2021年06月13日「「律法か信仰か」」

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聖書の言葉

ガラテヤの信徒への手紙 3章10節~12節

メッセージ

コロナ禍の中でも礼拝が守られ支えられておりますことを神様に感謝い

たします。神様の守りと憐れみによることと改めて思います。この6月の

第二主日から船橋高根教会の歩みも59年目に入ります。この危機の中で

わたしたちも感染予防に努めながら、神様の助けを祈り求め、自粛中の方

たちのために動画配信を行い、必要な対応を続けています。ここにもわた

したちに与えられている神様の現実的な祝福があります。そして、それは

アブラハムに約束された神の祝福に、わたしたちもこの時代、この地域で

与っているからです。神は主イエスによって、わたしたちの神になってく

ださいました。神はわたしたちへの契約の義務を負われ、わたしたちを愛

し支えてくださいます。

     

1.祝福の反対とは

 それでは祝福の反対は何でしょうか。それは聖書では呪いと語られてい

ます。呪いという言葉は、わたしたち自身も日常ではほとんど用いないと

思います。怖い言葉です。しかし、ここでの呪いは、人と人の間の呪いで

はなく神との関係でのことです。今朝は申命記27:26を共に聞きまし

た。「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らない者は皆、呪

われている」(ガラテヤ3:10) とありました。これは申命記27:9

-26の段落の結びの言葉の引用です。申命記は、荒れ野の40年の後に、

イスラエルの民がいよいよ約束の土地に入る前に語られた言葉です。

 エジプトから助け出された後、シナイ山で契約を更新した民が約束の土

地に向かう時、偵察隊の報告を聞いて、最初の世代の多くは恐れ戦き、神

に信頼して土地に向かうのではなくエジプトに戻りたいと不信仰な態度を

取りました。その結果、神はその世代が死に絶えるまで40年間イスラエ

ルの民を荒れ野で放浪させました。その世代の者たちにとっては厳しい裁

きでしたが、次の世代にとっては神の祝福を信じて将来を期待する信仰を

学ぶ時でした。

 そして40年が経ち、時が満ちて出発するイスラエルの民に、神様は、

改めて戒めに聞き従うようにと語りました。申命記11:26「見よ、わ

たしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く」と語り、主の戒めに従

うならば祝福を、主の戒めに聞き従わず他の神々に従うならば呪いを受け

ると宣告されます。

 この戒めは十戒を中心とした様々な戒めを含んでいます。ですから、戒

めに従うことは、アブラハムとの契約に入れられた者の義務であり特権で

した。戒めは、それを行ったから契約に入れられるものではありません。

契約に入れられた者が、契約の民として生きるための指針です。しかし、

戒めに聞き従わず、偶像礼拝に堕落したら呪われるわけです。呪われると

いうことは、契約から排除されるということでした。

     

2.誰が呪われているのか。

 パウロは、異邦人キリスト者は主イエスを信ずる信仰によってアブラハ

ムの契約に入れられて祝福されていることを語りました。しかし、続けて

その異邦人キリスト者たちを惑わすユダヤ人キリスト者たちに呪いを宣告

しています。それがここでの文脈です。ユダヤ人キリスト者はびっくりし

たと思います。

 冗談じゃない。割礼を施さない異邦人キリスト者が、律法に従って割礼

をしないので呪われているのであって、自分たちはキリスト者とは言えユ

ダヤ人であり、アブラハムの子孫であり、律法を実行している。だから自

分たちが祝福されており、アブラハムの祝福に入るためには、異邦人キリ

スト者と言えども、割礼を受けてユダヤ人の戒めを守らなければならない

というわけです。

 なぜなら、申命記がそのように語っているではないかと、彼らも主張し

たでしょう。確かに、主イエスが来られる前であれば、アブラハムの契約

に入るためには、ユダヤ人の戒めを守り、割礼を受けてユダヤ教徒になら

なければなりませんでした。もちろん、戒めを完全に守ることは不可能で

す。ユダヤ人もそのことを知っていましたし、パウロ自身もよく知ってい

ました。

 パウロ自身生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではな

いと語ることができました。旧約聖書に教えられた戒めはユダヤ人と異邦

人=他の神々を拝む人々との区別を明確に語っています。それは救い主が

来るまでは、神の契約の民が守られなければならなかったからです。

 ところが、神様は、もともと、アブラハムとの契約と祝福の中に異邦人

の祝福を入れておられます。それはユダヤ人だけでなく、全世界の人々を

神との交わりに招くためでした。その神の約束が実現するまでは、祝福は

神の戒めに従うユダヤ人に限定されていました。ですから、ユダヤ人には

呪いも警告されていたわけです。

 呪われないために彼らは戒めに従いましたが、その努力と熱心は時に偽

善と名誉欲の失敗も招き、主イエスに批判されました。しかし、彼らは先

祖の失敗を繰り返さないために律法に熱心になり、異教徒と自分たちを区

別してきました。そのように生きた人々はファリサイ派と呼ばれるユダヤ

人のグループです。パウロはそのファリサイ派の一人でした。ですから、

パウロ自身も戒めに従って、イエスを神だと信ずるユダヤ人たちを神を冒

涜する者として迫害していたわけです。ところが、そのパウロに復活され

た主イエスが現れました。パウロの回心体験は、ガラテヤ書では1:12

に記されています。それは目からうろこの体験であったことはこれまでも

申し上げてきたことです。

 そして、パウロは、主イエスがアブラハムの契約を成就するために来ら

れたことを悟りました。それは異邦人の祝福の時が来たということです。

それにもかかわらず、主イエスを信じてキリスト者となったユダヤ人キリ

スト者たちが、割礼割礼と騒ぐのは、呪いでしかないとパウロはここで警

告しています。

 彼らも信仰により、恩恵によって救われることは知っていました。行い

によるわけではありません。しかし、割礼を受けない異邦人キリスト者は

救いと契約から排除されると考えました。つまり呪われているわけです。

割礼等の戒めによって彼らは異邦人を救いから除外しています。そうなる

と主イエスを信じるだけで救われる異邦人の救いは否定され、主イエスの

救いの力を否定することになり、神の計画に敵対することになります。そ

れが彼らの呪いの状況でした。

     

3.義人は信仰によって生きる

 さらに、パウロは預言者ハバクク書を引用して、「ただしい者は信仰に

よって生きる」と語ります。それは既に8-9節で語られていたように、

主イエスへの信仰によるならば、ユダヤ人も異邦人も共に神の民とされる

ということです。割礼は契約のしるしであり救いの条件ではありません。

誤解を恐れずに言えば、救いの条件は信仰です。しかも、信仰は神からの

賜物であり、アブラハムへの招きも、神の恵みであり、パウロの回心こそ

が、神の恵みでした。

 パウロはそれでも頑なに否定して拒絶することもできたでしょう。しか

し、主イエスの突然の現れと言葉によって自分の確固とした信念が砕かれ

て、もはや主イエスにひれ伏す以外にありませんでした。自分が異邦人の

ような罪人ではなく、アブラハムの契約に入れられた義人だと思っていた

らとんでもない罪人であったことが分かったからです。その回心と主イエ

スへの信仰は、主イエスによる一方的な恵みであったわけです。

 しかし、ユダヤ人キリスト者たちは、先祖の歴史を踏まえて律法を大切

にしてきた先祖の伝統に慣れ親しんでいました。主イエスを受け入れてキ

リスト者とされましたが、ユダヤ人としての生きかたから離れられません

でした。  

 むしろ、彼らから見たらパウロこそ、かつては教会の迫害者であり、今

は律法を軽んじるのかという不満があったでしょう。しかし、パウロは異

邦人に割礼を要求し続けるならばあなたたちこそが呪われてしまうと警告

し、それが「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」ことに

なると語ります。これは自分たちの律法の実践にこだわるなら、その責任

を問われるということです。

 歴史を見ますと、この後、紀元66年から始まったユダヤ戦争によって

紀元70年にエルサレムは陥落し神殿は壁だけを残して瓦礫となりユダヤ

教の中心地はなくなり、ユダヤ人キリスト者の中心であったエルサレム教

会も失われ、エルサレムから逃れたユダヤ人キリスト者たちも異邦人キリ

スト者たちと共に歩み、教会の軸は異邦人キリスト者へと移って行きまし

た。

 神様はアブラハムにされた約束を歴史の中で実現されました。それによ

り、異邦人であるわたしたちにまで福音が届けられました。わたしたちの

救いは、いつでも神の憐れみと恵みによります。そして救われた者が、新

しい契約の一員として日々悔い改めて神と隣人を愛して生きているわけで

す。キリストによる契約の更新と異邦人への招きと救いにわたしたちも入

れられているのです。祈ります。