1.裁判の証言から日常の倫理へ
本日は十戒の第九戒「隣人について偽証してはならない」に心を向けたいと思います。
原文のニュアンスで言えば、この戒めは本来、裁判における「偽りの証言」を禁じるものでした。なぜなら古代において、DNA鑑定などの科学捜査がない時代、裁判における「証言」は生死を分ける決定的な重みを持っており、偽証は、「冤罪」を生み出して隣人の人生を根底から破壊する行為だったからです。
しかし、裁判で証言する機会は、私たちの日常では多くありません。そこで教会はこの戒めを、「噓をついてはならない」という、より日常的な倫理として受け止めてきました。ただし現実の人間関係においては、「正直であること」と「相手を傷つけないこと」との間で葛藤が生じます。「本音」と「建前」の間で揺れ動く中で、私たちは何をもって「真実を語る」と言えるのでしょうか。
2. 神への真実と隣人への真実
この第九戒を理解する鍵は、第三戒の「主の名をみだりに(偽って)唱えてはならない」にあります。この二つの戒めは表裏一体です。神を畏れ、神の栄光を重んじる者は、神にかたどって造られた「隣人」を軽んじることはできません。たとえ苦手な相手であっても、その人が神にとって大切な存在であることを認めるなら、私たちは言葉によってその人の名誉を汚すことはできないはずです。
ヤコブの手紙にある通り、言葉は全身を制御するほどの影響力を持ちます。言葉一つで人を活かすこともできれば、魂を殺すこともできる。第九戒は、私たちの言葉が他者の命を左右する恐ろしい力を持っていることを警告しているのです。
3. 偽りの言葉とキリストの真実
聖書の歴史は、言葉による罪の歴史でもあります。蛇の誘惑、カインの嘘、ヤコブの欺き。そしてその極みが、主イエスを十字架へと送った偽りの証言です。さらに、弟子ペトロの「あの人など知らない」という裏切りの言葉もまた、自分の身を守るために愛する者を捨てる、私たちの罪深い姿を映し出しています。そしてそれらの姿は、言葉によって神と隣人を裏切る、私たち自身の姿でもあります。
しかし、そのような罪人に対して、主イエスは最後まで真実の言葉を語り続けられました。ペトロの裏切りを見越して、「あなたのために祈った」と告げ、十字架によってその罪を贖われたのです。復活の後も、主はペトロを責めることなく受け入れ、回復へと導かれました。ここにこそ、決して揺らぐことのない真実の言葉、愛と赦しの言葉があります。
4:刃の言葉から、愛の言葉へ
第九戒が求める「真実」とは、冷たい正論や人を裁く言葉ではありません。それは、愛に根ざした言葉です。聞く人に恵みを与え、造り上げる言葉こそが、隣人に対する真実の言葉です。 そしてそのような言葉は、他者を攻撃する言葉や噂話から距離を置き、キリストが命をかけて愛された人格として隣人を見つめるところからしか生まれないのです。
現代社会は、SNSやインターネットを通じて、匿名性の陰から他人を論破し、攻撃し、抹殺しようとする「刃の言葉」に溢れています。フェイクニュースや陰謀論が飛び交う中で、多くの人々が傷つき、疲れ果て、本物の「愛の言葉」を渇望しています。そして教会こそが、十字架に示された神の真実の愛の言葉が語られる場所なのです。この愛の言葉に養われるとき、私たちの言葉もまた、人を傷つける刃ではなく、人を生かし、慰め、建て上げる言葉へと変えられていきます。
第九戒が私たちに求めているのは、沈黙することではありません。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉」を語ることです。キリストに赦され、愛されている者として、隣人を「キリストが命をかけて愛された大切な存在」として見つめる者に変えらていく時に、その私たちの言葉が、誰かを貶めるためではなく、疲れ果てた者を慰め、立ち上がらせる「癒やしの言葉」へと変えられていくのです。