1.この世の反対の中で立つ教会
使徒たちは、生まれつき足の不自由な人をイエス・キリストの御名によって癒したことで、ユダヤ人議会に捕らえられました。しかしペトロとヨハネは、大祭司や律法学者たちを前にしても恐れることなく、「救いはただイエス・キリストにある」と証言しました。議会は奇跡そのものを否定できませんでしたが、権力によって弟子たちを黙らせようとし、「今後イエスの名によって語ってはならない」と命じました。これは単なる発言の制限ではありません。主イエスが「地の果てに至るまでわたしの証人となれ」と命じられた教会の使命そのものへの挑戦でした。
一方で弟子たちは、この出来事を詩編2編の成就として理解します。地上の王や権力者たちが神とその油注がれた方に敵対するという預言が、ヘロデ、ピラト、ユダヤ人たちによる主イエスの十字架において実現したのです。しかし、その人間の反逆さえも神のご計画の中にあり、復活によってキリストはすでに勝利されたのです。
2.弟子たちの戦いは私たちの戦い
しかし、主イエスが世に勝利されてもなお、弟子たちの地上での戦いは終わっていませんでした。今度は復活の証人となった弟子たちが、この世の反対と対峙することになります。
そしてそのことは、現代の私たちにも当てはまります。私たちがキリストを証しし、その御言葉に従って生きようとするなら、何らかの反対や抵抗に直面します。それは必ずしも「イエスを語るな」という直接的な言葉ではないかもしれません。家族や友人、職場や学校の人々を通して、信仰を妥協するよう求められることもあります。むしろ、全く反対や葛藤を経験せずに信仰生活を送っているなら、自分が本当にキリストに従う歩みをしているかを吟味する必要があるでしょう。キリストの道には、必ずこの世との緊張が伴うからです。
3.弟子たちがまずしたこと
では、弟子たちは迫害を受けた時に何をしたのでしょうか。
彼らはまず仲間たちのもとへ戻り、共に集まって祈りました。使徒言行録を見ると、弟子たちは重要な出来事のたびに集まり、心を一つにして祈り、礼拝しています。主の昇天後には聖霊を待ち望んで祈り続けました。ペンテコステの後には、新しく加わった信徒たちと共に礼拝を守りました。そして迫害を受けた今回も、再び集まって祈っています。弟子たちにとって、伝道や奉仕の働きは礼拝から始まり、礼拝へと戻っていくものでした。これは私たちが日曜日に礼拝をささげ、週の生活へ遣わされ、再び礼拝へ帰って来る歩みと同じです。
教会には伝道や奉仕など多くの使命があります。しかし、それらは礼拝によって支えられています。礼拝が失われれば、教会の働きも信仰の力も失われてしまいます。信仰は個人のものですが、決して孤立したものではありません。弟子たちは聖霊を受けた後も、「一人で十分だ」とは考えませんでした。むしろ繰り返し集まり、共に祈り、共に礼拝し続けました。私たちも礼拝によって養われてこそ、それぞれの生活の場でキリスト者として歩むことができるのです。
4.教会が祈るべき祈り
さらに注目すべきことは、弟子たちの祈りの内容です。
彼らは「迫害を取り除いてください」とは祈りませんでした。「敵を滅ぼしてください」とも祈りませんでした。そうではなく、「どうか大胆に御言葉を語らせてください」と祈ったのです。
教会に必要なのは、困難の消滅ではなく、困難の中でも証しを続ける勇気でした。相手が誰であろうと、どのような反応を示そうと、なおキリストを語る大胆さを求めたのです。
すると神はその祈りに応えられました。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」と記されています。神は彼らを守るだけでなく、さらに証人として立たせてくださいました。
その後の教会の歴史も同じです。迫害や苦難は何度も起こりました。多くの殉教者が生まれ、教会は幾度も試練に直面しました。しかし神は教会の祈りに応え続け、御言葉は語り続けられてきました。そして今もなお語られています。
私たちもその教会の一員として召されています。だからこそ、私たちも礼拝に集い、心を一つにして祈りたいのです。
「主よ、困難をなくしてください」だけではなく、
「主よ、どのような状況の中でも、もっと大胆にあなたの御言葉を語らせてください」
この祈りを、教会として共に祈り続けていきたいと思います。