Ⅰ.聖霊が弱い弟子を大胆な証人へと変える
私たちは日常生活の中で、言うべきことが言えなかったり、反対に余計な一言を口にして後悔したりすることがあります。必要な時に必要な言葉を語ることは、決して簡単ではありません。
しかし今日の聖書でペトロとヨハネは、ユダヤ人の指導者たちから「イエスの名によって語ってはならない」と命じられたにもかかわらず、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と大胆に証言しました。かつてのペトロは、イエス様が捕らえられた時、「わたしはあの人を知らない」と三度も主を否認した人物でした。その弱く臆病だったペトロが、なぜこれほど大胆になれたのでしょうか。それは彼自身の力ではなく、聖霊が与えられたからです。
イエス様は弟子たちに、「どんな反対者でも対抗できないような言葉と知恵を授ける」と約束しておられました。そしてペンテコステの日、聖霊が与えられたことによって、その約束が実現したのです。聖霊を通して主ご自身が弟子たちと共にいて、語るべき言葉を与えてくださったのです。
Ⅱ.教会は福音を語るために誕生した
ペンテコステの日は「教会の誕生日」と呼ばれます。それは、この日から弟子たちがイエス・キリストの十字架と復活を公に宣べ伝え始めたからです。もちろん神の民は旧約時代から存在していましたし、弟子たちもペンテコステ以前から共に集まり祈っていました。しかし、聖霊を受けた弟子たちが世界に向かって福音を語り始めた時、教会はその本来の使命をもって歩み始めました。
ですから教会は、誕生の時から伝道と切り離せない存在です。教会は単なる集会や建物ではなく、神に救われた者たちがイエス・キリストの救いを証しするために集められた共同体です。また伝道とは、難しい神学を説明したり、立派な話をしたりすることではありません。ペトロが語ったように、「見たことや聞いたこと」を語ることです。私たちが聖書を通して知った福音、そして自分自身が受けた神様の恵みを証しすることこそ、教会に託された使命なのです。
Ⅲ.言葉と生き方によって福音を証しする
それでも、「自分には伝道などできない」と感じる人もいるでしょう。しかし福音の証しは、言葉だけによるものではありません。
この場には、ペトロによって癒された足の不自由な男性が立っていました。彼は何も語りませんでしたが、その存在そのものが力強い証しとなりました。議員たちは、彼が実際に癒されている姿を見て、反論することができなかったのです。
同じように私たち自身も、主によって救われた証人です。罪や絶望の中にあった私たちが、キリストによって赦され、新しい命を与えられて生きている。その歩みそのものが福音を語っています。
教会とは、罪の中で倒れていた者たちが、主の御声によって立ち上がらせていただいた人々の集まりです。私たちは決して強い者ではありません。しかし聖霊なる神様が共にいてくださるので、自分の力ではなく主イエスの御名によって大胆に歩むことができます。だからこそ私たちは、言葉によっても生き方によっても、「見たこと、聞いたこと」を語り続けます。そしてイエス・キリストこそ唯一の救い主であることを証ししていくのです。