2026年04月12日「神の国が来るまでに」

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神の国が来るまでに

日付
日曜朝の礼拝
説教
小峯明 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章11節~27節

聖書の言葉

ルカによる福音書 19章11節~27節

メッセージ

 先週はイースターの記念礼拝でしたので、ルカ福音書の連続講解説教は一回休みました。今朝からまたルカ福音書に戻ります。

1. たとえを語る理由  

「人々がこれらのことに聞き入っているとき」とあります。この前の段落で主イエスはザアカイを発見し、彼の家に迎え入れられました。ザアカイは悔い改めを語り、主イエスは救いの到来を告げました。人々はそれを聞いていました。続けて主イエスは人々にたとえを語られました。

「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」です。たとえを語る理由の一つ目は主イエスがエルサレムに近づいておられたからです。そこで、主イエスはエルサレムでご自身に起こることをたとえの中で語られます。14節と27節です。

二つ目は人々の神の国実現の期待です。それはダビデ王家の再建という政治的な独立の期待です。ユダヤはローマ帝国の支配の下でヘロデ大王とその子らによる統治のもとにあり、かつてのダビデ・ソロモン時代の独立した王国は失われていたからです。しかし、主イエスは神の国は人々の期待するような形で現れるのではないことをたとえを用いて語ります。

「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」とあります。彼は十人の僕を呼んで十ムナの金を渡して、「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」と命じました。

このことから、高貴な主人が、王の位を得て帰って来るまでに時間が掛かることがわかります。同様に、神の国が現れるまでにも時間が必要です。ここで高貴な主人は主イエスをたとえており、王に即位するために遠い国に旅立つことは、主イエスがこの後エルサレムで敵対者たちに十字架で処刑されて三日目に復活されて、天に帰られることを示しています。マタイ福音書28:18には復活された主イエスが「天と地の一切の権能を授かっている」と宣言しておられます。その王となられた主イエスが再び戻って来られる時に、神の国は目に見える形で完成するわけです。このような即位の仕方は当時のローマ世界では実際になされていました。ローマ帝国の支配下で各地域の領主たちはそれらの地域を統治するためにローマ皇帝の認可が必要であったからです。このたとえの背後にはそのような現実の実践がありました。

2. ムナのたとえ

そこで、主人は十人に一ムナずつを渡して「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言いました。ここでは全員に同じ金額が渡されています。この後、王位を受けて帰って来ると主人は清算をします。最初の人は十ムナ、二番目の人は五ムナをもうけました。王が帰国して清算を始めるまでにどのように命じられたことを果たしたのかが問われています。最初の人に主人は「良い僕だ。良くやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」、二番目の僕には「五つの町を治めよ」と報いを与えました。渡されたお金を元手に利益がでたからです。  

ところが、三番目の僕が問題です。彼は、一ムナを布に包んでしまっていました。確かに、商売は失敗することがあります。投資も元本割れになれば損失です。彼は言われたように商売をしませんでした。しかし、なぜそうしたのかが問題です。

商売にしても投資にしても、慎重に取り組むことは世の習いです。けれども、この僕は「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と語りました。リスクを恐れたのは主人の厳しさを恐れたからでした。ですから、あなたが厳しい方なのが問題だと言うわけです。この主人が再び戻ってこられる主イエスをたとえていることを申しましたがこの姿は主イエスの姿でしょうか。このたとえが主イエスが再び来られる時に神の国が完成し、目に見える形で現れるとするならば、この僕は主イエスを全く誤解しています。

主人は、渡されたものを忠実に用い、運用することを願っています。ここでは金額は皆一定でした。同じものを預かります。しかし、十人十色、機会や能力に差もあるでしょう。状況もそれぞれ異なります。けれども、同じものをそれなりに用い、商売をする。それでよいのです。13節で主人は「商売をしなさい」と命じました。それは当然利益を出すことが前提とされていますが、数字の目標は語られていません。むしろ銀行に預けておいても良かったとあります。運用すること、そのために祈り、知恵を求め、最善を尽くして主イエスに従うことが求められています。ところが、彼は主人を信頼することもなく、また主人から信頼されている事も理解できませんでした。

ザアカイの記事と比べればこの僕も主イエスに呼び出された人です。主イエスに発見された人でした。その恵みが分かりませんでした。むしろ、ああ、呼び出されてしまった。なんという不幸、なんという災いと思ってしまいました。主イエスとのこのような不幸な出会いもあるかも知れません。ですからこれは警告であり、そうであってはならないことを教えています。僕は主イエスが再び来られる間に、主イエスに仕える弟子たちを示しています。弟子として託された使命を果たすことが大切です。しかし、主イエスの弟子にされることは負担だと彼は思いました。だから、増やすこともないが、減らすこともなく、時を過ごしました。しかし、それは主人の喜ぶことではありませんでした。

主人は「悪い僕だ」と厳しく問われました。そして、彼の言葉のゆえにお前を裁こうと語り、与えられた一ムナを取り上げて十ムナ持っている者に与えよと命じました。彼の問題は主人の信頼を負担に思い、信頼して従わなかったことです。その不信頼のゆえに裁かれます。これを見ていた他の僕たちも驚きました。けれども主人は「誰でも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」と答えます。  

わたしたちが今生きているこの時代も、神の国はすぐにも現れるのかどうか、分かりません。ただ言えることは、主人はいつ帰って来られるかわかりません。その主人がわたしたちにもムナを与えて商売しなさいと命じています。譬えの商売が何を意味し、ムナが何を意味しているのかは必ずしも明確ではありません。ただ、主人は僕であるわたしたちをも呼び出してくださり、主人のお金を分けて渡してくださいました。わたしたちは主イエスから預かったものを主イエスが喜ばれるように用いることで十分でしょう。失敗を恐れることなく用いればよいわけです。必ず主イエスは再び来られて清算してくださるからです。

3. 主イエスの苦難と最後の審判の予告

しかし、先に申しましたこの譬えには14節と27節があります。主イエスがエルサレムで十字架に掛けられることが、14節で「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」と語られていることに暗示されています。

そして、このように主イエスを拒絶した国民に対する裁きが、27節で「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前に打ち殺せ」と語られています。それが主イエスの再臨と最後の審判の予告です。

これが主イエスがエルサレムに近づいておられたところでこのたとえを語られた理由です。そしてこの主イエスに対する拒絶と裁きの中にムナのたとえが折り込まれています。それによって神の国は、すぐにも目に見える形では来ませんが、それまでの間に僕たちは託されたムナを用いて商売をすることが求められているわけです。

この貴族が王となることに反対している国民は彼が王として帰国した後に処刑されます。彼らもまた、主人の不在の間は生き続けます。しかし、最後には裁きを受けます。

この王位を望まない国民の姿は、主イエスを拒否して十字架に追いやるユダヤ人を暗示しています。いつもお話していますが、主イエスが来られる前に、わたしたちが主イエスのもとに召されるかも知れません。昨日はI姉の葬儀を入所していた施設で行いました。I姉は渡された一ムナを用いて役員、信徒として神と教会と隣人に仕えました。朝午後礼拝と祈祷会を熱心に守られました。世にあっても福祉の奉仕をされました。ご本人は何もしていないと言われるでしょうが、今、その魂は天にあげられて「良い僕だ。よくやった。」と語られていることでしょう。

もちろん、わたしたちは最後まで健康で、何不自由なく過ごせるわけではありません。I姉も独居の寂しさもありましたし、腰の圧迫骨折の苦しみもあり、また認知能力の低下を嘆いておられました。それでも、できる時にできることをし、主の帰りを待ちつつ先に主の時を迎えて召されました。できるときにすればよいわけです。出来ない時にはできません。今、わたしたちも主イエスに呼び出されてここにおります。できる時にできる感謝と賛美と献身を捧げればよいのです。わたしたちの無能力を主イエスはご存じで僕として招いてくださいました。わたしたちも、主のご栄光のために働くようにと一ムナを渡されているのです。祈ります。