聖書の言葉 ルカによる福音書 19章37節~40節 メッセージ 主イエスがエルサレムに向かう道は、エリコからベトファゲとベタニアの近くを通る道でありました。この道は、オリーブ山に向かって延びています。オリーブ山は標高800メートルで、主イエスと弟子たちは、なだらかな斜面を上り、小高い丘という感じの頂上から反対側の谷に向かって100メートル程の高低差の道を下って行きます。丁度下り坂に差しかかったというのは、山の反対側に見えるエルサレム神殿に向かって谷を下りる道に差しかかったということです。 弟子たちの賛美 この時、「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始め」ました。この賛美の様子はもともとの言葉では「喜んで 賛美することを 神を 大きな声で 彼らが見た力ある業すべてについて」と語られています。弟子たちが大声で、喜んで賛美する理由は、主イエスの力ある業のためでした。主イエスには力がありますから、弟子たちも主イエスがエルサレムに到着されると世界が変わると思っていたでしょう。主イエスこそ神の救い主であり王であられると喜び、大きな声で詩編を歌いました。大声での賛美の姿は神による平和の到来を示しています。 彼らが歌った38節は詩編118:26の言葉です。この詩編はエルサレム神殿に王を迎え入れる時に歌われた歌です。38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」とあります。王としてろばの子に乗ってエルサレムに向かって行かれる主イエスのお姿がゼカリヤ9:9の成就ですから、ついに時が来たという喜びであったでしょう。 ここでの弟子たちの理解は主イエスがエルサレムで即位され、そこに新しいユダヤを再建するという期待であったかも知れません。ゼカリヤ9:10には「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」とありました。「エルサレムから軍馬を絶つ」という預言から、ろばの子に乗る主イエスがエルサレムを支配するローマの総督と守備隊を追放するとの期待もあったかもしれません。そして彼らの喜びの背後にも、主イエスが王に即位されれば、自分たちは何か役職につけるかも知れないとの地位と名誉を求める欲もあったかもしれません。そして、彼らの賛美は主イエスの力による平和の期待があったのではないかと思います。神の超自然的な力による勝利です。 天には平和 この賛美の後半を見ますと「天には平和、いと高きところには栄光」とあります。この言葉を聞いてわたしたちが思い起こすのはクリスマスの記事でしょう。主イエスがお生まれになった時に天使たちが羊飼いに現れて告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と語られています。この誕生の告知に続いて夜空に天使の大群が加わり「神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ』」とあります。天使たちは、救い主の誕生によって地に平和が訪れたことを喜び歌いました。オリーブ山の下り坂で、弟子たちは天には平和と歌いました。「いと高き所には栄光」という言葉は同じです。しかし、「地には平和」という言葉はありません。地に与えられる平和はどうなるのでしょうか。王を賛歌で迎える前半の言葉と比べますと、この後半の言葉は少し謎めいています。 そう思いまして、他の福音書を見ますとマタイ福音書21:9には「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」とありました。ルカ福音書のこの後半の言葉はありません。マルコ福音書11:9-10も「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と記されています。こちらもルカ福音書の後半の言葉はありません。比べてみますと、ルカ福音書にはホサナとダビデの子がありません。ホサナは「ああ、救いたまえ」というヘブライ語で、王や神への賛美として用いられる言葉です。ハレル(ほめたたえよ)という言葉と共に詩編でカタカナで表記されるようになりました。 ホサナとダビデの子を用いるマタイとマルコは主イエスのエルサレム入城をダビデの子である約束の王なる救い主の入城として描いています。特にダビデの子は、とても政治色の強い言葉です。ローマの軍隊を蹴散らす約束の王という印象を与えます。それに対してルカは、この箇所を主イエスの大々的な歩みではなくして、むしろガリラヤから来た弟子たちを中心とした入城として描いています。そこでルカだけが記録した言葉、それが「天には平和、いと高き所には栄光」という言葉でした。 神の平和 もともと旧約聖書では、平和は神によって与えられる救いそのものであり、神が与える平安を意味しています。旧約聖書では平和はシャロームという言葉です。この言葉には順調、救済、健在、平安という意味があります。その中には戦争が終わって和平が成立するという意味もありますし、和やかな食卓を共にする人を「わたしの平安の人」とも言います。ですから、今朝共にする聖餐は平和の食卓です。 地上で実現する神との平和は平和の源であられる神からの贈り物です。父なる神、子なる神、聖霊なる神には相互の愛と平和の交わりがあり、この神の平和が地上に生きるわたしたちに与えられます。これがクリスマスです。「地に平和、御心に適う人にあれ」と歌われた通りです。そして救い主がいよいよ、この平和を全世界に与えれるためにエルサレムに行かれます。その時に、地上に与えられた平和と共に天にも平和があると弟子たちは歌いました。 しかしながら、そのように歌う弟子たちはこの後、主イエスが逮捕されると蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいます。そして主イエスは十字架に掛けられ、殺されてしまいます。地の平和が破られてしまいます。けれども、天の平和は決して損なわれることはありません。弟子たちはそれを預言して歌いました。 どれほど地上で罪と悲惨が溢れたとしても、主イエスによってもたらされた平和は失われることはありません。既に聞きましたルカ10:18には、弟子たちの伝道の後で、主イエスが「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と記されています。既に天では主イエスによる勝利が確かなものとされています。しかも、サタンが投げ落とされた地においても、主イエスはクリスマスで既に平和を御心に適う者たちに約束してくださいました。この地には、今も投げ落とされたサタンが暴れていますので、平和を損なう様々な問題があります。けれども、王なる主イエスがエルサレムに向かわれる時に、もはや天の平和は損なわれることはありません。 わたしたちが目にし、耳にする現実は、ロシアとウクライナとの戦争とイスラエル・アメリカとイランとの戦争です。経済やわたしたちの生活にも影響を及ぼし始めています。この争いにもかかわらず、神は無力な神ではなく、平和の神であり、主イエスを神と信ずるわたしたちには真実な平和が既に与えられています。 わたしたちの国には81年間戦争はありませんが、国内の自殺者は昨年は1万9097人でした。1978年の統計以来初めて2万人を割りました。減少していますので対策の効果が出ていると言えます。しかし、イランとアメリカとの戦争の戦死者よりも多いとも思います。戦争はなくても死を選び、しかも、小中高生の自殺者が532人と増加している社会が平和な社会なのかと改めて思います。罪の力が猛威を振るう現実ですが、その罪の世界に主イエスが平和をもたらしました。罪の力を打ち砕く平和です。ですから、わたしたちもまた今朝、弟子たちと共に「天には平和。いと高きところには栄光」と神を喜び歌います。主イエスがこの賛美を引き出してくださるからです。 ファリサイ派の人々の反応 ところが、この賛美を聞いて、ファリサイ派の人々は主イエスに先生、弟子たちを叱ってくださいと語ります。主イエスに敵対して言ったのでしょう。47節には主イエスに対する殺意も語られてるからです。 主イエスはこの忠告は受け入れませんでした。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言われました。民の賛美の声を消すことはできません。主イエスが力ある業をされて人々の心を開き、賛美を与えています。 わたしたちの教会でも、こうして、共に集い弟子の群れとして週に一度声高らかに賛美を捧げています。未だ地で虚しく暴れるサタンの手による悲惨が溢れています。しかし、既に勝利された主イエスによる平和は崩れることはありません。そしてそこにのみ、望みがあります。それが、わたしたちの賛美の心を形造るのです。祈ります。
主イエスがエルサレムに向かう道は、エリコからベトファゲとベタニアの近くを通る道でありました。この道は、オリーブ山に向かって延びています。オリーブ山は標高800メートルで、主イエスと弟子たちは、なだらかな斜面を上り、小高い丘という感じの頂上から反対側の谷に向かって100メートル程の高低差の道を下って行きます。丁度下り坂に差しかかったというのは、山の反対側に見えるエルサレム神殿に向かって谷を下りる道に差しかかったということです。
弟子たちの賛美
この時、「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始め」ました。この賛美の様子はもともとの言葉では「喜んで 賛美することを 神を 大きな声で 彼らが見た力ある業すべてについて」と語られています。弟子たちが大声で、喜んで賛美する理由は、主イエスの力ある業のためでした。主イエスには力がありますから、弟子たちも主イエスがエルサレムに到着されると世界が変わると思っていたでしょう。主イエスこそ神の救い主であり王であられると喜び、大きな声で詩編を歌いました。大声での賛美の姿は神による平和の到来を示しています。
彼らが歌った38節は詩編118:26の言葉です。この詩編はエルサレム神殿に王を迎え入れる時に歌われた歌です。38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」とあります。王としてろばの子に乗ってエルサレムに向かって行かれる主イエスのお姿がゼカリヤ9:9の成就ですから、ついに時が来たという喜びであったでしょう。
ここでの弟子たちの理解は主イエスがエルサレムで即位され、そこに新しいユダヤを再建するという期待であったかも知れません。ゼカリヤ9:10には「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」とありました。「エルサレムから軍馬を絶つ」という預言から、ろばの子に乗る主イエスがエルサレムを支配するローマの総督と守備隊を追放するとの期待もあったかもしれません。そして彼らの喜びの背後にも、主イエスが王に即位されれば、自分たちは何か役職につけるかも知れないとの地位と名誉を求める欲もあったかもしれません。そして、彼らの賛美は主イエスの力による平和の期待があったのではないかと思います。神の超自然的な力による勝利です。
天には平和
この賛美の後半を見ますと「天には平和、いと高きところには栄光」とあります。この言葉を聞いてわたしたちが思い起こすのはクリスマスの記事でしょう。主イエスがお生まれになった時に天使たちが羊飼いに現れて告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と語られています。この誕生の告知に続いて夜空に天使の大群が加わり「神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ』」とあります。天使たちは、救い主の誕生によって地に平和が訪れたことを喜び歌いました。オリーブ山の下り坂で、弟子たちは天には平和と歌いました。「いと高き所には栄光」という言葉は同じです。しかし、「地には平和」という言葉はありません。地に与えられる平和はどうなるのでしょうか。王を賛歌で迎える前半の言葉と比べますと、この後半の言葉は少し謎めいています。
そう思いまして、他の福音書を見ますとマタイ福音書21:9には「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」とありました。ルカ福音書のこの後半の言葉はありません。マルコ福音書11:9-10も「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と記されています。こちらもルカ福音書の後半の言葉はありません。比べてみますと、ルカ福音書にはホサナとダビデの子がありません。ホサナは「ああ、救いたまえ」というヘブライ語で、王や神への賛美として用いられる言葉です。ハレル(ほめたたえよ)という言葉と共に詩編でカタカナで表記されるようになりました。
ホサナとダビデの子を用いるマタイとマルコは主イエスのエルサレム入城をダビデの子である約束の王なる救い主の入城として描いています。特にダビデの子は、とても政治色の強い言葉です。ローマの軍隊を蹴散らす約束の王という印象を与えます。それに対してルカは、この箇所を主イエスの大々的な歩みではなくして、むしろガリラヤから来た弟子たちを中心とした入城として描いています。そこでルカだけが記録した言葉、それが「天には平和、いと高き所には栄光」という言葉でした。
神の平和
もともと旧約聖書では、平和は神によって与えられる救いそのものであり、神が与える平安を意味しています。旧約聖書では平和はシャロームという言葉です。この言葉には順調、救済、健在、平安という意味があります。その中には戦争が終わって和平が成立するという意味もありますし、和やかな食卓を共にする人を「わたしの平安の人」とも言います。ですから、今朝共にする聖餐は平和の食卓です。
地上で実現する神との平和は平和の源であられる神からの贈り物です。父なる神、子なる神、聖霊なる神には相互の愛と平和の交わりがあり、この神の平和が地上に生きるわたしたちに与えられます。これがクリスマスです。「地に平和、御心に適う人にあれ」と歌われた通りです。そして救い主がいよいよ、この平和を全世界に与えれるためにエルサレムに行かれます。その時に、地上に与えられた平和と共に天にも平和があると弟子たちは歌いました。
しかしながら、そのように歌う弟子たちはこの後、主イエスが逮捕されると蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいます。そして主イエスは十字架に掛けられ、殺されてしまいます。地の平和が破られてしまいます。けれども、天の平和は決して損なわれることはありません。弟子たちはそれを預言して歌いました。
どれほど地上で罪と悲惨が溢れたとしても、主イエスによってもたらされた平和は失われることはありません。既に聞きましたルカ10:18には、弟子たちの伝道の後で、主イエスが「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と記されています。既に天では主イエスによる勝利が確かなものとされています。しかも、サタンが投げ落とされた地においても、主イエスはクリスマスで既に平和を御心に適う者たちに約束してくださいました。この地には、今も投げ落とされたサタンが暴れていますので、平和を損なう様々な問題があります。けれども、王なる主イエスがエルサレムに向かわれる時に、もはや天の平和は損なわれることはありません。
わたしたちが目にし、耳にする現実は、ロシアとウクライナとの戦争とイスラエル・アメリカとイランとの戦争です。経済やわたしたちの生活にも影響を及ぼし始めています。この争いにもかかわらず、神は無力な神ではなく、平和の神であり、主イエスを神と信ずるわたしたちには真実な平和が既に与えられています。
わたしたちの国には81年間戦争はありませんが、国内の自殺者は昨年は1万9097人でした。1978年の統計以来初めて2万人を割りました。減少していますので対策の効果が出ていると言えます。しかし、イランとアメリカとの戦争の戦死者よりも多いとも思います。戦争はなくても死を選び、しかも、小中高生の自殺者が532人と増加している社会が平和な社会なのかと改めて思います。罪の力が猛威を振るう現実ですが、その罪の世界に主イエスが平和をもたらしました。罪の力を打ち砕く平和です。ですから、わたしたちもまた今朝、弟子たちと共に「天には平和。いと高きところには栄光」と神を喜び歌います。主イエスがこの賛美を引き出してくださるからです。
ファリサイ派の人々の反応
ところが、この賛美を聞いて、ファリサイ派の人々は主イエスに先生、弟子たちを叱ってくださいと語ります。主イエスに敵対して言ったのでしょう。47節には主イエスに対する殺意も語られてるからです。
主イエスはこの忠告は受け入れませんでした。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言われました。民の賛美の声を消すことはできません。主イエスが力ある業をされて人々の心を開き、賛美を与えています。
わたしたちの教会でも、こうして、共に集い弟子の群れとして週に一度声高らかに賛美を捧げています。未だ地で虚しく暴れるサタンの手による悲惨が溢れています。しかし、既に勝利された主イエスによる平和は崩れることはありません。そしてそこにのみ、望みがあります。それが、わたしたちの賛美の心を形造るのです。祈ります。