威があったからです。これまでにも主イエスの教えを聞いて驚いた人々の声が聖書に記されています(マタイ7:28-29)。主イエスが権威ある者として教えられました。この主イエスの言葉が民衆の心に響きました。
敵対者の陰謀
しかし、この時、祭司長、律法学者、民の指導者たちは「イエスを殺そう」と謀っていました。この言葉はもともとの言葉では「彼を滅ぼすことを求め続けていた」と語られています。滅ぼすとは随分乱暴な表現です。それは、何とか合法的に殺す方法はないかとその方法を探し続けていたという意味合いです。主イエスに対するこのような敵意は、既にルカ11:53でも語られており、それがずっと彼らの心の中にありました。
しかし、この時点では多くの民衆が主イエスの周囲に集まっています。主イエスの教えを夢中になって聞いています。ですから、うかつに手を出すことはできませんでした。なぜ、あなたたち祭司長や律法学者たちは主イエスに聞かないのかと逆に問い詰められてしまうでしょう。しかも主イエスは神殿は祈りの家であり、商売で犠牲の動物を高額で売りつけ、献金の両替で高額な利ざやを稼いで礼拝で商売をすることは強盗だと指摘されました。このことは、人々が内心思っていても、神殿の権威に対して、声を上げることのできなかったことでした。それを主イエスは指摘し、排除しました。民衆はこの方こそ礼拝を回復してくださると思ったでしょう。
これらの民衆も後に主イエスの十字架のおりに弟子たちと共に躓きますが、やがて弟子たちのように回心へと導かれて新約聖書の教会に集う者たちとされていきます。それが聖霊降臨によって実現していきます。
今朝も聖書を通して教会で主イエスの教えが語られます。毎週、主イエスが聖霊と共にここでわたしたちを迎えてくださいます。わたしたちもかつては自分の権威に従って生きて来ました。祭司長や律法学者や、民の指導者たちの罪は自分たちにこそ権威があると思っていることです。彼らの権威は、神に仕えていなければ、虚しいものです。自分の権威に頼る者はやがては滅びます。
祈りの家は、神に犠牲をささげて礼拝する神殿です。それが旧約聖書の時代の神殿の役割でした。その神共にいます神殿は、主イエスによって全世界の教会として祈りの家の役割を果しています。今オンラインでもこの祈りの家の礼拝はそれぞれの家庭に配信されています。祈りの家は礼拝の家です。その礼拝と祈りに生きるようにと主イエスが、腕を延ばしてわたしたちを捕らえてくださいました。わたしたちは主イエスに腕を掴まれて主イエスの腕にぶら下がっているのです。祈ります。