聖書の言葉 ルカによる福音書 18章35節~43節 メッセージ 「あなたの信仰があなたを救った」。主イエスが一人の盲人に語った言葉です。これまでにも、ルカによる福音書ではたびたび主イエスのこの言葉が語られてきました(7:50、8:48、17:19)。ここでは盲人の目が開かれた後で主イエスはこの言葉を語られました。人々はその主イエスの力を見て神を賛美しました。わたしたちが21世紀に主イエスを信じて信仰生活を送っている時に、何を信じているのでしょうか。改めて問われる思いがいたします。もちろん、わたしたちは使徒信条に告白されている内容を信じています。そこには罪の赦しと将来の復活も告白されています。 今朝は旧約聖書のハバクク書を共に聞きました。主イエスがお生まれになる600年程前に南ユダ王国に遣わされた預言者です。その時代に神の正義がないがしろにされていることを嘆く預言者に神は裁きを語りハバクク2:4で「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と語りました。ですから、いつの時代でも聖書は、神に従う人の信仰を問うています。どの時代であろうとも、わたしたちは神の救いを信仰によって求め、そして救いを待っています。その救いが、癒しである場合もありましたし、バビロンによる神の裁きの事もあり、そしてそのバビロンを高慢な者として裁かれる神の力が示されることもありました。ですから、わたしたちはこの時代においても主イエスを呼び求めます。主イエスが既に来てくださったからです。 1.信仰の前提としての主イエスの到来と盲人の叫び これまで聞いて来たこの前の段落からの関連で言えば、主イエスに救われることは、神の国に入れられることです。ここで目が不自由で労苦の多かったこの方の目は見えるようにされました。そしてそれが神の国で実現する救いの姿を示しています。そしてその救われて神の国に入る鍵が信仰でした。 その信仰の前提となることが主イエスの到来です。「イエスがエリコに近づかれたとき」と記されています。主イエスがもし来られなければ、彼1 は道端で物乞いを続け、やがては労苦の多い地上生涯を終えたことでしょう。主イエスが来てくださり、彼の目の前を通られます。しかし、彼には見えません。そこで耳が機能します。 彼は「群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ね」ました。誰か有名人が来たのか。人々のざわめきは何だろうと素朴に思いました。普段はこんなに人が通ることはなかったのでしょう。彼が座っていたのはエリコの町の門であったろうと言われています。エリコの門は人の往来はあったでしょうけれども、このざわめきは普段とは違いました。目は見えませんが耳で様子が分かりました。彼は通り過ぎて行く人に声をかけました。すると、群衆の中の何人かが、「ナザレのイエスのお通りだ」と彼に告げました。 目は見えませんが、聞こえました。ですから、彼は叫ぶことができました。確かに、主イエスが来られたとしても、叫ぶことがなかったなら、主イエスは素通りしてエルサレムに向かって行かれたでしょう。彼の耳は開かれ、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。突然、門のわきに座る盲目の物乞いが大声を上げたものですから、主イエスに先立って歩く人々は驚きました。ここで「叫ぶ」と訳されている言葉は、群衆の叫びという意味で一般的な叫びでも用いられますが、ルカ福音書では頼るものがない者、無力な者の叫びを表す動詞として用いられています。切実な叫びが成されたことが示されています。 すると人々は彼を叱りつけて黙らせようとしました。しかしながら、この人は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続け」ます。39節の叫ぶという動詞は別の動詞ですが、彼の意図は切実であり、ここは叫び続けたと語られています。 彼は、既に主イエスが各地で病める者を癒し、教えをされ、力ある業を行っておられることを聞いていたようです。そして、この方こそ、約束のメシア、救い主ではないかと思いました。「ダビデの子」はダビデ王家に現れる約束の王なる救い主を示す称号でした。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」彼は叫びました。「憐れんでください」という叫びは、わたしたちの印象から言えば、あまり明るくありません。ですから、わたしたちはあまりこのような叫びを上げることもありません。しかしながら、聖書はこの叫びをとても大切にしています(16:24、17:13、2 18:13)。 ただし、叫べば救われるということではありません。信仰は主イエスに従うことを伴っています。教会はそのことをわきまえて、この言葉を大切にしてきました。それは信仰に至る叫びであり、わたしたちの罪の現実をしっかりとわきまえて、神に叫ぶ祈りです。この祈りは、わたしたち自身もいよいよ追い詰められて後がない、そのような状況になってはじめて心の底から沸き上がってくる祈りかもしれません。 それではそこまで追い詰められていなければ、神の憐れみを求めなくてもよいのでしょうか。むしろ、いつも神の憐れみを受けていることを忘れてしまうと誘惑に陥るかもしれません。わたしたちは、困った時には神に真剣により頼み、そして危機が去るとまた信仰もボンヤリしてしまうという貧しい者です。そのような者を憐れまれて神は主イエスを遣わしてくださり、主イエスは神に従い、わたしたちのもとに来てくださいました。 2.立ち止まる主イエス 問い掛ける主イエス 主イエスは彼の叫びを聞き、立ち止まりました。エルサレムに行く旅路を一時停止されました。そして、主イエスはその盲人を連れてくるようにと命じます。わたしはこの小さな主イエスの動作に心引かれます。 そこで「何をして欲しいのか」と尋ねました。この問は、彼の叫びの理由や内容を改めて吟味するというよりも、彼の信仰を確認するための問でした。盲人は、主イエスに会ったことはありません。しかし、主イエスの力や教えについての噂を聞いて信じました。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」この言葉は、見上げるという意味の言葉ですが、ここでは再び見えるようになりたいという意味合いを含んでいます。彼は物乞いをしていましたから、金銭を願うこともできたでしょう。しかし、貪欲ではなく、視力を願いました。見えるようになりたい。そして、主イエスにはそれを実現する力がある。主イエスこそ、約束のダビデの子であるとの信仰がこの願いには示されています。彼の選択は富に心を向けた金持ちの議員とは対照的です。 3.何をしてほしいのか。 この主イエスの言葉をわたしたちはどのように聞くでしょうか。「あな3 たは何をして欲しいのか。」アラジンの魔法のランプではあるまいし、何かを願うよりも仕事をしなさい。あるいは勉強しなさいとわたしたちは言うかも知れません。そのようにして、わたしたちはこの主イエスの言葉を聞き流し、通り過ぎてしまいます。そしてむしろ何もしないで貰いたい。今日も昨日のように続けばよいと思うかもしれません。毎日、戦争も災害もなく当たり前のように過ぎて行けばそれでよいと思います。しかし、その時には「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という祈りも失われています。そして主イエスは通り過ぎて行かれます。そして災害が突然起こり、戦争が予期せぬ時に起こります。昨日と同じ今日は実際にはありません。 わたしたちは自分のこと、家族のこと、いろいろ考えれば神に訴え祈ることは沢山あります。時には切実に神に求めることもあります。エリコの門のこの盲人のように切実に訴えることがあればわたしたちも訴えます。そのような魂からの切実な訴えは人生の中で度々はないでしょう。それは人生の中でただ一度であるかも知れません。救いの経験、主イエスと出会うということは、しかしながら、その一度から始まります。神はわたしたちのもとに主イエスを派遣してくださいました。そこに神の憐れみがあります。その来てくださった主イエスに「憐れんでください」と叫ぶ叫びは主イエスの耳に届きます。そして主イエスが問うてくださいます。「何をして欲しいのか。」「わたしを救ってください」とわたしたちは答えました。主イエスはそれを成してくださると信じ、信頼したからです。わたしたちも罪から救われて洗礼に与ります。 この時、主イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。彼はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従いました。これを見た民衆も、こぞって神を賛美したとあります。 わたしたちも今朝、主よ憐れみたまえと賛美歌を歌います(260の3番)。わたしたちは今朝も主イエスに従ってこの礼拝に集められ神を崇めています。主イエスは到来と共に、ご自身の民に信仰による叫びを与えてくださり、主を求める心を与えてくださいます。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」心の目を開き、主イエスを仰ぐ救いを与えられたのはわたしたちなのです。祈ります。
「あなたの信仰があなたを救った」。主イエスが一人の盲人に語った言葉です。これまでにも、ルカによる福音書ではたびたび主イエスのこの言葉が語られてきました(7:50、8:48、17:19)。ここでは盲人の目が開かれた後で主イエスはこの言葉を語られました。人々はその主イエスの力を見て神を賛美しました。わたしたちが21世紀に主イエスを信じて信仰生活を送っている時に、何を信じているのでしょうか。改めて問われる思いがいたします。もちろん、わたしたちは使徒信条に告白されている内容を信じています。そこには罪の赦しと将来の復活も告白されています。 今朝は旧約聖書のハバクク書を共に聞きました。主イエスがお生まれになる600年程前に南ユダ王国に遣わされた預言者です。その時代に神の正義がないがしろにされていることを嘆く預言者に神は裁きを語りハバクク2:4で「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と語りました。ですから、いつの時代でも聖書は、神に従う人の信仰を問うています。どの時代であろうとも、わたしたちは神の救いを信仰によって求め、そして救いを待っています。その救いが、癒しである場合もありましたし、バビロンによる神の裁きの事もあり、そしてそのバビロンを高慢な者として裁かれる神の力が示されることもありました。ですから、わたしたちはこの時代においても主イエスを呼び求めます。主イエスが既に来てくださったからです。 1.信仰の前提としての主イエスの到来と盲人の叫び これまで聞いて来たこの前の段落からの関連で言えば、主イエスに救われることは、神の国に入れられることです。ここで目が不自由で労苦の多かったこの方の目は見えるようにされました。そしてそれが神の国で実現する救いの姿を示しています。そしてその救われて神の国に入る鍵が信仰でした。 その信仰の前提となることが主イエスの到来です。「イエスがエリコに近づかれたとき」と記されています。主イエスがもし来られなければ、彼1 は道端で物乞いを続け、やがては労苦の多い地上生涯を終えたことでしょう。主イエスが来てくださり、彼の目の前を通られます。しかし、彼には見えません。そこで耳が機能します。 彼は「群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ね」ました。誰か有名人が来たのか。人々のざわめきは何だろうと素朴に思いました。普段はこんなに人が通ることはなかったのでしょう。彼が座っていたのはエリコの町の門であったろうと言われています。エリコの門は人の往来はあったでしょうけれども、このざわめきは普段とは違いました。目は見えませんが耳で様子が分かりました。彼は通り過ぎて行く人に声をかけました。すると、群衆の中の何人かが、「ナザレのイエスのお通りだ」と彼に告げました。 目は見えませんが、聞こえました。ですから、彼は叫ぶことができました。確かに、主イエスが来られたとしても、叫ぶことがなかったなら、主イエスは素通りしてエルサレムに向かって行かれたでしょう。彼の耳は開かれ、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。突然、門のわきに座る盲目の物乞いが大声を上げたものですから、主イエスに先立って歩く人々は驚きました。ここで「叫ぶ」と訳されている言葉は、群衆の叫びという意味で一般的な叫びでも用いられますが、ルカ福音書では頼るものがない者、無力な者の叫びを表す動詞として用いられています。切実な叫びが成されたことが示されています。 すると人々は彼を叱りつけて黙らせようとしました。しかしながら、この人は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続け」ます。39節の叫ぶという動詞は別の動詞ですが、彼の意図は切実であり、ここは叫び続けたと語られています。 彼は、既に主イエスが各地で病める者を癒し、教えをされ、力ある業を行っておられることを聞いていたようです。そして、この方こそ、約束のメシア、救い主ではないかと思いました。「ダビデの子」はダビデ王家に現れる約束の王なる救い主を示す称号でした。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」彼は叫びました。「憐れんでください」という叫びは、わたしたちの印象から言えば、あまり明るくありません。ですから、わたしたちはあまりこのような叫びを上げることもありません。しかしながら、聖書はこの叫びをとても大切にしています(16:24、17:13、2 18:13)。 ただし、叫べば救われるということではありません。信仰は主イエスに従うことを伴っています。教会はそのことをわきまえて、この言葉を大切にしてきました。それは信仰に至る叫びであり、わたしたちの罪の現実をしっかりとわきまえて、神に叫ぶ祈りです。この祈りは、わたしたち自身もいよいよ追い詰められて後がない、そのような状況になってはじめて心の底から沸き上がってくる祈りかもしれません。 それではそこまで追い詰められていなければ、神の憐れみを求めなくてもよいのでしょうか。むしろ、いつも神の憐れみを受けていることを忘れてしまうと誘惑に陥るかもしれません。わたしたちは、困った時には神に真剣により頼み、そして危機が去るとまた信仰もボンヤリしてしまうという貧しい者です。そのような者を憐れまれて神は主イエスを遣わしてくださり、主イエスは神に従い、わたしたちのもとに来てくださいました。 2.立ち止まる主イエス 問い掛ける主イエス 主イエスは彼の叫びを聞き、立ち止まりました。エルサレムに行く旅路を一時停止されました。そして、主イエスはその盲人を連れてくるようにと命じます。わたしはこの小さな主イエスの動作に心引かれます。 そこで「何をして欲しいのか」と尋ねました。この問は、彼の叫びの理由や内容を改めて吟味するというよりも、彼の信仰を確認するための問でした。盲人は、主イエスに会ったことはありません。しかし、主イエスの力や教えについての噂を聞いて信じました。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」この言葉は、見上げるという意味の言葉ですが、ここでは再び見えるようになりたいという意味合いを含んでいます。彼は物乞いをしていましたから、金銭を願うこともできたでしょう。しかし、貪欲ではなく、視力を願いました。見えるようになりたい。そして、主イエスにはそれを実現する力がある。主イエスこそ、約束のダビデの子であるとの信仰がこの願いには示されています。彼の選択は富に心を向けた金持ちの議員とは対照的です。 3.何をしてほしいのか。 この主イエスの言葉をわたしたちはどのように聞くでしょうか。「あな3 たは何をして欲しいのか。」アラジンの魔法のランプではあるまいし、何かを願うよりも仕事をしなさい。あるいは勉強しなさいとわたしたちは言うかも知れません。そのようにして、わたしたちはこの主イエスの言葉を聞き流し、通り過ぎてしまいます。そしてむしろ何もしないで貰いたい。今日も昨日のように続けばよいと思うかもしれません。毎日、戦争も災害もなく当たり前のように過ぎて行けばそれでよいと思います。しかし、その時には「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という祈りも失われています。そして主イエスは通り過ぎて行かれます。そして災害が突然起こり、戦争が予期せぬ時に起こります。昨日と同じ今日は実際にはありません。 わたしたちは自分のこと、家族のこと、いろいろ考えれば神に訴え祈ることは沢山あります。時には切実に神に求めることもあります。エリコの門のこの盲人のように切実に訴えることがあればわたしたちも訴えます。そのような魂からの切実な訴えは人生の中で度々はないでしょう。それは人生の中でただ一度であるかも知れません。救いの経験、主イエスと出会うということは、しかしながら、その一度から始まります。神はわたしたちのもとに主イエスを派遣してくださいました。そこに神の憐れみがあります。その来てくださった主イエスに「憐れんでください」と叫ぶ叫びは主イエスの耳に届きます。そして主イエスが問うてくださいます。「何をして欲しいのか。」「わたしを救ってください」とわたしたちは答えました。主イエスはそれを成してくださると信じ、信頼したからです。わたしたちも罪から救われて洗礼に与ります。 この時、主イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。彼はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従いました。これを見た民衆も、こぞって神を賛美したとあります。 わたしたちも今朝、主よ憐れみたまえと賛美歌を歌います(260の3番)。わたしたちは今朝も主イエスに従ってこの礼拝に集められ神を崇めています。主イエスは到来と共に、ご自身の民に信仰による叫びを与えてくださり、主を求める心を与えてくださいます。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」心の目を開き、主イエスを仰ぐ救いを与えられたのはわたしたちなのです。祈ります。