2021年05月02日「福音を聞いて信じる」

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聖書の言葉

ガラテヤの信徒への手紙 3章1節~2節

メッセージ

キリスト教は、パレスチナ、今のイスラエルが発祥の地であり、最初のキリスト者は皆ユダヤ人でした。イエス・キリストがユダヤ王家の血筋として生まれて、旧約聖書に約束されていたメシア、救い主として活動し、その弟子たちが主イエスの十字架の処刑と復活の後で、主イエスを証しして教会が誕生します。パウロは主イエスの直弟子であった12使徒と言われる弟子団とは別の形で、復活された主イエスによって回心へと導かれて、教会の迫害者からキリスト者に改宗して、異邦人にキリストを宣べ伝える使徒とされました。

1. 古代の手紙とわたしたち

この手紙は、パウロからガラテヤの諸教会に当てられた手紙ですので、当時のガラテヤの諸教会の状況に則して書かれています。古代の教会の特別な事情の故に書かれた手紙です。そしてわたしたちは今、21世紀の日本でこの手紙を聞いています。置かれた状況も時代も異なります。感染症の危機の中にもあり、古代世界とは時代も環境も地域も全く異なります。しかし、ここにはキリストの救い、ただ福音を聞くことによってのみ救われるという人類共通の課題が示されています。それをどのように受け止めるのか。それはいつの時代も、どの地域の人々でも、およそ人間であれば、誰にも関わる決定的な問題でした。

2.ガラテヤの人々と福音

ここでの問題はキリストを信ずるだけで救われるのか、他に聖書が教える律法を守らないと救われないのかが問われています。日本人の感覚で考えますと、現世利益を救いと考えるでしょう。古代のガラテヤ地方の方たちも一度疫病が蔓延しますと多くの方たちが犠牲になりました。人々はそのような社会の中で、ギリシャの神々やローマ皇帝を祀る神殿などで無病息災を祈願したでしょうし、もともと祖先はケルト人でしたから、ケルト伝来の自然崇拝の宗教、またフリギア人の神々に助けを求めました。それらの遺跡が残されています。

そのような町にパウロが行き、主イエス・キリストを伝えました。それは同時に旧約聖書の父なる神、そして御子なる主イエス、聖霊なる神を伝える事になります。そして何よりも主イエス・キリストの十字架の犠牲によって、生きて働かれ、世界を造り、歴史を支配される生ける神による死を超えた命の福音を伝えたわけです。そしてガラテヤ地方の町々に、主イエスを神の子救い主と信ずる人々によって教会が始まりました。

3.ガラテヤの諸教会の問題

ところが、その彼らが、後から来たユダヤ人キリスト者の指導者に惑わされてしまいました。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」とパウロの嘆きが語られています。しかし、ガラテヤの信徒たちも弁解したかったでしょう。「『誰があなたがたを惑わしたのか』とパウロ先生はおっしゃいますが、わたしたち信徒だけでは判断が難しいと思います」と言う感じです。というのも、後から来たユダヤ人キリスト者の指導者たちは、パウロの使徒としての権威を否定し、自分たちこそ正当なエルサレムの弟子たちから学んだ者だと言ったのでしょう。そして異邦人キリスト者が救いを全うするためにはユダヤ人の律法に従う必要があると主張しました。 ここで「惑わした」と訳されている言葉は、新約聖書では、ここでだけ使われています。新約聖書以外の文献では、悪意ある視線を他者に向けて病気や災難を及ぼす行為を意味しています。後から来たユダヤ人キリスト者がそのような魔術的な行為をしたとは考えられません。旧約聖書で禁じられているからです。他のユダヤ教の文書ではこの言葉は、嫉妬深い、妬むという意味で用いられています。妬みの眼差しではないかと考える学者もあります。パウロからすれば、ガラテヤの信徒たちの豹変ぶりに驚くあまり、何か深い妬みの眼差しが影響したのだろうかとの驚きが表現されているわけです。

4.十字架につけられたキリスト

パウロは「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と語ります。それなのに一体何が起こったのかというわけです。この問題は、わたしたちの教会の状況とは異なります。わたしたちにはユダヤ人の習慣にこだわる指導者が来ることはないからです。しかし、伝えられて信じた福音と異なる教えに惑わされて、信仰がそれてしまうことは、歴史の中ではしばしば起こりました。ですから、教会はいつでも警戒が必要です。そのために教会は信条を生み出し、指導者を管理する制度、牧師を管理する制度を整えてきました。そして何よりもここでパウロが語るように、主イエスによって示された救いとは何であるのかを、教会は聖書から聞き取って来たわけです。

ここで興味深いのは「十字架につけられた」と訳されている言葉は、過去形の動詞ではなく、完了形の動詞が用いられていることです。しばしば主イエスのただ一度の十字架の犠牲を語る時には、過去の一回の行為として過去形が用いられます。

けれども、パウロはここと2:19では完了形を用いました。実際には主イエスは既に十字架から下ろされて、墓に葬られて、埋葬され三日目に復活されて天に昇られましたから、十字架に付けられたままではありません。しかし、それを承知の上で敢えて完了形で記したパウロの心は、キリストの十字架の犠牲の効果は今も継続しているということを強調したかったからでしょう。それはあなたたちの罪の赦しが継続しており、それはただキリストの十字架の犠牲によるのであって、何か規則を守ったり、ユダヤ人のような生活をしたりすることではないということです。

5.パウロの質問

そこでパウロは手紙を通じて、ガラテヤの信徒たちに質問し、自分たちが体験したことを思い起こして欲しいと訴えました。それは、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」という質問です。

ここで唐突に「霊を受けた」という言葉が用いられています。この霊は主イエスが弟子たちに約束していた聖霊です。主イエスが天に昇られてから後、弟子たちを支えるために聖霊なる神を派遣すると約束しておられました。それは主イエスが天に昇られてから10日目にエルサレムで実現します。確かに、新約聖書の時代にはしばしば聖霊が弟子たちに注がれて、奇跡が起こったり、不思議な業が示されたりしました。ガラテヤの信徒たちにも聖霊が注がれて、5節では「奇跡を行われる方は」と主イエスの力ある業が示されていますから、何事かがなされて彼らはそれを体験したかも知れません。

しかし、ここでパウロは、それを詳細には語りません。病気が癒されたり、死人が生き返ったり、異なる言語を語り出したりということは新約聖書では他にも記されていますが、ガラテヤの信徒への手紙のこの箇所には語られていません。 むしろ、ここでは特別な奇跡ではなく、「福音を聞いて信じた」ことが強調されています。もともとの言葉では「信仰を聞くことによって」という言葉です。この信仰は、主イエス・キリストが神の子であり、救い主であることを理解する知識とその主イエスへの信頼を含んでいます。ですから、それはただ主イエスを信ずる信仰のみを語るパウロの説教を聞いてということを意味しています。

そして彼らは聖霊を受けて主イエスを救い主と信じて、洗礼を受けました。それはユダヤ人が重んじていた律法を行ったからではありませんでした。その体験を思い起こして欲しいというのがパウロの願いです。

ここでは異教徒であるガラテヤの人々が、主イエスを信じて従うようになったことが聖霊の顕著な働きであることが強調されています。そして彼らの信仰は、律法を行うのではなく、主イエスに従う生きかたを始めていきました。福音を聞いて信ずるということは、主イエスを信頼して従うということです。エスを知り、信頼するとわたしたちの生きかたが変わります。わたしたちも主イエスに現世利益を祈り無病息災を祈ります。しかし、それだけではありません。御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が天になるごとく、地にもなさせたまえとまず神の栄光を祈り願い求めるようになります。わたしたちの祈願が変わります。

聖霊の働きは、人間の目に不思議なことや奇跡も新約聖書には語られていますが、当時も今も変わることのない普遍的なお働きは、わたしたちの心を主イエスへと向けさせてくださり、神に祈る祈りを与えてくださることです。

わたしたちは21世紀のコロナ禍に生かされています。どの時代でもわたしたちの生活と命を危機にさらす様々な出来事が起こります。どのような時でも揺らぐことのない確かな信仰がここにあります。キリストの十字架は、変わることのないわたしたちを救う福音なのです。祈ります。