聖書の言葉 ルカによる福音書 19章28節~36節 メッセージ 主イエスの旅がいよいよ、頂点に向かいます。この前の段落で主イエスwwwa はエリコの町のザアカイの家におりました。そこで主はムナのたとえを語 り、その後で「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサ レムに上って行かれ 」ます。主イエスが先頭に立ってエルサレムに上って 行かれます。そのエルサレムの手前に、ベトファゲとベタニアという村が ありました。ベタニアはヨハネによる福音書ですと、マリアとマルタとラ ザロの兄弟が住んでいた村でした。主イエスにとっては馴染みの村であっ たと思います。マリアとマルタの家への訪問はルカでは10:38以下に 記されていました。主イエスがエルサレムに行く時には度々立ち寄られた のでしょう。 1.二人の弟子の派遣 そこで主イエスは二人の弟子を遣わします。エルサレム入城のために乗 り物としてろばの子を必要とされたからです。30節「向こうの村へ行き なさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであ るのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『 なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」 と命じています。 ろばの子に乗る人は、今朝共に聞きました旧約聖書ゼカリヤ書では謙遜 な王の到来の預言の中で語られていました。「見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」と記されています。主イエスはこの預言 の成就としてこの時にろばの子を必要とされました。 この前の段落でも、ムナのたとえで「王の位を受けて帰るために、遠い 国に旅立つことになった」貴族が出てきます。そしてこの方が王に即位し て戻ってきてムナを渡した僕と清算をすることが語られていました。そこ でも遠い国へ旅立って戻る王がテーマの一つでした。そしてここでは未使 用のろばの子に乗る王が主題です。即位して戻る王は、再臨の主イエスを たとえています。主イエスは、ここではろばの子に乗ることでゼカリヤ書 の預言を実現される王であられることを示しています。 旧約聖書には誰も用いたことのない動物を特別な働きのために用いたこ とが記されています。民19:2に「まだ、背に軛を負ったことがなく、 無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。それを祭司エルア ザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る」とあります。ここ には罪を贖う犠牲として誰も用いたことのない牛が用いられることが記さ れています。ここでろばの子は主イエスが平和の王であられることを示し、 主イエスがこれからエルサレムで果たされる特別なつとめを示すために用 いられています。軍馬や戦車に乗って凱旋する王は力による平和を象徴す るかも知れません。ユダヤ人の伝承ではろばは平和な性質を持っていたと のことです。ですから、このろばの子に乗る平和の王は、未使用のろばの 子に乗ることでエルサレムでの十字架の犠牲を暗示しているわけです。そ れはこの後ルカ福音書を聞いていく中で明らかになっていきます。 2.主がお入り用なのです。 弟子たちは遣いに出されましたが、ろばの子を勝手に持って来るわけに は行きません。持ち主に何か言われるに違いありません。ですから、もし もだれかが「なぜほどくのか」と問われたら、主がお入り用なのですと言 いなさいと主イエスは語りました。 弟子たちが出かけていくと主イエスが言われた通り、そこにまだ誰も用 いていないろばの子がつながれていました。恐らくそれは母ろばの近くに いた子ろばであったでしょう。使われているろばであれば、背中に乗りや すいような布が付けられていたと思われます。 こうして二人の弟子は、見つけたろばの子をほどき始めました。すると その持ち主が出てきて「なぜ、子ろばをほどくのか」と言いました。勝手 に何しているのかということでしょう。そこで弟子たちは「主がお入り用 なのです」と主イエスに言われた通りに答えました。 事前に主イエスとろばの提供者とで打ち合わせが出来ていたのかも知れ ません。そうであれば、主イエスのためにろばを用意していた人は主の弟 子たちの仲間ということになります。しかし、遣わされた弟子たちとは面 識の無い支援者でした。 後に、主イエスが最後の晩餐をされる時にも、既に主イエスを支える人 々が用意のできた二階の座敷を整えていました。それもまた不思議な準備 として記されています(ルカ22:7-13参照)。 ここでも主イエスを支える者たちがベタニア近郊にいたのでしょう。弟 子たちはそこでろばの子を見いだしました。「主がお入り用なのです」と いう言葉が言わば合言葉でした。もともとの言葉では「それの主人が、必 要としている」と語られています。ろばの主人は持ち主ですが、そのろば の本当の主人がいる。そのろばは本当の主人に用いられるために、準備さ れ、誰にも用いられずに待機していました。今本当の目的のために用いら れます。本当の主人、それが主イエスであるというわけです。 ですから、ここでは主役はろばの子の本当の主人である主イエスです。 そして平和の王として預言を成就される主イエスが中心におられ、先立っ て行かれます。主イエスの十字架に向かうご生涯へと大きく舵が切られま す。主イエスがエルサレムでの最後の時を迎えるからです。 しかし、この箇所からこのろばに心惹かれる方たちがありました。主イ エスをお乗せするために用いられたろばの子のように主に仕えたいと願う 者たちです。 3.ちいろばとして生きる その一人に榎本保郎牧師がおられました。既に亡くなりましたが日本キ リスト教団の牧師として奉仕した牧師です。この榎本牧師が「ちいろば」 という本を記しています。この本は、今治教会で牧師をしていた時に週報 に寄稿した自伝に加筆したものです。福音派の方たちにはよく知られた方 で、三浦綾子さんが榎本牧師の伝記も記しています。 「ちいろば」という題名は、ここで主イエスがお入り用なのですと言っ て取りに行かせた、誰も乗ったことのない小さいろばから取られた題名で した。自分もこの小さなろばのように主イエスの役に立ちたいとの願いか らです。主がお入り用なのですと主イエスに言われた時に、わたしたちは どのように答えるのか、それは一つの問でしょう。ろばの子はおとなしく 弟子たちに引かれて主イエスのもとに連れて行かれました。ろばは動物で すから、実際何が起こるのかは分かりませんが、このろばの子はこの後主 イエスをお乗せしてエルサレムに行くわけです。 弟子たちの言葉に対して、ろばの持ち主はこのろばを差し出しました。 ですから主導権を取っておられるのは主イエスです。主イエスが乗るため のろばの子であり、ろばが主役ではありません。しかし、その主イエスが 必要とする物がある。榎本牧師は、自分もまたこのちいさいろばのように 主が必要としてくださったと理解して生涯主イエスに仕えました。 主の働きのために、用いられるろばの子は決定的な働きをしますが、主 イエスをお乗せする働きしかいたしません。この後、主イエスはエルサレ ムの町をもっぱら歩いて過ごされます。それでも、主がお入り用なのです と言われたときに、用いられたろばでした。 既にわたしたちの一人一人が、主イエスのものとされて、あなたをわた しは必要としていると語られて救いへと導かれました。それによってわた したちは本当の慰めを得ました。 ハイデルベク信仰問答の問1は、唯一の慰めとは何かと問いまして「わ たしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わた しの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と告白してい ます。わたしたちの本来のオーナーは主イエスであられます。その主イエ スがわたしを、わたしたちを必要としています。そしてお入り用であると 呼び出してくださっています。それがわたしたちの救いです。そして救わ れて主イエスに従い、主のお働きのために用いられる器とされています。 主イエスはわたしたちを救いに招き、必要としていることを悟らせるた めに十字架の道を歩まれます。弟子たちはこの子ろばを主イエスのもとに 引いてきました。そしてその上に、主イエスが乗れるように服をかけまし た。主イエスはろばの子の背に乗りエルサレムに向かって進んで行かれま す。主イエスとろばの子が主役級で進んで行かれます。 28節で先立って進まれた主は、ろばの子に乗られてさらに「進んで行 かれます。」この主イエスの通られる道々、人々は自分の服を脱いで道に 敷いて、主イエスが通られる道を整えました。これは人々が主イエスを王 として迎えて敬意を現し、栄誉を帰す行為でした。 王がエルサレムに入られます。ゼカリヤ書を思い起こしながら、人々は 平和の王の行進に連なりました。わたしたちをも必要としてくださる平和 の王が来られました。この方こそ救い主イエス・キリストです。この方こ そ、わたしたちの主人としてわたしたちを必要としてくださるお方なので す。祈ります。
主イエスの旅がいよいよ、頂点に向かいます。この前の段落で主イエスwwwa
はエリコの町のザアカイの家におりました。そこで主はムナのたとえを語
り、その後で「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサ
レムに上って行かれ 」ます。主イエスが先頭に立ってエルサレムに上って
行かれます。そのエルサレムの手前に、ベトファゲとベタニアという村が
ありました。ベタニアはヨハネによる福音書ですと、マリアとマルタとラ
ザロの兄弟が住んでいた村でした。主イエスにとっては馴染みの村であっ
たと思います。マリアとマルタの家への訪問はルカでは10:38以下に
記されていました。主イエスがエルサレムに行く時には度々立ち寄られた
のでしょう。
1.二人の弟子の派遣
そこで主イエスは二人の弟子を遣わします。エルサレム入城のために乗
り物としてろばの子を必要とされたからです。30節「向こうの村へ行き
なさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであ
るのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『
なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」
と命じています。
ろばの子に乗る人は、今朝共に聞きました旧約聖書ゼカリヤ書では謙遜
な王の到来の預言の中で語られていました。「見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って」と記されています。主イエスはこの預言
の成就としてこの時にろばの子を必要とされました。
この前の段落でも、ムナのたとえで「王の位を受けて帰るために、遠い
国に旅立つことになった」貴族が出てきます。そしてこの方が王に即位し
て戻ってきてムナを渡した僕と清算をすることが語られていました。そこ
でも遠い国へ旅立って戻る王がテーマの一つでした。そしてここでは未使
用のろばの子に乗る王が主題です。即位して戻る王は、再臨の主イエスを
たとえています。主イエスは、ここではろばの子に乗ることでゼカリヤ書
の預言を実現される王であられることを示しています。
旧約聖書には誰も用いたことのない動物を特別な働きのために用いたこ
とが記されています。民19:2に「まだ、背に軛を負ったことがなく、
無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。それを祭司エルア
ザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る」とあります。ここ
には罪を贖う犠牲として誰も用いたことのない牛が用いられることが記さ
れています。ここでろばの子は主イエスが平和の王であられることを示し、
主イエスがこれからエルサレムで果たされる特別なつとめを示すために用
いられています。軍馬や戦車に乗って凱旋する王は力による平和を象徴す
るかも知れません。ユダヤ人の伝承ではろばは平和な性質を持っていたと
のことです。ですから、このろばの子に乗る平和の王は、未使用のろばの
子に乗ることでエルサレムでの十字架の犠牲を暗示しているわけです。そ
れはこの後ルカ福音書を聞いていく中で明らかになっていきます。
2.主がお入り用なのです。
弟子たちは遣いに出されましたが、ろばの子を勝手に持って来るわけに
は行きません。持ち主に何か言われるに違いありません。ですから、もし
もだれかが「なぜほどくのか」と問われたら、主がお入り用なのですと言
いなさいと主イエスは語りました。
弟子たちが出かけていくと主イエスが言われた通り、そこにまだ誰も用
いていないろばの子がつながれていました。恐らくそれは母ろばの近くに
いた子ろばであったでしょう。使われているろばであれば、背中に乗りや
すいような布が付けられていたと思われます。
こうして二人の弟子は、見つけたろばの子をほどき始めました。すると
その持ち主が出てきて「なぜ、子ろばをほどくのか」と言いました。勝手
に何しているのかということでしょう。そこで弟子たちは「主がお入り用
なのです」と主イエスに言われた通りに答えました。
事前に主イエスとろばの提供者とで打ち合わせが出来ていたのかも知れ
ません。そうであれば、主イエスのためにろばを用意していた人は主の弟
子たちの仲間ということになります。しかし、遣わされた弟子たちとは面
識の無い支援者でした。
後に、主イエスが最後の晩餐をされる時にも、既に主イエスを支える人
々が用意のできた二階の座敷を整えていました。それもまた不思議な準備
として記されています(ルカ22:7-13参照)。
ここでも主イエスを支える者たちがベタニア近郊にいたのでしょう。弟
子たちはそこでろばの子を見いだしました。「主がお入り用なのです」と
いう言葉が言わば合言葉でした。もともとの言葉では「それの主人が、必
要としている」と語られています。ろばの主人は持ち主ですが、そのろば
の本当の主人がいる。そのろばは本当の主人に用いられるために、準備さ
れ、誰にも用いられずに待機していました。今本当の目的のために用いら
れます。本当の主人、それが主イエスであるというわけです。
ですから、ここでは主役はろばの子の本当の主人である主イエスです。
そして平和の王として預言を成就される主イエスが中心におられ、先立っ
て行かれます。主イエスの十字架に向かうご生涯へと大きく舵が切られま
す。主イエスがエルサレムでの最後の時を迎えるからです。
しかし、この箇所からこのろばに心惹かれる方たちがありました。主イ
エスをお乗せするために用いられたろばの子のように主に仕えたいと願う
者たちです。
3.ちいろばとして生きる
その一人に榎本保郎牧師がおられました。既に亡くなりましたが日本キ
リスト教団の牧師として奉仕した牧師です。この榎本牧師が「ちいろば」
という本を記しています。この本は、今治教会で牧師をしていた時に週報
に寄稿した自伝に加筆したものです。福音派の方たちにはよく知られた方
で、三浦綾子さんが榎本牧師の伝記も記しています。
「ちいろば」という題名は、ここで主イエスがお入り用なのですと言っ
て取りに行かせた、誰も乗ったことのない小さいろばから取られた題名で
した。自分もこの小さなろばのように主イエスの役に立ちたいとの願いか
らです。主がお入り用なのですと主イエスに言われた時に、わたしたちは
どのように答えるのか、それは一つの問でしょう。ろばの子はおとなしく
弟子たちに引かれて主イエスのもとに連れて行かれました。ろばは動物で
すから、実際何が起こるのかは分かりませんが、このろばの子はこの後主
イエスをお乗せしてエルサレムに行くわけです。
弟子たちの言葉に対して、ろばの持ち主はこのろばを差し出しました。
ですから主導権を取っておられるのは主イエスです。主イエスが乗るため
のろばの子であり、ろばが主役ではありません。しかし、その主イエスが
必要とする物がある。榎本牧師は、自分もまたこのちいさいろばのように
主が必要としてくださったと理解して生涯主イエスに仕えました。
主の働きのために、用いられるろばの子は決定的な働きをしますが、主
イエスをお乗せする働きしかいたしません。この後、主イエスはエルサレ
ムの町をもっぱら歩いて過ごされます。それでも、主がお入り用なのです
と言われたときに、用いられたろばでした。
既にわたしたちの一人一人が、主イエスのものとされて、あなたをわた
しは必要としていると語られて救いへと導かれました。それによってわた
したちは本当の慰めを得ました。
ハイデルベク信仰問答の問1は、唯一の慰めとは何かと問いまして「わ
たしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わた
しの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と告白してい
ます。わたしたちの本来のオーナーは主イエスであられます。その主イエ
スがわたしを、わたしたちを必要としています。そしてお入り用であると
呼び出してくださっています。それがわたしたちの救いです。そして救わ
れて主イエスに従い、主のお働きのために用いられる器とされています。
主イエスはわたしたちを救いに招き、必要としていることを悟らせるた
めに十字架の道を歩まれます。弟子たちはこの子ろばを主イエスのもとに
引いてきました。そしてその上に、主イエスが乗れるように服をかけまし
た。主イエスはろばの子の背に乗りエルサレムに向かって進んで行かれま
す。主イエスとろばの子が主役級で進んで行かれます。
28節で先立って進まれた主は、ろばの子に乗られてさらに「進んで行
かれます。」この主イエスの通られる道々、人々は自分の服を脱いで道に
敷いて、主イエスが通られる道を整えました。これは人々が主イエスを王
として迎えて敬意を現し、栄誉を帰す行為でした。
王がエルサレムに入られます。ゼカリヤ書を思い起こしながら、人々は
平和の王の行進に連なりました。わたしたちをも必要としてくださる平和
の王が来られました。この方こそ救い主イエス・キリストです。この方こ
そ、わたしたちの主人としてわたしたちを必要としてくださるお方なので
す。祈ります。