聖書の言葉 ルカによる福音書 18章24節~30節 メッセージ 先週に続きまして、18:18以下の段落の後半を聞きました。この段 落の前半には金持ちの議員と主イエスとの対話が語られていました。彼は 「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と主イエスに 尋ねています。そこで、主イエスは掟を知っているはずだと語りました。 彼は十戒に代表される律法は子供の時から守ってきましたと答えます。 そこで主イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある。持ってい る物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天 に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われます。こ の人はこれを聞いて非常に悲しみました。大変な金持ちだったからです。 非常に悲しんだその思いは主イエスに言われた通りのことはできないから でしょう。がっかりして帰っていくのではないかと思いますが、彼はまだ 主イエスのもとに留まっています。 1.主イエスの対応 「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた」とあります。主 イエスは彼をご覧になりました。悲しむ金持ちの議員を主イエスの眼差し が捉えています。そして、主イエスは彼を見て直接語られました。それ は回りにいる人々と弟子たちにもよく聞こえました。ただし、その内容は さらに厳しい言葉でした。それは真実に悔い改めを問う内容です。金持ち は神の国に入ることはできないということです。「財産のある者が神の国 に入るのはなんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが 針の穴を通る方がまだ易しい。」 金持ちの議員は、主イエスに命じられたように財産を売り払うことがで きません。ですから、主イエスに従うこともできません。結果、天に宝を 積むことはできません。この人は貧しい者たちから見ればうらやむばかり の生活をしていました。その彼の生活の基盤は、莫大な財産でした。 神か富か、ここでも両方に仕えることはできないことが語りなおされて います。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易 しいと言われる通りです。これは、実際には不可能なことを語るたとえで す。金持ちは富を愛し、富中心の生活であったでしょう。やがて富を崇め て生きることになります。神様ではなく富様が心を支配します。それは貪 欲のなせる業です。そして貪欲は偶像礼拝です。この議員は、十戒を知っ ていましたから、当然第一戒を暗記していたはずです。「わたしをおいて ほかに神があってはならない。」それを知りつつ、実際は彼の生活は富中 心の世界観、人生観でした。 しかし、それでは永遠の命を受け継ぐことはできないと断言された時に 彼は悲しみの故に、絶望的な気分になったことでしょう。命を求めて来た のに死の宣告を受けたような気分になったかもしれません。主イエスは罪 人を生かすために殺されます。主イエスは彼をただ断罪されたわけではな く偶像礼拝に捉えられている現実を宣告し、それによってこの金持ちの 議員を悔い改めに招いておられます。 2.人々の驚き この主イエスの言葉を聞いて、人々は驚きました。「それでは、誰が救 われるのだろうか。」この金持ちの議員も、当時の人々も金持ちは神の祝 福を受けていると考えていました。神が仕事を祝福し、神が才覚を与え、 賜物を与え、富を与えたと考えたわけです。ですから、金持ちは永遠の命 を受け継ぐ者だと思われたでしょう。それでも、彼の心は満たされないの で主イエスのもとに永遠の命の獲得の方法を聞きにきました。 祝福されて金持ちとされた者が、神の国に入れないとなれば、誰が救わ れるのか。それは人々の正直な思いでした。しかしながら、主イエスが既 に14節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」 と言われました。それが神の国の秩序です。財産を持つ者、財産に頼る者 てはなく、主イエスに頼り、神に頼る者だけが神の国に入ります。 さらに興味深いことは、ここには永遠の命を受け継ぐことは、神の国に 入ることであり、それは救われることであると語られていることです。罪 赦されて主イエスを通して神と共に生きることが三重の表現で語られてい ます。そしてここでは神の国に入ると訳された言葉は現在形の動詞で語ら れています。永遠の命は後の世で朽ちることのない体を与えられる将来の ことですが、その祝福は今既に始まっているということです。 ですから、主イエスは彼に、今、わたしに従いなさいと語っています。 後の世で従いなさいと言っているわけではありません。従うことは今しか できません。しかし、それは自力では不可能です。絶望するしかありませ ん。そこで主イエスは、議員も含めた人々の当惑に対して「人間にはでき ないことも、神にはできる」と言われました。 人間が鼻で笑ってしまうようなことを神はなさいます。創世記18:14で は高齢のサラに子供が生まれると約束されました。神と富とに仕えること はできないと主イエスが言われたことを金に執着するファリサイ派の人々 はあざ笑いました(ルカ16:14)。罪人を救うために神はマリアを通 して救い主を派遣されました。いつの時代の人々にとっても躓きでしかな い形で神は罪人を救われます。 財産を売り払って貧しい人々に施しなさいと主イエスに言われても、そ れはわたしたちにもできません。何もかも売り払ってしまったら、家族は 生活ができなくなります。しかし、わたしたちの救いのために神はわたし たちにできないことをしてくださいました。「すべて売り払い、貧しい人 々に分けてやりなさい」と命じた主イエスは、すべてを捨て、神の子であ りながら人として貧しい様にお生まれになり飼い葉桶に寝かされました。 主イエスはご自身が命じることを果たされて、わたしたちに要求し、わた したちを死から命へと招かれます。 そしてそもそも財産はわたしたちの生活のために神様が備えてくださっ たものです。ですから、その財産の奴隷とされてはならないということで す。むしろ、神に与えられた財産を神のために用いる。神に委託されたも のとして受け止めて神と隣人のために用いることです。しかしながら、そ れさえもわたしたちの力ではできません。ですから、誰が救われるのだろ うか。誰が神の国に入るのだろうかと思うわけです。 3.ペトロの告白 そこで、主イエスの言葉を聞いたペトロが「このとおり、わたしたちは 自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と語ります。誰が救われる のかと人々が言い、主イエスが神にはできると答えた時に、その証拠は自 分たちですとペトロと弟子たちは語りました。そうだ、考えて見れば、主 イエスの弟子たちは、自分の家族も職も捨てて主イエスに従っています。 ペトロはこれは確かに、主イエスの招きに与り、主イエスが言われたとお り、神の力によって自分たちは今ここにあると告白しました。 ここに永遠の命が示されています。それは、人間の力では獲得すること はできません。それは、ラクダが針の穴を通るようなことです。以前新聞 を読んでおりましたら、中世の修道院の記事がありました。質素な生活を していた修道士たちが、時代が裕福になってだんだん太って来た。清貧が 看板の修道会にあって肥満は御法度でした。そこで作られたのが「ダイエ ットの門」です。高さ180センチ、幅35センチの門を通り抜けないと 食堂に入れなくなったとのことでした。 わたしたちは、沢山のものにより頼んで生きています。この金持ちの議 員は財産でした。それにより頼んだままでは、神の国の門を通り抜けるこ とができません。神と富の二股では神の国の門を通ることはできません。 富のない人でも家族との絆は大切でしょう。家族が妨げになる時には捨て なければ神の国に入ることはできません。神の国を妨げる様々なものを捨 てないと神の国には入れません。そして捨てて入ると与えられます。 わたしたちは毎週この所で礼拝をしています。ここには、新しい家族が あります。時々は海外からも信徒の方が来られます。韓国からも、アメリ カからも来られます。世界中に、わたしたちの教会の仲間、信仰の家族が います。東関東中会にも12教会伝道所があり、信徒大会が計画されてい ます。大会は今年の5月に80周年の信徒大会を開催します。わたしたち の信仰の仲間が全国から10年に一度集まります。そして、歴史を遡ると 世々の2000年に渡る教会の仲間たちが、連綿と続いています。これが わたしたちの家族の姿です。そして、この交わりに入ることは、人間には できません。ただ主イエスの招きに与り、主イエスに従うことです。 その時には、わたしたちは「ダイエットの門」をくぐり抜けています。 その門にあらゆる偶像礼拝を捨てて入ります。ダイエットの門は、礼拝の 門、命の門です。この門の中に神と人との豊かな交わりがあり、命の味わ いがあります。捨てることのできないわたしたちに代わり、全てのものを 捨てて主イエスがこの世界に来られました。主イエスの福音は、罪を教え るという意味では断罪の剣です。そして自力では救われないことを教え、 わたしたちを神の力で救い出してくださいます。そして後の世では永遠の 命が復活の命として示されます。その命の交わりに主イエスがわたしたち を招き入れてくださるのです。祈ります。
先週に続きまして、18:18以下の段落の後半を聞きました。この段
落の前半には金持ちの議員と主イエスとの対話が語られていました。彼は
「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と主イエスに
尋ねています。そこで、主イエスは掟を知っているはずだと語りました。
彼は十戒に代表される律法は子供の時から守ってきましたと答えます。
そこで主イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある。持ってい
る物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天
に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われます。こ
の人はこれを聞いて非常に悲しみました。大変な金持ちだったからです。
非常に悲しんだその思いは主イエスに言われた通りのことはできないから
でしょう。がっかりして帰っていくのではないかと思いますが、彼はまだ
主イエスのもとに留まっています。
1.主イエスの対応
「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた」とあります。主
イエスは彼をご覧になりました。悲しむ金持ちの議員を主イエスの眼差し
が捉えています。そして、主イエスは彼を見て直接語られました。それ
は回りにいる人々と弟子たちにもよく聞こえました。ただし、その内容は
さらに厳しい言葉でした。それは真実に悔い改めを問う内容です。金持ち
は神の国に入ることはできないということです。「財産のある者が神の国
に入るのはなんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが
針の穴を通る方がまだ易しい。」
金持ちの議員は、主イエスに命じられたように財産を売り払うことがで
きません。ですから、主イエスに従うこともできません。結果、天に宝を
積むことはできません。この人は貧しい者たちから見ればうらやむばかり
の生活をしていました。その彼の生活の基盤は、莫大な財産でした。
神か富か、ここでも両方に仕えることはできないことが語りなおされて
います。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易
しいと言われる通りです。これは、実際には不可能なことを語るたとえで
す。金持ちは富を愛し、富中心の生活であったでしょう。やがて富を崇め
て生きることになります。神様ではなく富様が心を支配します。それは貪
欲のなせる業です。そして貪欲は偶像礼拝です。この議員は、十戒を知っ
ていましたから、当然第一戒を暗記していたはずです。「わたしをおいて
ほかに神があってはならない。」それを知りつつ、実際は彼の生活は富中
心の世界観、人生観でした。
しかし、それでは永遠の命を受け継ぐことはできないと断言された時に
彼は悲しみの故に、絶望的な気分になったことでしょう。命を求めて来た
のに死の宣告を受けたような気分になったかもしれません。主イエスは罪
人を生かすために殺されます。主イエスは彼をただ断罪されたわけではな
く偶像礼拝に捉えられている現実を宣告し、それによってこの金持ちの
議員を悔い改めに招いておられます。
2.人々の驚き
この主イエスの言葉を聞いて、人々は驚きました。「それでは、誰が救
われるのだろうか。」この金持ちの議員も、当時の人々も金持ちは神の祝
福を受けていると考えていました。神が仕事を祝福し、神が才覚を与え、
賜物を与え、富を与えたと考えたわけです。ですから、金持ちは永遠の命
を受け継ぐ者だと思われたでしょう。それでも、彼の心は満たされないの
で主イエスのもとに永遠の命の獲得の方法を聞きにきました。
祝福されて金持ちとされた者が、神の国に入れないとなれば、誰が救わ
れるのか。それは人々の正直な思いでした。しかしながら、主イエスが既
に14節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」
と言われました。それが神の国の秩序です。財産を持つ者、財産に頼る者
てはなく、主イエスに頼り、神に頼る者だけが神の国に入ります。
さらに興味深いことは、ここには永遠の命を受け継ぐことは、神の国に
入ることであり、それは救われることであると語られていることです。罪
赦されて主イエスを通して神と共に生きることが三重の表現で語られてい
ます。そしてここでは神の国に入ると訳された言葉は現在形の動詞で語ら
れています。永遠の命は後の世で朽ちることのない体を与えられる将来の
ことですが、その祝福は今既に始まっているということです。
ですから、主イエスは彼に、今、わたしに従いなさいと語っています。
後の世で従いなさいと言っているわけではありません。従うことは今しか
できません。しかし、それは自力では不可能です。絶望するしかありませ
ん。そこで主イエスは、議員も含めた人々の当惑に対して「人間にはでき
ないことも、神にはできる」と言われました。
人間が鼻で笑ってしまうようなことを神はなさいます。創世記18:14で
は高齢のサラに子供が生まれると約束されました。神と富とに仕えること
はできないと主イエスが言われたことを金に執着するファリサイ派の人々
はあざ笑いました(ルカ16:14)。罪人を救うために神はマリアを通
して救い主を派遣されました。いつの時代の人々にとっても躓きでしかな
い形で神は罪人を救われます。
財産を売り払って貧しい人々に施しなさいと主イエスに言われても、そ
れはわたしたちにもできません。何もかも売り払ってしまったら、家族は
生活ができなくなります。しかし、わたしたちの救いのために神はわたし
たちにできないことをしてくださいました。「すべて売り払い、貧しい人
々に分けてやりなさい」と命じた主イエスは、すべてを捨て、神の子であ
りながら人として貧しい様にお生まれになり飼い葉桶に寝かされました。
主イエスはご自身が命じることを果たされて、わたしたちに要求し、わた
したちを死から命へと招かれます。
そしてそもそも財産はわたしたちの生活のために神様が備えてくださっ
たものです。ですから、その財産の奴隷とされてはならないということで
す。むしろ、神に与えられた財産を神のために用いる。神に委託されたも
のとして受け止めて神と隣人のために用いることです。しかしながら、そ
れさえもわたしたちの力ではできません。ですから、誰が救われるのだろ
うか。誰が神の国に入るのだろうかと思うわけです。
3.ペトロの告白
そこで、主イエスの言葉を聞いたペトロが「このとおり、わたしたちは
自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と語ります。誰が救われる
のかと人々が言い、主イエスが神にはできると答えた時に、その証拠は自
分たちですとペトロと弟子たちは語りました。そうだ、考えて見れば、主
イエスの弟子たちは、自分の家族も職も捨てて主イエスに従っています。
ペトロはこれは確かに、主イエスの招きに与り、主イエスが言われたとお
り、神の力によって自分たちは今ここにあると告白しました。
ここに永遠の命が示されています。それは、人間の力では獲得すること
はできません。それは、ラクダが針の穴を通るようなことです。以前新聞
を読んでおりましたら、中世の修道院の記事がありました。質素な生活を
していた修道士たちが、時代が裕福になってだんだん太って来た。清貧が
看板の修道会にあって肥満は御法度でした。そこで作られたのが「ダイエ
ットの門」です。高さ180センチ、幅35センチの門を通り抜けないと
食堂に入れなくなったとのことでした。
わたしたちは、沢山のものにより頼んで生きています。この金持ちの議
員は財産でした。それにより頼んだままでは、神の国の門を通り抜けるこ
とができません。神と富の二股では神の国の門を通ることはできません。
富のない人でも家族との絆は大切でしょう。家族が妨げになる時には捨て
なければ神の国に入ることはできません。神の国を妨げる様々なものを捨
てないと神の国には入れません。そして捨てて入ると与えられます。
わたしたちは毎週この所で礼拝をしています。ここには、新しい家族が
あります。時々は海外からも信徒の方が来られます。韓国からも、アメリ
カからも来られます。世界中に、わたしたちの教会の仲間、信仰の家族が
います。東関東中会にも12教会伝道所があり、信徒大会が計画されてい
ます。大会は今年の5月に80周年の信徒大会を開催します。わたしたち
の信仰の仲間が全国から10年に一度集まります。そして、歴史を遡ると
世々の2000年に渡る教会の仲間たちが、連綿と続いています。これが
わたしたちの家族の姿です。そして、この交わりに入ることは、人間には
できません。ただ主イエスの招きに与り、主イエスに従うことです。
その時には、わたしたちは「ダイエットの門」をくぐり抜けています。
その門にあらゆる偶像礼拝を捨てて入ります。ダイエットの門は、礼拝の
門、命の門です。この門の中に神と人との豊かな交わりがあり、命の味わ
いがあります。捨てることのできないわたしたちに代わり、全てのものを
捨てて主イエスがこの世界に来られました。主イエスの福音は、罪を教え
るという意味では断罪の剣です。そして自力では救われないことを教え、
わたしたちを神の力で救い出してくださいます。そして後の世では永遠の
命が復活の命として示されます。その命の交わりに主イエスがわたしたち
を招き入れてくださるのです。祈ります。