2021年07月25日「キリストへの信仰」

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キリストへの信仰

日付
日曜朝の礼拝
説教
小峯明 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 3章21節~22節 申命記6:20-25

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聖書の言葉

ガラテヤの信徒への手紙 3章21節~22節 申命記6:20-25

メッセージ

コロナ禍の中で、わたしたちも感染予防に努め、熱中症にも警戒しなが ら礼拝を重ねています。コロナウイルスの感染者も増加する中でオリンピ ックも先週の金曜日から無観客で始まりました。世界の200以上の国と 地域から選手と関係者が来日しています。近代オリンピックは37回にな るとのことですが、古代ギリシャに発祥した競技会に起源があります。

1.競技会に参加するには パウロは、ギリシャのコリントにも伝道し、その地に教会を建てます。

パウロの時代にコリントの町でも競技会が行われていました。そこでパウ ロはしばしば信仰者の営みを競技会に譬えて語ります。「あなたがたは知 らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人 だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、 すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わ たしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(コリント一9: 24-25)と語っています。

オリンピックは各国のトップクラスの選手しか出場ができませんので、 参加するだけでも相当の努力と練習が必要です。しかし、信仰の営みをオ リンピックに譬えると、わたしたちは誰もがただ「イエス・キリストへの 信仰によって」参加できます。

それに対して、ユダヤ人キリスト者の伝道者たちは、キリスト教信仰の 営みに参加するためには、キリストへの信仰だけでは不十分であり、律法 を行うことが必要だとガラテヤの教会に教えました。パウロはそれは惑わ しであると語りました(1:7)。

2.律法と福音の関係

「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか」とパウロは 続けて語ります。手紙をガラテヤの信徒たちに書きながら、相手の質問に 答えているように記しています。律法の実践を勧められている信徒たちの 質問を想定して答えているかのようです。ですから、パウロの手紙はとても対話的で興味深いと思います。パウロ先生、信仰だけで十分なら律法は 要らないのではないでしょうか。主イエスを信じたわたしたちは、律法を どう考えたらよいのでしょうか。律法は神の約束と対立することになるで しょうか、というわけです。

この質問に対して、パウロ自身が「決してそうではない」と語ります。 律法は必要があって神様が旧約聖書の時代にユダヤの人々に与えたもので す。ただし、律法は人を生かすことはできないと語ります。

生かすと訳された言葉は命を与えるという意味の言葉です。そしてこの 言葉は、パウロの手紙では、神が主語として用いられています。言いたい ことは、神だけが人を生かすことができる御方だということです。ローマ 4:17b「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させ る神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」 と語られています。ここで「命を与え」と訳された言葉が「人を生かす」 と訳された動詞と同じ言葉です。

しかし、ユダヤ人キリスト者の伝道者たちは、律法と約束の二つが命を 与えることができると考えたわけです。なぜでしょうか。一つは、律法が 与えられた時に、天使たちも働いていたとパウロの時代のユダヤ人たちは 考えていましたから、天使たちの働きは天の神様の委託を受けているので 重要だと考えたということです。

そしてもう一つは、今朝共に聞きました申命記6:24-25に「主は 我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるように し、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命 じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよ う注意するならば、我々は報いを受ける」と語られています。モーセは子 どもたちから律法は何のために与えられたのですかと聞かれたら、そのよ うに答えなさいと語りました。そしてそれは律法を与えた神様の意志を示 しています。報いを受けるためには律法に従うことが必要なので律法を守 るしかないのだとユダヤ人キリスト者は教えたわけです。

3.律法の役割 しかし、申命記6:21-23には「我々はエジプトでファラオの奴隷

であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。

・・・我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられ た」と語られています。律法を守ったからエジプトから助け出されたので はありません。それは神様がアブラハムとの約束を思い起こされたからで す。出エジプト記2:23-25には「それから長い年月がたち、エジプ ト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。 労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞 き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラ エルの人々を顧み、御心に留められた」とあります。ユダヤの人々は、た だ苦しい中で叫んだだけでした。

彼らの救出の根拠は律法によるのではなく、神の約束によります。そし て彼らは神様を信じて、従いました。ですから、エジプトの奴隷状態から 助け出されたわけです。

既に触れたように、オリンピックに参加するためには、それこそ大変な 努力と実践が必要です。訓練と練習が必要です。しかし、神様の信仰の競 技会に参加するためには神様の約束を信ずるだけでよいわけです。

律法は命を与えません。もしそうなら、約束は不要になりますし、律法 という道と約束という道は互いに対立してしまいます。その上で、パウロ は競技に参加している者は節制が必要だと語りました。それは申命記が掟 を守ると報いを受けると語っていることと同じです。途中でだらけて神様 への感謝を忘れてしまえば、あるいは誘惑に負けて、他の神々に従うよう になれば脱落してしまいます。

ですから、競技会に参加している者は脱落しないように注意が必要とい うことです。この区別をユダヤ人キリスト者の伝道者たちは混同していた わけです。彼らにとっては、自分たちの先祖が、律法を軽んじて、偶像礼 拝を繰り返したために、国も土地も神殿も失った過去の苦い経験を覚えて いました。ですから、神の民として生きるためには律法は大切だと理解し ているわけです。

契約の中にいて律法が大切であることと、契約に入るために律法が必要 であることを混同していたわけです。それをパウロは区別して語ります。 律法は命を与えることはできません。もしそうなら、最初からそのように 神は教えたであろうということです。

本来、律法は命を与えることはできませんので、約束とは対立しないわけです。それでは律法は何をするのかと言いますとわたしたちに罪を教え るという働きをし、その働きで律法は約束のために働くわけです。パウロ も律法が不要であり、必要ないとは考えていません。

律法はわたしたちの罪を明らかにします。それをパウロは「しかし、聖 書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」と語りました。ここ でパウロの言葉を具体的に示す聖書の箇所としてわたしたちが思い浮かべ るのは、アダムの堕落とその結果を語る創世記3章の記事でしょう。神は アダムを人類の代表として、命の契約を結ばれました。それは「善悪の知 識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と いう約束でした。食べなければ死なないことが想定されています。

しかし、アダムとエバはこの神様との約束を破ってしまいます。ヘビに 騙されて、食べた結果、彼らは塵に返ることになりました。これが肉体の 死という裁きです。そして死ぬまで女性は出産の苦しみと性による差別に 苦しみ、男性は食べるために死ぬまで働かなければならなくなりました。 さらに、食べるための労苦に関連して、土は呪われるものとなったと語

られています。罪の呪いは人間だけでなく世界全体に及びました。 わたしたちは神に造られた存在ですから心に宗教の種を宿しています。

しかし、堕落によって原罪を持って生まれてきます。そして塵に向かって いきます。それを教えるのが律法です。

罪が分かるとわたしたちは絶望してしまいます。ですから、神様はアダ ムが堕落した直後に、主イエスを遣わす約束を創世記3:15に記してく ださいました。ヘビの頭を砕く者を女の子孫に送るという約束です。この 約束は、アダムが律法を守ったからご褒美に与えたものではありません。 とんでもない失敗をしたので、神様は人間を助けヘビを砕くために自ら身 を乗り出して行動されました。

その救い主のためにアブラハムが選ばれて約束が具体的になり、異邦人 も義とされる道が開かれて約束の救い主として主イエスが来られました。 わたしたちは簡単には自分の罪を認めることができません。

死に向き合うことになっても罪を罪として認識できません。ですから、 神様は、知らずに苦しむわたしたちを救うために、主イエスを遣わしてく ださいました。「神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じ る人々に与えられるようになるためです。」祈ります。