2026年03月15日「十字架と復活の予告」

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十字架と復活の予告

日付
日曜朝の礼拝
説教
小峯明 牧師
聖書
ルカによる福音書 ルカ福音書18:31-34

聖書の言葉

ルカによる福音書 ルカ福音書18:31-34

メッセージ

教会の暦で申しますと、2月18日の水曜日から受難節に入りました。今年の受難週は3月29日の主日で、復活日は4月5日です。朝の礼拝ではルカ福音書を続けて聞いていますが、今朝は受難週にふさわしい主イエスの三回目の苦難と復活の予告の箇所となりました。 1. 三回目の受難予告と苦難の意味 主イエスの苦難と復活の予告は、最初がペトロの信仰告白の後の9:21-22です。そして二回目が9:44です。そして三回目が今朝共に聞きました18:31-34です。その他、9:31と13:33にも苦難の暗示が語られていました。既に、律法学者とファリサイ派の人々は主イエスに対して激しい敵意を抱くようになっていました(6:11,11:53)。この敵意が主イエスを十字架へと追いやります。 しかし、問題はその苦難の意味です。この前の段落には、ある金持ちの議員と主イエスとの対話が語られていました。彼は永遠の命を受け継ぐ方法を主イエスに尋ねています。永遠の命を受け継ぐことは、神の国に入ることであり、それは罪人が救われることを意味しています。金持ちの議員は子供の時から律法を守って来ましたが、永遠の命の確信がありません。 そこで、主イエスは彼の問題点を見抜き、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。しかし、「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」と語られています。 彼にとっては富が神の国に入るための妨げになっていました。神様よりも富に信頼していたわけです。しかし、当時の人々は、金持ちは神の祝福を受けている人々だと思っていました。ですから、金持ちが神の国に入れないなら「だれが救われるのだろうか」と語りました。すると主イエスは「人間にはできないことも、神にはできる」と言われます。 その神の救いを可能とするために、主イエスはこの後、エルサレムに向かって行かれます。主イエスはわたしたちを神の国に招き入れるために苦1 難の道を歩まれます。神の御子が十字架の道を全うしてくださり、ご自身を犠牲の羊として神に捧げて、代わりにわたしたちを主イエスの名によって救いだしてくださいます。主イエスの苦難はわたしたちをすくい出すための犠牲となられる苦しみを意味していす(イザヤ53:10)。 2. 弟子たちの期待 この時主イエスは12人を呼び寄せて言われました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と語られています。すでに、主イエスと弟子たちはエルサレムに向かって旅を続けていました。 ここには「わたしたちは」と記されています。主イエスが一人でエルサレムに行くのではなく、弟子たちも共に行きます。しかしながら、そこで弟子たちは主イエスにつまずきます。主イエスは十字架に掛けられます。弟子たちは逃げてしまいます。主イエスは救いを全うされますが、弟子たちは主イエスを裏切ります。そこで弟子たちの罪が露にされます。彼らはそのために行くわけです。彼らは、それを知らずに主イエスと共に行きます。 弟子たちは、主イエスがエルサレムでユダヤ人の王として即位され、新王国を建国し、ローマ帝国を追い払うことを期待していたかも知れません。19:11「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」とあります。ここには弟子たち含めて当時の人々の期待が示されています。神の国がどういう形で現れるかは定かではありませんが、現れると人々は期待していました。ですから、その神の国に入れるか否かということは大きな関心事であったのでしょう。金持ちの議員もわざわざ聞きにきたのは同じ期待を持っていたからでしょう。 しかしながら、主イエスが語られた神の国には金持ちは入れません。金持ちは金を拝み、富に支配されているからです。むしろ、へりくだり神に憐れみを求める徴税人や何も出来ない乳飲み子のように神を信頼し、神により頼む以外に生きる術のない者が入ります。そのような信頼、信仰をわたしたちは自分で生み出すことができるでしょうか。どこまでへりくだれば、認められるのでしょうか。そのように考えるとわたしたちも一体誰が救われるのだろうかと思わずにはおれません。それは人間には不可能ですが、神にはできます。その神が可能としてくださる人間の救いがここに予2 告されています。 3. 神の救いの計画 それが、神の救いのご計画です。「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と主イエスは言われました。先程共に聞きました旧約聖書イザヤ書53章もその一つです。苦難の僕の預言と言われています。けれども、旧約聖書の預言が主イエスによってこのように実現するということも、弟子たちも含めて誰にも分かりませんでした。 「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とあります。それほどに、神の救いの計画は人間の思いを越えたものでした。けれども、この主イエスの言葉は心に残りました。この主イエスの3度の受難予告はマタイ、マルコ、ルカに記されているからです。 ここで主イエスは異邦人に引き渡されると語りました。救い主を受け入れずに、ローマに引き渡すユダヤ人は、契約の民であり、神の民でありながら、主イエスを拒絶してローマ総督ピラトに引き渡します。処刑の権限がなかったからですが、ピラトは主イエスを拒絶する異邦人を代表する罪人を表しています。 弟子たちは、力ある業をされ、病人を癒し、死人を生き返らせた御方が侮辱され、乱暴を受け、唾までかけられて殺されるとは理解できませんでした。ですから、弟子たちは、主イエスなら、何事かが起こるであろうと期待していました。その期待をもって主イエスの言葉を聞きますので自分たちの中に侮辱され殺される救い主像を考えることができませんでした。 しかも、主イエスは「そして、人の子は三日目に復活する」と言われます。ナインのやもめを生き返らせたり、8章ではヤイロの娘を生き返らせたりと力ある業をされましたが他人を生き返られせることは分かっても、自分が殺されて復活すると言うことも分かりませんでした。そもそも、救い主が殺されるとはいかなることかと思ったでしょう。ですから弟子たちには、神の国の秘密は何も分かりませんでした。神の国の秘密とは主イエスが十字架にかかられて、わたしたちの罪の身代わりとなられて、旧約聖書の預言を成就され、神の裁きをわたしたちの代わりに受けられて、死なれる。その主イエスをわたしの救い主と信じて受け入れるならば主イエス3 の名によって神の国に入れられるということです。 しかも、その神の国は主イエスが復活されるように、死に対する勝利が約束されています。永遠の命が主イエスの復活によって目に見える形で示されます。弟子たちはこの受難と復活の予告が分かりませんでした。そのことを聖書は弟子たちには「この言葉の意味が隠されていて」と記しています。この時はまだ理解する時ではなかったということです。 これは後に、主イエスが復活されて弟子たちに現れてはじめて明らかにされることでした。ルカ福音書24:45に主イエスが復活されて弟子たちに現れて「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」」とあります。主イエスが聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開かれたのがこの時でした。主イエスの復活の後です。その三日前に、主イエスが逮捕されて十字架で処刑されました。弟子たちは逃げて隠れました。そしてエルサレムでの主イエスと弟子たちとの再会が果たされます。そして心の目が開かれます。こうして、弟子たちは事柄を理解して全世界に証人として遣わされます。 心の目が開かれるということは、信仰の目が開かれるということでしょう。主イエスの十字架と復活は信仰によらなければその事柄と意味を理解することができません。その主イエスが弟子たちの心の目を開かれたように、わたしたち一人一人の心の目を開いてくださり、信仰を与え主イエスを信じることができるようにしてくださいます。 神にはできると言われた主イエスが神の子として果たされた救いの業は十字架と復活と心の目を開いてくださることです。それによってわたしたちは信仰を与えられて主イエスの十字架と復活を信ずることができるようにされます。主イエスを信ずることによって神の国に入り、わたしたちは罪と死から救われ、永遠の命に与ります。このすべてのことを神が果してくださいます。その神の力によってわたしたちは救いに入れられます。わたしたちも心の目を開かれて、主イエスを救い主と信じる信仰が与えられました。弟子たちはエルサレムから全世界へと遣わされました。わたしたちも主の聖霊と共にこの弟子たちの旅に連なるのです。祈ります。