2021年05月09日「霊と肉」

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聖書の言葉

ガラテヤの信徒への手紙 3章3節~5節

メッセージ

 先週の日曜日は礼拝の後、すぐに花見川キリスト伝道所に行きまして、

信仰告白を志願された高校生の試問を行いました。質問に一つずつ丁寧に

答えてくださり、試問に合格して23日に花見川キリスト伝道所で横田先

生の司式のもとに信仰告白式を行います。このように一人の方が、回心し

て主イエスを信じることにわたしたちも大きな喜びを覚えます。彼女が、

主イエスを信ずるようになったのはまさに聖書を聞いて、説教を聞いて、

神様のことが分かって来たからです。そして試問会の最後に、お祈りもし

てくださいました。主イエスを信じて祈ることの背後に、聖霊なる神の導

きがあります。そこには一つの聖霊体験とも呼ぶことのできる現実があり

ます。そして信仰告白はキリスト者としてのスタートラインですから、こ

れから完成に向けて礼拝生活を続けてくださるように助言しました。これ

はわたしたち自身にも当てはまることであり、試問をしているわたし自身

も御言葉の前に立って試問を受けているような思いを抱きました。 

1.ガラテヤの信徒たちの課題

 ところが、そのように聖霊によって始めたキリスト者の営みが、途中で

ずれてしまうことが起こります。パウロはガラテヤの信徒たちに厳しい言

葉で、1節「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」、3節「あなたが

たは、それほど物分かりが悪く」と語ります。指導してくださった先生か

らこのような厳しい叱責を受けると落ち込んでしまうかもしれません。し

かし、キリスト者になってまだ間もないガラテヤの異邦人の信徒たちから

すれば、なかなか自分たちだけで福音の真理とそうでない事柄とを十分に

識別できなかったのでしょう。同情する面もないわけではありません。

 まだ新約聖書もない時代に、後から来たユダヤ人キリスト者の指導者た

ちから教えを聞き、特にエルサレムの権威や主の兄弟のヤコブの話等も聞

いて、信じてしまったのかも知れません。そして彼らがパウロよりも自分

たちの方が権威があり正しいのですと語り、その権威はエルサレムにあり

ますと言われれば、惑わされてしまうことも初期の異邦人キリスト者の現

実であったかもしれません。 

 まして彼らはギリシャの神々を伝えるわけでもなく、他の神々へと信徒

たちを誘惑するわけでもなく、キリストを宣べ伝えています。彼らもキリ

スト者であり、パウロとは異なるとは言え福音を伝えています。同じキリ

スト者であれば、ユダヤ人キリスト者の方が信頼できそうに見えたのかも

知れません。しかし、問題は教えにあるわけで、わたしたちも惑わされる

ことなく福音がなんであるかを自分自身で識別できることが大切です。

 しかし、このたびは結果は残念で、パウロ先生から叱責されることにな

りました。今後はこれを糧に自分たちの理解を深めることが求められてい

るわけです。そしてそれは、わたしたちの課題でもあります。

 ここでパウロが語る彼らの問題点は、「”霊”によって始めたのに、肉

によって仕上げようとしている」ことでした。

 霊によって始めることは、彼らがキリストを受け入れて信ずることは、

聖霊の導きによることであり、霊によって始めるなら、霊によって仕上げ

ることが筋であるということです。仕上げるというのは、生涯キリスト者

として歩み続けることです。ところが、そこに肉の問題が生じました。こ

れは比喩的に語られていますが、ここではユダヤ人キリスト者が教えてい

る割礼であり、ユダヤ人の律法を守ることでした。ユダヤ人からの迫害を

逃れるためにキリスト者ではありますが、ユダヤ人という隠れ蓑をかぶっ

て生きることをユダヤ人キリスト者は求めました。

 それではキリストによって与えられた救いを全うできません。そしてそ

のような民族的人間的な共同体の中にかつてパウロも居ましたが、そのユ

ダヤ人共同体の壁を主イエスが打ち砕かれてユダヤ人も異邦人も神の前に

は区別はないことが分かって、彼はユダヤ人をやめて、異邦人への伝道者

とされました。

 聖霊によって主イエスを救い主として信じたのにユダヤ人になってしま

ったら、それでは主イエスが壊した壁をまた再建することになります。パ

ウロはユダヤ人をやめたと申しましたが、それは人種的なことではなく、

ユダヤ教徒をやめてキリスト教徒になったということです。割礼を受ける

ということはユダヤ教徒になることを意味しています。そうなるとユダヤ

教キリスト派に異邦人キリスト者を組み込むことになってしまいます。

 しかし、主イエスは十字架で処刑されましたが、復活されて、パウロを

呼び出して、回心に導き、異邦人への伝道者として遣わしました。ユダヤ

人社会の中でユダヤ教徒をやめることは共同体からの追放を意味します。

ですから、パウロも迫害の対象になっているわけです。

2.信仰の体験の想起

 そのような中で信じることができたのは神の力によります。それが聖霊

によって始められた信仰です。しかも、この時には「あれほどの体験をし

たのは」と特別な聖霊による力ある業がなされたようです。そしてそのよ

うな聖霊体験と力ある業は、ガラテヤの信徒たちが福音を聞くことと連動

して語られています。

 ここでは力も業も複数形で記されていますので、継続的に、ガラテヤの

信徒たちに神が生きて働かれたことが示されています。けれども、ここに

は具体的な内容は語られていません。使徒言行録を見ますと、ペトロが足

の不自由な人を癒し、異邦人のもとに遣わされる時には幻を見たりと、特

別な経験が記されています。この時もガラテヤで信徒たちを励ますような

力ある業がなされたのでしょう。

 しかしながら、ガラテヤの信徒たちはそのことを忘れてしまったのか、

惑わされてしまいました。百聞は一見にしかずとわたしたちは考えますが、

ここでは体験も忘れられているわけです。

 ガラテヤの信徒たちは体験はしましたが、それが揺るぎない信仰を支え

る土台となる経験にまでは深まりませんでした。森有正という哲学者がお

られました。明治政府で初代の文部大臣であった森有礼の孫で、キリスト

者の家系でお父さんも牧師でした。ご本人もキリスト者です。彼は日々わ

たしたちが出会う出来事の体験から経験を峻別し、もろもろの体験の中で

確実な感触をもって結晶化してくるものを「経験」と名付けました。

 神の力ある業、それが彼らの共同体で複数、継続的になされて人々は信

仰への促しをも感じたと思います。けれども、それが福音の言葉によって

主イエスの言葉によって解釈されて信仰の経験にならないと、体験も忘れ

られてしまいます。ですから、ここでパウロは福音を聞いて信じることを

強調しています。福音は、主イエス・キリストの十字架と復活を内容とす

るパウロの教えであり、説教でした。特別な体験を経験として解釈する根

拠が福音の言葉です。その体験に神の導きを見ることができるかどうか。

そして聞いて見たのだから、そのことを思い起こして欲しいとパウロは勧

めました。

 先週の水曜日には青年リトリートが行われました。コロナ禍ですので、

昨年に続いてオンライン開催になりました。自宅参加できるメリットもあ

り多くの方たちが共に集い学びと交わりの時を深めました。

 二日目の礼拝についての学びを担当しました。そこでも触れましたが、

どうしたら神様が分かるのかということが一つの問いになるわけです。わ

たしたちは神様を礼拝しています。それは如何なることかと申しますと、

ここに神様が共にいてくださると約束をしてくださっているからです。こ

こに神様がおられるので、ここで礼拝が成り立ちます。

 しかし、神様は目に見えません。形もありません。寺なら仏像がありま

すが、教会は神を像にしません。霊を受けると言われても霊も見えません。

そうなると何か信仰生活の中で目に見えるしるしが欲しくなります。ユダ

ヤ人キリスト者は、そこで割礼、食べ物の規則、安息日の規則を教えたの

かも知れません。体にしるしを帯びることで、キリスト者としての共同体

の一員となるわけです。しかし、それは主イエスの教えではありません。

その規則では、そうでない異邦人を排除し、主イエスの福音とは異なる教

えになるからです。

 それでは主イエスは礼拝のために何を用意されたのか。主はご自身が共

にいると約束されご自身をここに置いてくださいました。約束は主の教え

が語られること、そして洗礼と聖餐と祈りによって成就します。そしてそ

れらを用いることで聖霊はわたしたちの内に信仰を与えます。信仰によっ

て、わたしたちは共におられる主イエスを認識します。救いのしるしはそ

の時には洗礼と聖餐です。ガラテヤ書でパウロは、アッバ、父よと祈る時

に、それは御子の霊によると4:6で語りました。わたしたちには霊は見

えませんが、わたしたちが祈る時に、聖霊が働いておられます。それがわ

たしたちの信仰体験です。

 風は見えませんが、木々が揺れれば風が吹いていることは分かります。

ここで福音を聞いて、祈るときにわたしたちにも霊は豊かに注がれていま

す。旧約聖書には霊の注ぎは終わりの時代のしるしであると預言されてい

ました。今、わたしたちにも霊によって新しい命が始まりました。わたし

たちも、礼拝で福音を聞き続けて、終わりまで、聖霊の導きに信頼して歩

むようにと招かれているのです。祈ります。