再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 ルカによる福音書 13章1節~5節 メッセージ ヨハネによる福音書9:1-2に生まれつき目の見えない人についての 主イエスと弟子たちとのやり取りが記されています。「弟子たちがイエス に尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯 したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』」とあります。 何らかの罪を犯した結果、不幸になるという因果応報的な考えが、主イ エスの時代にもありました。 仏教の影響を受けた因果応報の思想は善行が幸いを招き、悪い行いは不 幸を招くとの考えですが、さらに現世だけでなく、過去と来世が視野に入 るようになりました。それが業と輪廻の説となっていきます。聖書には輪 廻の思想はありませんので、ユダヤ人の因果応報論は仏教思想とは異なり ますが、災難は罪に起因し不幸な結果になると弟子たちも含めて人々は考 えていました。 1.罪と災害の関係 主イエスが群衆に語っておられた「ちょうどそのとき」、主イエスの下 に何人かの人が来てピラトの蛮行について伝えました。それは「ピラトが ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という事件です。ピラトは後 に主イエスに死刑の判決を下すことになるローマのユダヤ総督です。過越 の祭りの時に、ユダヤ人たちはエルサレム神殿に巡礼に行き、そこで犠牲 の小羊を捧げます。丁度のその祭りの時に、巡礼に訪れていたガリラヤの ユダヤ人たちが、ローマの兵士たちと衝突した事件のようです。 ユダヤ人の反乱の事件はヨセフスという当時のユダヤ人の歴史家が幾つ か記しています。神殿の外でのユダヤ人の虐殺事件もあったようです。そ の殺害された人の血を神殿での犠牲祭儀に混ぜるという猟奇的蛮行が文字 通り事実であれば、さらに激しい暴動に発展したでしょう。ですから、多 くの学者はガリラヤのユダヤ人とローマの兵士との武力衝突により犠牲者 が出たことをここでこのように述べていると考えています。 この災難はガリラヤ人が何らかの罪を犯した結果ではないかと人々は考 えて主イエスに聞いたのでしょう。この犠牲者に対して、主イエスは「そ のガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人 よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と言われ ました。ここで罪深いと訳されている言葉は、罪人という言葉です。 犠牲者はほかのガリラヤ人と異なる罪人であったわけではないということ です。主イエスは続けて「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように 滅びる」と言われました。 主イエスは、もう一つの事件にも触れました。それは、シロアムの塔が 倒れて死んだ18人の事件です。神殿の南と東の門にあった要塞として用 いられていた塔だと言われています。ピラトは、ここに貯水池を整備しま した。その時の工事での事故ではないかとの見解もありますが、はっきり としたことは分かりません。いずれにしても、塔が倒れ、そのために犠牲 になった方々が18人ありました。この方たちもただ事故で亡くなっただ けで、他の人々よりも罪深い者ではありません。4「また、シロアムの塔 が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よ りも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」と主イエスは言 われます。再度「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じ ように滅びる」と言われました。 ここでは死ぬという言葉ではなく「滅びる」という言葉が用いられてい ます。未来形の動詞ですので将来必ず滅びることを述べています。この言 葉は命の危険を意味し、命を失うという意味で肉体の死を意味しています が、究極的な滅びの意味でも用いられています。ルカ9:23-24で主 イエスが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架 を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それ を失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と語られ ている意味での滅びです。肉体の死は誰もが経験します。問題は、肉体の 命を失っても救われる道があるということです。 ここであなたがたと言われているのは、この文脈では、既に触れました ように、自分たちは災難に遭っていないから罪深い者ではないと思ってい る人々です。当時の多くのユダヤ人たちがそのように考えていました。既 に触れたように罪深いという言葉は、罪人という言葉ですので、深いか浅 いかが問われてるのではなく、罪人かそうでないかが問われています。彼 らは自分が災難にあっていないので罪人ではないと安心しています。この 考えの人々の代表者が既に主イエスを拒絶しているファリサイ派の人々で した。ですから、彼らはこの前の段落で言えば、時を見分けることを知ら ない者たちであり、何が正しいかを自分で判断しない者たちであったわけ です。しかし、そこに既に問題があることを主イエスが語られたように、 災害や事故に遭うことはその人の罪とは関係がありません。原因があって 結果があるわけですが、それはどのような死に方をするかということとは 関わりがありません。 むしろ、ここではピラトに殺されたガリラヤ人も、塔の下敷きになって 亡くなった18人も、端的に人間は死ぬ存在であることを示しているに過 ぎません。その死に方は気の毒な死に方ではありましたが、そこに人間が 抱えている滅びの現実があります。そして、誰もが自分は罪なきものなの で災難に遭わないと安心していても必ず肉体は死に、塵に返ります。しか し、この主イエスの警告はユダヤ人だけの問題ではありません。どのよう な死に方をするにしても、悔い改めない者たちは必ず滅びます。そして悔 い改めるならば、死んでも生きる救いに与ることができます。 2.悔い改めとは それでは悔い改めるとはどういうことでしょうか。この言葉は、向きを 返るという意味の言葉です。先程、ヨナ書3章を聞きました。ニネベはヨ ナの時代にイスラエルを攻撃していたアッシリア帝国の首都でした。その 敵国に預言者ヨナは遣わされて悔い改めを宣べ伝えました。しかも彼らは 神の選びの民ではない外国人です。ヨナは彼らは滅びるべきだと考えたで しょう。ですから、神の命令を聞かずに逃亡しました。しかし、神に助け られ、彼も悔い改めて神に従いニネベに遣わされ、悔い改めを語ります。 するとニネベの人々は悔い改めて生ける神に立ち返りました。そこで神は 彼らを滅ぼすことを思い返されました。その際、ニネベの人々は悪の道を 離れ、不正を離れて生き方を変えました。それが悔い改めです。 悔い改めは生き方の変化を生み出します。主イエスに向きを変えて生き ることがこの礼拝の姿です。そして体だけでなく、心も向けます。それが 祈りであり、賛美であり、捧げ物です。 ここにも原因と結果はあります。主イエスを信じたという原因により、 救いと新しい命に生きる将来が約束され、滅びから救い出されます。しか し、だからと言ってわたしたちが家内安全無病息災というわけではありま せん。わたしたちも病にもかかり、怪我もし、災害にも遭うかもしれませ ん。命を落とすこともあるかも知れません。けれども、滅びることはあり ません。なぜでしょうか。わたしたちはキリストに向きを変えて生きてい るからです。それがキリスト者です。 ここでは、ファリサイ派の人々のように、自分たちは罪人だと思ってい ない者たちに対して悔い改めが語られています。因果論の虜にされている 者たちに対する警告です。彼らの問題は、さらに、災難にあった人たちに 対する同情がありません。そのような悲しみに共感もなく、あるのは何か 罪を犯していたのでそのような目に遭ったのだとの裁きです。 他方、既に悔い改めて主イエスを信じているわたしたちキリスト者も、 そこで考えます。なぜ、彼らではなく私が悔い改めたのか。自分に深い洞 察力があったからか、熱心に聖書を読み、礼拝に集ったからでしょうか。 そうではありません。主イエスが来てくださり、わたしたちを招いてくだ さったからです。ただ主イエスの憐れみによります。 主イエスに立ち返る前は、わたしたちも同じように、人の不幸を見ても 無関心でありました。そのようなわたしたちを主イエスは招いてください ました。そしてわたしたちにも悔い改めるようにと語りかけてくださいま した。わたしたちの回心に先立って主イエスの招きがあり、主イエスの言 葉があり、主イエスの十字架の犠牲があります。 ニネベの人々は、その時はヨナの言葉を聞いて悔い改めました。しかし ながら、結局偶像礼拝に戻り、悔い改めは続きませんでした。その結果、 バビロンに滅ぼされてしまいました。 悔い改めは一度限りではありません。ただ一度で義とされる局面もあり ますが、日毎に主イエスに近づく歩みが続きます。その面では日毎の悔い 改めに生きることが大切です。わたしたちも主の憐れみにより頼んで最後 まで悔い改めの生涯を送りたいと願います。それは日毎の悔い改めです。 毎日主イエスを知らずに亡くなる方がおられます。わたしたちの友人や家 族もそこに含まれています。わたしたちは、先に赦されたに過ぎません。 教会とわたしたちは彼らのための祈り、共にここで主イエスに向きを変え ようと招くことができるように祈り続けています。悔い改めと罪の赦しが 主イエスのもとにあるからです。祈ります。
ヨハネによる福音書9:1-2に生まれつき目の見えない人についての
主イエスと弟子たちとのやり取りが記されています。「弟子たちがイエス
に尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯
したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』」とあります。
何らかの罪を犯した結果、不幸になるという因果応報的な考えが、主イ
エスの時代にもありました。
仏教の影響を受けた因果応報の思想は善行が幸いを招き、悪い行いは不
幸を招くとの考えですが、さらに現世だけでなく、過去と来世が視野に入
るようになりました。それが業と輪廻の説となっていきます。聖書には輪
廻の思想はありませんので、ユダヤ人の因果応報論は仏教思想とは異なり
ますが、災難は罪に起因し不幸な結果になると弟子たちも含めて人々は考
えていました。
1.罪と災害の関係
主イエスが群衆に語っておられた「ちょうどそのとき」、主イエスの下
に何人かの人が来てピラトの蛮行について伝えました。それは「ピラトが
ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という事件です。ピラトは後
に主イエスに死刑の判決を下すことになるローマのユダヤ総督です。過越
の祭りの時に、ユダヤ人たちはエルサレム神殿に巡礼に行き、そこで犠牲
の小羊を捧げます。丁度のその祭りの時に、巡礼に訪れていたガリラヤの
ユダヤ人たちが、ローマの兵士たちと衝突した事件のようです。
ユダヤ人の反乱の事件はヨセフスという当時のユダヤ人の歴史家が幾つ
か記しています。神殿の外でのユダヤ人の虐殺事件もあったようです。そ
の殺害された人の血を神殿での犠牲祭儀に混ぜるという猟奇的蛮行が文字
通り事実であれば、さらに激しい暴動に発展したでしょう。ですから、多
くの学者はガリラヤのユダヤ人とローマの兵士との武力衝突により犠牲者
が出たことをここでこのように述べていると考えています。
この災難はガリラヤ人が何らかの罪を犯した結果ではないかと人々は考
えて主イエスに聞いたのでしょう。この犠牲者に対して、主イエスは「そ
のガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人
よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と言われ
ました。ここで罪深いと訳されている言葉は、罪人という言葉です。
犠牲者はほかのガリラヤ人と異なる罪人であったわけではないということ
です。主イエスは続けて「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように
滅びる」と言われました。
主イエスは、もう一つの事件にも触れました。それは、シロアムの塔が
倒れて死んだ18人の事件です。神殿の南と東の門にあった要塞として用
いられていた塔だと言われています。ピラトは、ここに貯水池を整備しま
した。その時の工事での事故ではないかとの見解もありますが、はっきり
としたことは分かりません。いずれにしても、塔が倒れ、そのために犠牲
になった方々が18人ありました。この方たちもただ事故で亡くなっただ
けで、他の人々よりも罪深い者ではありません。4「また、シロアムの塔
が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よ
りも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」と主イエスは言
われます。再度「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じ
ように滅びる」と言われました。
ここでは死ぬという言葉ではなく「滅びる」という言葉が用いられてい
ます。未来形の動詞ですので将来必ず滅びることを述べています。この言
葉は命の危険を意味し、命を失うという意味で肉体の死を意味しています
が、究極的な滅びの意味でも用いられています。ルカ9:23-24で主
イエスが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架
を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それ
を失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と語られ
ている意味での滅びです。肉体の死は誰もが経験します。問題は、肉体の
命を失っても救われる道があるということです。
ここであなたがたと言われているのは、この文脈では、既に触れました
ように、自分たちは災難に遭っていないから罪深い者ではないと思ってい
る人々です。当時の多くのユダヤ人たちがそのように考えていました。既
に触れたように罪深いという言葉は、罪人という言葉ですので、深いか浅
いかが問われてるのではなく、罪人かそうでないかが問われています。彼
らは自分が災難にあっていないので罪人ではないと安心しています。この
考えの人々の代表者が既に主イエスを拒絶しているファリサイ派の人々で
した。ですから、彼らはこの前の段落で言えば、時を見分けることを知ら
ない者たちであり、何が正しいかを自分で判断しない者たちであったわけ
です。しかし、そこに既に問題があることを主イエスが語られたように、
災害や事故に遭うことはその人の罪とは関係がありません。原因があって
結果があるわけですが、それはどのような死に方をするかということとは
関わりがありません。
むしろ、ここではピラトに殺されたガリラヤ人も、塔の下敷きになって
亡くなった18人も、端的に人間は死ぬ存在であることを示しているに過
ぎません。その死に方は気の毒な死に方ではありましたが、そこに人間が
抱えている滅びの現実があります。そして、誰もが自分は罪なきものなの
で災難に遭わないと安心していても必ず肉体は死に、塵に返ります。しか
し、この主イエスの警告はユダヤ人だけの問題ではありません。どのよう
な死に方をするにしても、悔い改めない者たちは必ず滅びます。そして悔
い改めるならば、死んでも生きる救いに与ることができます。
2.悔い改めとは
それでは悔い改めるとはどういうことでしょうか。この言葉は、向きを
返るという意味の言葉です。先程、ヨナ書3章を聞きました。ニネベはヨ
ナの時代にイスラエルを攻撃していたアッシリア帝国の首都でした。その
敵国に預言者ヨナは遣わされて悔い改めを宣べ伝えました。しかも彼らは
神の選びの民ではない外国人です。ヨナは彼らは滅びるべきだと考えたで
しょう。ですから、神の命令を聞かずに逃亡しました。しかし、神に助け
られ、彼も悔い改めて神に従いニネベに遣わされ、悔い改めを語ります。
するとニネベの人々は悔い改めて生ける神に立ち返りました。そこで神は
彼らを滅ぼすことを思い返されました。その際、ニネベの人々は悪の道を
離れ、不正を離れて生き方を変えました。それが悔い改めです。
悔い改めは生き方の変化を生み出します。主イエスに向きを変えて生き
ることがこの礼拝の姿です。そして体だけでなく、心も向けます。それが
祈りであり、賛美であり、捧げ物です。
ここにも原因と結果はあります。主イエスを信じたという原因により、
救いと新しい命に生きる将来が約束され、滅びから救い出されます。しか
し、だからと言ってわたしたちが家内安全無病息災というわけではありま
せん。わたしたちも病にもかかり、怪我もし、災害にも遭うかもしれませ
ん。命を落とすこともあるかも知れません。けれども、滅びることはあり
ません。なぜでしょうか。わたしたちはキリストに向きを変えて生きてい
るからです。それがキリスト者です。
ここでは、ファリサイ派の人々のように、自分たちは罪人だと思ってい
ない者たちに対して悔い改めが語られています。因果論の虜にされている
者たちに対する警告です。彼らの問題は、さらに、災難にあった人たちに
対する同情がありません。そのような悲しみに共感もなく、あるのは何か
罪を犯していたのでそのような目に遭ったのだとの裁きです。
他方、既に悔い改めて主イエスを信じているわたしたちキリスト者も、
そこで考えます。なぜ、彼らではなく私が悔い改めたのか。自分に深い洞
察力があったからか、熱心に聖書を読み、礼拝に集ったからでしょうか。
そうではありません。主イエスが来てくださり、わたしたちを招いてくだ
さったからです。ただ主イエスの憐れみによります。
主イエスに立ち返る前は、わたしたちも同じように、人の不幸を見ても
無関心でありました。そのようなわたしたちを主イエスは招いてください
ました。そしてわたしたちにも悔い改めるようにと語りかけてくださいま
した。わたしたちの回心に先立って主イエスの招きがあり、主イエスの言
葉があり、主イエスの十字架の犠牲があります。
ニネベの人々は、その時はヨナの言葉を聞いて悔い改めました。しかし
ながら、結局偶像礼拝に戻り、悔い改めは続きませんでした。その結果、
バビロンに滅ぼされてしまいました。
悔い改めは一度限りではありません。ただ一度で義とされる局面もあり
ますが、日毎に主イエスに近づく歩みが続きます。その面では日毎の悔い
改めに生きることが大切です。わたしたちも主の憐れみにより頼んで最後
まで悔い改めの生涯を送りたいと願います。それは日毎の悔い改めです。
毎日主イエスを知らずに亡くなる方がおられます。わたしたちの友人や家
族もそこに含まれています。わたしたちは、先に赦されたに過ぎません。
教会とわたしたちは彼らのための祈り、共にここで主イエスに向きを変え
ようと招くことができるように祈り続けています。悔い改めと罪の赦しが
主イエスのもとにあるからです。祈ります。